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【魚住太郎ロングインタビュー】17年続く、福岡のアニソンDJパーティー「デルタポップ」はどのようにして産まれたのか


魚住太郎

福岡で17年に渡って開催されている、アニソンDJパーティー「デルタポップ」。老舗のアニソンDJパーティーとして、愛されているこの「デルタポップ」を主催しているのが、魚住太郎である。筆者もこのパーティーのメンバーとしてかつてDJしていたメンバーの一員なわけだが、その「デルタポップ」はどのようにして今れたのか、その秘密を解き明かすべく、インタヴューを実施。魚住太郎はどのようにして、「デルタポップ」を立ち上げたのか。そしていまアニソンDJシーンに対して、どのような気持ちを抱いているのか。15000字を超えるフルボリュームでたっぷり語ってもらった。

取材&文:ニシダケン

【デルタポップ vol.49】

■2024.9.1 Sun
■15:00-21:00
■at 福岡セレクタ
■¥2000-w/1D

幼少期からの音楽遍歴


ーーまずは、生まれた年から聞いてもいいですか?

1977年。今年で47歳。

ーー幼少期はどういう子だったんですか?

結構親が転勤族だったんだよね。それで九州を転々としてた。自分で言うのもあれだけど、いろんな人たちと仲良くできた。友達は多かったと思う。転勤転勤してその土地と土地で仲良くなるんだけど、そんなに数ヶ月のかかわりで離れていっちゃうみたいな。そんな感じがずっと続いてたかな。それで小学校2年生ぐらいからは、福岡の飯塚市に同じところで生活してた。それから中学生のときまで飯塚で、高校生からは飯塚に住んでたけど、北九州の学校に行って。大学は福岡でみたいな感じ。

ーーアニメは幼少期から見てました?

主体的には、ほとんど見たことないんだよね。だからいわゆるヲタクではなかった。もちろん世代的にはジャンプ黄金世代的だから、「ドラゴンボール」とか「スラムダンク」は流行ってたから見てたけど。そもそもアニメに主体的に触れたのが29歳の頃なんだよね。いわゆるどっぷりオタク的なアニメとの接し方みたいなのは、2006年以降。漫画とかアニメとかよりも、小っちゃい頃から音楽が好きだったんで、そっちのほうがメインだったかな。

ーー小学校くらいの時の音楽ってどういうのを聴いてたんですか?

音楽の目覚めはね、小学校1、2年生くらいかな。当時80年代とかのC-C-Bとか、その時代の歌謡曲とかいうか、流行りの曲を聴いてる感じ。小4、5くらいから、BOØWYにハマるんだよ。小学4年生くらいの時に、学校で一番喧嘩が強い6年生と仲良かったんだよね。その先輩の家に俺もちょこちょこ行かせてもらってて。それ影響でBOØWY聴いたりとか、そんな感じだったね。あとはTM NETWORKとか、そういったものも聴いてたよね。

ーー喧嘩の強い先輩とつるんでいたというのが、今の魚住さんからは全然想像つかないです。実際ヤンチャだった時代とかあるんですか?

語弊があるかもしれないけど、飯塚って結構土地柄的に、ヤンチャな人が多かったんだよね。だから中学生の頃はそうでもなかったんだけど、93年から5年の高校生の頃はもうずっとヤンチャなグループみたいなのにいたかなって感じはする。人をいじめたりとか、そういったグループとかじゃないけどね。楽しいことの延長線上がちょっと悪いことだったみたいな感じで。でもファッションはヤンキー的な感じゃないんだよね。ボンタン履いて、短い学ラン着てみたいなのではなかった。中学生ぐらいの頃はそういう人も多少いたけど、高校以降はわりとなんかクラスメイトがおしゃれな子多かった。

ーー音楽的には、中学の頃は何を聞いてたんですか?

中学生の頃はね、日曜日に福岡のAMのラジオ局で、3時間くらい50位から1位まで邦楽のランキングを発表する番組があって、それを毎週聞いてた。それで1位から50位まで、誰の何の曲やら全部ノートに書いてたんだよ。それで、その番組で次の週の1位から10位までの曲を予想するっていうコーナーがあって、それに俺毎週投稿してた。来週のランキングなんで、その週に発売された曲とかが大体何位くらいになるのかとか予想するんだよ。例えばB'zの曲であったりとか、ドリカムの曲が何位であったりとか。そういうのを予想しながら送って。で、的中すると、テレフォンカードがプレゼントでもらえたの。そんなことを、中学時代はやってたね。90年、いわゆるJ-POP黎明期くらいの頃かな。

ーー魚住さんって、洋楽も詳しいじゃないですか。洋楽を聴き始めたのはいつ頃からなんですか?

洋楽をどっぷり聞き始めたのは高校生になってから。中学生の頃からいろんな音楽を聞いてたんだけど、高校生になってからは、もうどっぷり洋楽リスナーになっていった。高1の頃に、高1、高2ぐらいの頃は、ヘビー・メタルとかハードロックとかをめちゃめちゃ聞いてた。メタルのルーツみたいなものまで。一番好きだったのはメガデスとか。ほかにもスラッシュメタルの流れのものだったり。当時で言ったら「BURRN!」とか「YOUNG GUITAR」みたな、そういった音楽雑誌をもう本当にもう隅から隅まで読み尽くしてた。最後のほうにレビューが載ってたから、「これがこういうものなんだ」とか探しながら聴いてたね。もうこれ一生多分メタルしか聞かないんだろうなって、高1ぐらいの頃は思ってた。ギターも当時買ってたし。

ーー中学時代に聴いてた、ラジオに投稿したりはもうしなくなるんですか?

高校時代は、割とラジオは聞いてたけど、投稿するとかいうことはなくなっていったね。あとはオールナイトニッポンとかをよく聞いてた。特に「電気グルーヴのオールナイトニッポン」を毎週聞いてた感じ。

ーーメタル以外も聴いてたんですか?

うん。メタル聴いてる人って、メタルに対する忠誠心みたいなのってすごく強いんだけど、俺はそうでもなかったんだよね。並行して、「rockin'on」とか「ミュージック・ライフ」とかの雑誌も読んでたし。そこに載ってる音楽も聞いてた。NIRVANAのカート・コバーンが亡くなったのが高校2年生の頃だったかな。当時、福岡のショッパーズのタワレコに行って、ポップでパートコバンが死んだみたいなこと書いてあって、「え!嘘?」って思ってびっくりした覚えがある。で高校3年生の頃に、いわゆるブリットポップっていわれる、BlurとかOASISとか、その周囲のいろんなバンドの盛り上がりとかがあって、それにはもうどっぷりハマったね。それで、徐々にメタルの情熱がそっちにスライドになっちゃった。


ーーアーティストでいうと、どのあたりを聴いていたんですか?

当時はオルタナっぽいのが流行っていたんだよね。BECKとか。あとGREEN DAYの「Basket Case」とかが入ってる「Dookie」ってアルバムもこの時期に出たんだよ。あとね、Lenny Kravitzもすごく人気があった。その頃は俺もベルボトムとか履いてた。高校3年生の頃はすごい痩せてたんで、ペタペタの70年代のサイケデリックな古着とか着て、レニクラのライブに行って踊ったりとかしてた。

ーー洋楽青年になったのは、雑誌の影響が大きいんですか?

そうだね。ロッキング・オンに対しては、影響をすごく受けたね。他とはなんか違ってほら、やたら文章が多いんだよ。あとやっぱりなんか尖ってる感じがあったんだよね。他の音楽雑誌と喧嘩したりとか、読者に毒付いたりとか。ロッキング・オンの音楽を聴く姿勢というか、「こういうことを考えながら音楽を聴いてるんだな」みたいな哲学の部分にはすごく影響を受けたところがある。

ーー邦楽は当時はあんま聴いてないんですか?

ちょこちょこは聴いてた。いわゆる渋谷系とかそのあたり。高2ぐらいの頃に、小沢健二とスチャダラパーの「今夜はブギー・バック」とか出て。そういったところは聴いてたかな。でもほぼ洋楽だったね。

クラブカルチャーとの出会い

ーー大学は福岡の方に行くんですよね。

うん。でも全然行かずに結局大学中退するんだよね。その時期にクラブの文化に触れて、どっぷりハマっていたから。

ーークラブ文化にはどうやって出会ったんですか?

「rockin'on」の編集者の田中宗一郎が「snoozer」っていう雑誌を始めて、「club SNOOZER」(通称:クラスヌ)というDJパーティーをやってたんだよ。それは日本中いろいろと回っていたんだけど、それが福岡でもやるって知って「まあ、どんなもんなんだろう」って行ったのが最初かな。当時は、博多駅の筑紫口の方にあった「DRUM Be-1」(今は親富孝通りにある)でやってた。

ーーはじめてのクラブはどうでしたか?

誰とも行くわけでもなく、ひとりで行ったんだよね。階段を降りて、フロアの扉を開けた瞬間に、Massive Attackの「Teardrop」が爆音で流れてた。俺、それ普段いつもひとりで聴いてたんだよね。でも普段ひとりで聴いてるのと、聴こえ方が全然違くて。爆音で聴いたら、「これなんて曲だろう、あ、Teardropか!」ってわかんなくなるくらいすごかった。

俺、大学の頃とか、特に友達とかもいなかったし、音楽の話を共有する人間がいなかったんだよね。だから音楽はずっと一人で聴いてた。「この音楽、ひょっとしたら世界中で俺しか聴いてねえんじゃねえか」みたいな、孤独な感覚で。でも、はじめてクラブに行って、でっかい音で自分の好きな曲がいっぱい流れてて。それにDRUM Be-1のフロアみちみちのお客さんが、すっげえ盛り上がってて。「ああ、俺が聴いてる曲を聴いてる人が他にもいたんだ」って思った。それが、なんか嬉しかったんだよね。それでも一気にクラブのもう虜になった。

ーーその衝撃は魚住さんにどんな影響を与えるんですか?

俺もDJをやってみたいなと思った。自分の好きな曲をかけて、それを他にも好きな人がいて、それで盛り上がってくれたら、どんなのになるんだろうと思って、やってみたいなと思って。俺が高校の頃もDJしてる友達とかいたんだけど、レコードでDJしてたんだよね。でも「クラスヌ」はCDでDJしてる人もいたんだよね。「CDでDJできるんだ」って思った記憶がある。それであとで調べてCDJっていう機材を知って。「じゃあこれを買ったら俺もできるのかな」と思って。翌年の99年にCDJとミキサーを手に入れた。当時は、パカパカ開けてCDを入れるような、CDJ-50だったね。

ーーわざわざCDJを買うんですね。

当時はCDJを置いてあるクラブなんてなかったんだよ。だから、機材は持ち込むしかなかったんだよ。俺はCDをめちゃめちゃ買ってたんだけど、レコードなんて持ってないし今から買うの大変、だからもうCDJでやるしか選択肢はなかったね。

ーーDJとしてのデビューはそのあとですか?

そうだね。で、俺高校が北九州だったし、北九州は知り合いが多いんで、ここらでDJデビューしようと。その当時、どこかのパーティーでDJさせてもらおうっていう気持ちなかった。というかそんなこと思いつきもしなくて。始めるんだったら自分でパーティーやらなくちゃダメだろうって思ってた。で、なぜか小倉で土曜日にオールナイトでやって、で、その翌日に今度は福岡でオールナイトでやるってことにしたんだよね。いきなりデビューが2日間連続。

ーーいきなりオーガナイザーで2日間連続オールナイトなんですね。

そうそう。それが22歳のとき。最初は北九州は小倉の「MEGAHERTZ」っていうクラブだった。福岡は全くつてがなくて、お客さんの集め方もよくわかんないけど、とりあえず、まずは小倉は友達がいっぱいいたんで、友達の友達とかいっぱい呼んだりして。よくわかんなかったけど、手書きでチラシとか、ポスターみたいなのを作って、よくわかんないままにいろいろやったんだよ。そしたらもう「MEGAHERTZ」にお客さん入りきれないくらい来たんだよね。まあDJ的には無茶苦茶だったんだけど、動員的には大成功だったね。。

ーーDJは他にいたんですか?

DJは友達5、6人でやったかな。友達に「DJやろう」って誘って。俺以外の人はもう最初で最後みたいな感じ。DJやる気なんてなかったけど、俺がやろうって言ったから一緒にやるみたいな感じで。だから音楽性なんてもうパーティーの音楽的な統一感なんて無茶苦茶だった。俺はブリッドポップとかが好きで、そういう音楽をいっぱいかけてて。で、他のDJはジャパニーズ・ハードコアとかミクスチャーとかかけてた。あとは山嵐で盛り上がってた。

ーー翌日の福岡でのイベントはどうだったんですか?

小倉のイベントが動員的には結構いたんで「お客さん来るんだ!よし、これだったらいけるかな」って思ったんだよね。と思ってあんまり告知もしてなかったんだよね。その翌日に福岡天神の「STAND-BOP」ってクラブでやったんだけど、行ったらお客さんが2人しかいなくて。しかもそれでオールナイト8時間。小倉はDJが5、6人いたんだけど、その日はDJ俺も含めて2人でだったんだよ。しかもキャッシャーを俺らが出さなくちゃいけないとか、その仕組みすら知らずに行ったんで。1人はキャッシャーをして、1人はDJ。あとはその入れ替わりみたいな感じで。しかもお客さん2人だし、全然盛り上がんない。その時に来てくれた2人のお客さんに、「本当に申し訳ない、俺なんてことをやっちゃったんだ」と思った。来たのに楽しめないお客さんを作ってしまったっていうことにすっげえ後悔して。これは前の日はあんなに楽しい感じだったのに、こんなに違うのかって。やっぱりこれ、軽い気持ちでしちゃダメだなっていう反省があって、その2日間でいろんなことを学んだ気がする。

ーーそこでDJをやめようと思わなかったんですよね?

やめようとは思わなかった。難しさを知ったけどね。で、それからしばらくはお客さんとしてクラブにひとりで遊びに行くような感じになった。当時クラブカルチャーって今と比べたら、まだアンダーグラウンドな感じがあって。ネットもそんなにまだ普及してない時代だったんで、「シティ情報ふくおか」っていうタウン雑誌があって、それに真ん中のほうにライブ情報とか、クラブ情報が載ってたんだよ。クラブの1ヶ月のスケジュールとか、そこに出るDJとかが全部載ってて。それを見て、毎週末ひとりでクラブに遊びに行ってた。誰かと一緒に行くとか、誰かに会うとかいう感じじゃなくて。とにかくクラブで音を聴きたいみたいな感じで。俺は当時は「OD」ってクラブでやってたテクノのパーティーによく行ってた。

ーーテクノも聴いてたんですね。

テクノも聴いてた。ロックのパーティーってあんまりなかったし。当時、電気(電気グルーヴ)のサポートメンバーだったDISCO TWINS(KAGAMIとDJ TASAKAによるユニット)のパーティーが俺の人生フェイバリットパーティーなんだよね。とにかく地元のローカルなパーティーにも行ってたし、とにかく音楽を一人で行って、一人で誰とも話さずに。一人でフロアで踊ってただけですごく楽しかったっていう感じだった。

ーーそれからどうDJクラブ友達ができていくんですか?

クラブ友達っていうのは結局できなかったんだよ。でもだんだんムクムクと「またDJやりてえな」っていう気持ちが出てきた。そして、DJのメンバーをちゃんと集めようと思った。それで俺は「rockin'on」のホームページにあった掲示板に、「DJ募集」って書いて、それで待ってたんだよね。実は大学の頃にちょっとだけバンドやってたことがあって、それも「rockin'on」のメンバー募集で集まった、スーパーカーのコピーバンド。だからもうメンバーを募集するとしたら、「rockin'on」の掲示板だろって思ってた。

ーー応募はあったんですか。

それでふたり応募があったんだよね。2人と会って「クラブに行ったこともないし、DJなんてやったことないけど、やってみたい」みたいな話をして。そしたら、そのうちの1人が、「筑後川でロックのDJパーティーやってるらしいですよ」って言ってたんだよ。そのDJたちが打ち上げで飲み会みたいなのをするんで、行ってみようって行ったの。そこで出会ったのが、「Hybrid Rainbow」っていうパーティーを後に立ち上げるS-Mileという男。そして、一緒にデルタポップのメンバーにもなる、ミシェルだった。そこで話をして、michelle+Ωにうちの新しいパーティーに出てもらうってことになった。

ーーそこからロックのパーティーをはじめるわけですね。

そう。そのあとからいろんなつてで、他にDJも集まってできるようになった。当時のパーティーの名前は、Orange Deluxeっていうイギリスのバンドの曲名からとって「LOVE45」。2003年ぐらいかな。俺としては念願のロックのパーティーができるみたいな感じになって。まあでも楽しかったね。20代中盤でまた青春的なものができた感じがした。

ーー「LOVE45」ではどういうのがかかってたんですか?

俺は「club SNOOZER」的なものをかけてたけど、割と思い思いの曲がかかったな。基本的にはロックがメインなんだけど、中村和義とか、くるりとか、スーパーカーとか、ナンバーガールとか。ちょっと話はずれるけど、俺ナンバーガールは「イムズホール」の頃からライブ見に行ってたんだよね。ナンバーガールがライブ終わった後に、外でダイレクトステージみたいなハガキを送るためのノートを向井秀徳が持って立ってて。それに書いたら、デビューした後も律儀にずっとハガキが来てた。

ーーそんな時代だったんですね。

そうそう。当時はロックのパーティーも福岡でいくつか出てきてたんだよね。「LOVE45」をやる前からあったのが「Orange」っていうパーティー。あとさっきのS-Mileがやってた「Hybrid Rainbow」とかね。他にも「BRITISH PAVILION」とか。この時代はね、楽しかった。だから一人でクラブに遊びに行くときはひとりで行ってたけど、仲間とかそういったものができたんだよね。そこのロックのDJの出会いがあって、「デルタポップ」のメンバーは、「LOVE45」の俺とミシェルと「Hybrid Rainbow」のメンバーだったsoupとかtomokiとかがいるし。でも当時はアニメの話とか一切したことなかった。後から聞いたら実はアニメの話をしてたらしいんだけど、俺「LOVE45」ではそんな話は全くしてなかったし、みんながそんなの見てることすら知らなかった。

福岡初のアニソンDJイベント「デルタポップ」スタート

ーーそこでアニソンの話に戻るんですけど、魚住さんはアニメを見始めたのが2006年なんですよね。

そう。2006年。29歳、遅咲き。でも2006年ってアニメがすごく盛り上がりはじめた年でもあるんだよね。だからちょうどその流れに乗ってきた感じがするね。その頃はね、俺「LOVE45」が終わって、DJもしてなかったんだよ。だからまあくすぶってた時代だね。

ーー当時はどんなアニメを見始めることになるんですか?

俺は当時2chをよく見てたんだよ。2chってアニメの話が多いじゃん。で、当時「ローゼンメイデン」とか「ハルヒ」の話があって、「そういうアニメがあるんだな」っていうのはそこで知ってたんよね。別にこっちから集めるわけじゃなくて勝手に情報が入ってくるっていう。で、まあどういうもんなんだろうって思って。まあ、物は試しにっていうか、それで「ローゼンメイデン」を見たんよ。

ーー入口が「ローゼンメイデン」なんですね。

そしたら、まず、オープニングの曲(ALI PROJECTの「禁じられた遊び」)に圧倒されたわけよ。こんな歌あるんだって。俺が知ってる世界にはこんな歌なかったわけよ。ロックでもなく、洋楽でもなく。それぞれの文脈とは全く違うところの音楽で。で、「これはすごい」っと思って。もともと音楽が好きなんで、アニメソングにすごく興味を持ちはじめるんだよね。で、「ローゼンメイデン」の曲を聞いたりとかして、他のアニソンってどうなんだろうと思っていろいろ聴いたよね。個人的に、ちょうど2006年ぐらいの洋楽が、俺の中ではなんかあんまりしっくりきてない感じがあったんだよね。The StrokesとかThe Libertinesとかが出てきたけど、そこからなんか新しいものを待ってるような感じ。Arctic Monkeysとかもいたけど、俺のなかではちょうどそのエアポケットみたいな時代で。その中でアニソンを聞いたら、その何者にも縛られてない、ルールがない感じにすごくハマってしまって。

ーーなるほど。

それで音楽を聞くとしたらクラブしかないわけよね。俺の中ではもう。だからアニソンの流れるクラブに行ってみようと思うんだけど、でも探したらなかったんよ。そこで、「じゃあないんだったら、もう自分でやるしかないか」って思った。いままでの小倉で始めたのもそうだし、やるって言ったらもう始める方に行っちゃってて。で、もうやるのは自分の中で決まったから、次はまず、メンバー探し。

ーー当時全然その魚住さん自体は、そこまでめちゃめちゃアニソンオタクという言うわけでもなかったんですよね。

全然ない。だってまだ「ローゼンメイデン」に衝撃を受けたばっかり。でもその頃はYouTubeとか、ニコニコ動画のベータ版みたいなのが出てきてて、アニメとかアニソンとかに対してね簡単にアクセスできるようになったんだよね。だからよくそういうので、アニソンにたくさん触れてた感じ。

ーーメンバー探しはどういう風にしていったんですか?

最初は知識もないし、割と軽い気持ちでやろうと思ったんだよ。知識はないけど、やってみて、楽しかったらいいかなみたいな感じで。ただやるにはDJを集めなくちゃいけないけど、ツテがないわけよ。俺はその時に作戦として、SNSを使おうと思って。それを機にmixiを始めたんよ。それで元々のロックDJ界隈の人たちが、「魚住さん、mixiはじめたらしいよ」って話題にしてくれて、いろいろマイミク(フォロー&フォロワーの関係)になっていったね。でその中で、「実は俺、アニソンのパーティーがやりたいんだよね」みたいなことを言ったら、「え、魚住さんアニメ見るんですか?」「俺らもアニメ見てますよ」みたいなことを返信してくれて「え、みんなそうだったの?」って話になったんよね。で、その時にいまも一緒にデルタをやっているsoupとかミシェルが「やりましょうよ」って声をかけてきてくれた。それで、「なんとなく集まってきたな」と思ったんだけど、ただ誰もアニソンのDJをやったことがないわけよ。

ーー確かに。

いわゆるロックDJなんで、だからちょっと心もとないなって思っていたんだよね。でもそこから調べていったら、実はアニソンのDJイベントはないけど、「どうやらコスプレダンパっていうのがあるらしい」「そして、それは日曜の昼間とかに、親富孝通りのカラオケ屋の地下のBUZZでやってるらしい」というのを知ったんよ。「そんなのやってんだ」と思って。しかもそこでかかってるのアニソンもJ-POPとかユーロビートも流れるらしいと。実は当時、福岡でもいくつかそういうコスプレダンパっていうのがやってて、特に人気のあるのが「舞家屋敷」と「badmoon」っていうのがあると。だから「みんなでちょっと偵察に行きましょう」みたいな感じになって行ってみたんよ。それが「舞家屋敷」の最終回。

ーーコスプレダンパ「舞家屋敷」に雰囲気はどういうものだったんですか?

行ってみたら「こんな世界があったのか」と思って、衝撃を受けたのね。お客さんとかが振り付けで踊っていて、DJがマイクで次の紹介をしていて、「これはすべてが新しいな」と思った。俺もいろんなクラブとかに行ってたけど、その世界以外のところでこんなにあったんだって感動した。それで、そのDJの人に「俺ら新しいアニソンのパーティーを始めようと思うんですけど、DJしてみませんか」って声をかけたら、「いいですよ、やりましょう」って言ってもらったんよ。

ーーすごい流れですね。

あとはネットで募集かけてたら、らび関根という男が引っかかった。らび関根は、「俺、アニソンDJやってますよ」みたいな感じで、わりと強気やったよね。頼りになるなと思ったよね。「じゃあ、一緒にやろう」って話をしたんだけど、最終的には当日らび関根は会場に現れず、代役としてコータくんに出てもらうんやけどね。もう当時から、らび関根はらび関根だったね。

ーー(笑)。それで「デルタポップ」というイベントがいよいよ始動するわけですね。

あと初回はゲストという形で、LEEDARに出てもらった。soupから「いまアニソンのコピーバンドの界隈があるんですよ」「それですごくかっこいい人がいて、その人にゲストでDJ出てもらいたいんですよね」って言われて、じゃあ一回会ってみようかって言って、会ったのがLEEDAR。LEEDARは「DJとかやったことないんですけど、大丈夫ですか?」「あと次の日沖縄で結婚式があるんで、早く帰らないといけないですけど大丈夫ですか?」みたいな感じだった。「俺一緒に隣にいて、いろいろ教えるんで、大丈夫ですよ」って返したんよ。それくらい軽いノリだったんだよね。

ーー会場はどうやって決まったんですか?

それが「アニソンのパーティーやってみたいんです」って言ったら、めちゃめちゃ断られまくったんよ。いまじゃそんなことないだろうけど。で、「これやれる場所あるのかな」と思って探していて、「LOVE45」をやってた親富孝のZOOMってクラブに話をしに行ったんよ。「こういうのやってみたいんですよね」って言ったら、店長のStanllieさんが、「いいよいいよ、おもしろそうじゃん、やってみようよ」って言ってくれたんよ。だから本当に感謝してるよ、ZOOMには。

ーー告知はどうやって進めたんですか?

mixiでの告知がメインだったね。あとはフライヤーもちゃんと作って、福岡の中古CD屋さん、レコード屋さんとかにいろいろ置かせてもらった。でも今までやってたロックのDJイベントは、ロック好きとか音楽好きの人たちにきてもらえれば、それでよかったんだけどアニソンのDJイベントをやるって言ったら、ヲタクの人に来てもらいたかったんだよね。でも中古CD屋さんとかレコード屋さんに置いても、ヲタクが手に取るかなって思ってたんよね。だからお客さんはもうヲタクのお客さんにきてもらいたいけど、まぁそこはもう期待しちゃダメだなって思ってた。それで「30人くらい来たらいいかな」くらいの気持ちだったかもしれない。まぁみんなで楽しくやっていこうみたいな感じだったね。

「デルタポップ」初回のフライヤー


ーー当日はどうだったんですか?

イベント自体は9時から5時まで、8時間オールナイトだったんよね。それで2時間前に箱入りして、みんなで顔合わせて準備とかしてたら、イベントがスタートする1時間前ぐらいの時間に、他のメンバーが来て「魚住さん魚住さん!大変なことになってます!外に行列ができてます!」って言うんだよ。でZOOMのがあるビルの外に行ったら、一目見てヲタクだとわかる人たち数十人並んでたんよね。しかも他のメンバーも誰も知らない人たち。「え?」ってなって動揺した。「来てくれたんだ!」と思って。それで9時までの間に、ヲタクの人たちの結構な行列ができてた。

ーーすごいですね。初回はどうだったんですか?

初回はオープンから俺が10分くらいDJして、そのあとLEEDARのターンだったんよ。それで俺が10分くらいDJしてた時には、もうお客さんがフロアにパンパンに集まってきた。「これはとんでもないことになったな」と思ったね。次がLEEDARのDJ。はじめてのDJだから隣で教えながらやってたんだけど、それが爆発的に盛り上がったんよね。

ーーどういうふうに盛り上がったんですか?

当時は他のジャンルのDJパーティーって、お客さんたち同士で談笑しながら、みんな体揺らしたりとか、それくらいの感じだったんよね。でもデルタの初回は、お客さんたちがとんでもなく暴れてた。もちろんいわゆるハードコア的なモッシュとかみたいな暴れ方じゃなくて。今までこういった遊び方がなかった人たちを思いっきり解放させてしまったような、スイッチを入れてしまったような盛り上がり。その衝撃が、フロアで「ドン!」という感じで起きてた。「本当にとんでもないことが起きた」と思ったね。

ーーすごい。

結局、ZOOMのMAXキャパの90人くらいのお客さんが来た。フロアには入りきれないくらいの人がいたね。奥のバーカンとかソファーとか含めて、ぎっちり人がいた。それがめちゃめちゃ盛り上がったわけよね。もう、酸素も薄かった。会場のZOOMもそんなにお客さん来るなんて想定してなかったんで、ドリンクがなくなってた。「次回もやらなきゃですよ」っていう感じの声が上がってたね。もともと俺としては、「1回やってみたら楽しかったら、たまにやってもいいかな」ぐらいの感じだったんだけど。まあそんなのになっちゃったんで、続けていくことになった感じかな。

ーーそれが17年も続いてるわけですもんね。初回のデルタって何がかかってたんですか?

よく覚えてるのはLEEDARのターンで「創聖のアクエリオン」がかかってて、すごく盛り上がってた。あと当時はハルヒの時代だったんだよね。だから一番パーティーの一番最後は「恋のミクル伝説」で締めたっていうのを覚えてる。あとまだ方向性が固まってなかったんだよね。俺らがやるんだから、アニソンだけじゃなくてロックとかもかけていいのかなみたいな感じがあった。それでsoupがUnderworldの「Born Slippy」をかけたのをすごく覚えてる。でもお客さんたちは温かくて、たぶん知らない曲たちでもね、みんな「Born Slippy」でも踊っててくれた。


「デルタポップ」そして、魚住太郎のこれから

ーーそこからデルタポップは回を重ねて、当時は福岡のアニソンDJパーティーといえば「デルタポップ」くらいまで存在も大きいものになっていくわけですよね。

もう回を重ねることにお客さんが増えていくような感じだった。「ZOOM」でやってたけど、お客さんが入りきらなくなってきたんだよね。そこから「Kieth Flack」でやったり、その次は「Early Believers」でやってたね。

ーーパーティーの規模が大きくなった理由ってどういうところにあると思いますか?

ちょうど時代が良かったと思うんだよね。当時はアニソンのDJパーティーなんてなかったけど、YouTubeとかニコニコ動画とか、一般的なところにそういうネット発信のカルチャーが、受け入れられるようになっていったんだよね。世の中に新しいものがネットから生まれてくるみたいな共通認識みたいなのが広がってて、その流れにちょうどデルタはうまいこと乗っていったかな。

ーーなるほど。

あとは2000年代ってアニソンとロックの接近っていうか、タイアップも多かったんだよね。例えばBUMP OF CHICKENとかASIAN KUNG-FU GENERATION。ORANGE RANGEも、Base Ball Bearとかもそう。もともとロックが得意なDJの人たちにもうまくハマった感じもあったのかもしれないね。

ーー他にもデルタは、ゲストで、桃井はるこさんや石田耀子さんなど、アニソンのアーティストを福岡に招聘したりもしていましたよね。

そうだね。そもそもが福岡でアニソンのアーティストがライブで来ることがあんまりなかったんだよね。やっぱり交通費も宿泊費もがかかるし。やっても経費としたらマイナスになったりとかしてやっぱ飛ばされちゃうんだよね。福岡という土地はそういうところがあって。だから普段見れないような人たちを呼んで、福岡のアニソン好きの人たちに見てもらえるようにしたかった。


ーー確かに、大阪名古屋まではいくけど、福岡まではツアーで回らないこともザラにありますもんね。

あとは、デルタはお客さんが来てくれてたから、自分たちとしても来てくれた人に還元しようという思いもあったんだよね。福岡でもアニソンのライブやったら、お客さんがこんだけ呼べるんだよっていうことを東京で伝えてもらって、今後につなげていけたらなっていう思いがあったね。

ーーはじめて呼んだゲストは?

milktubのbambooさんだね。当時は、そもそもどうやって呼べばいいのかもわからなくて、いくつかの事務所とかにメールとかで連絡したら、やっぱり福岡だし、アニソンのDJイベントというものの認知度もなくて断られまくったんだよね。「やっぱり難しいな」と思いつつ、とにかく呼びたいなと思って諦めずにいろいろやってたんよ。そして、そのなかで俺はmilktubというバンドがすごく好きだったんよ。ロックンロールな感じがかっこよかったんで、こういう人たちがライブしてくれたら盛り上がるなと思ってた。それでbambooさんにメールを送ったら「いいよやるよ」みたいな感じで、パッと返事してくれた。文面には「どうしても来てほしいんです」っていう情熱しかないようなことを送ったんだけど、それが引っかかってくれたみたい。それ以来、何回もデルタには出てもらってる。ずっとお世話になっているよね。


ーーデルタポップは、特撮縛りのものや、ロボットアニメ縛りのもの、他にもエロゲの楽曲をメインにした「エクスタシー」や、年代縛りなど、スピンオフもやってます。あれはどういう流れで企画したんですか?

デルタはコータ君とかがアニソンの知識がすごいし。深いところもやっていきたいっていう想いがあったんだよね。俺自身は29歳からのアニソンデビューだったけど、いろんなアニソンとか聴いていくうちにその歴史とかの深さとか、音楽性とかそういったものに込まれていったんよ。そして、もちろんニッチな曲とかアニメがすごく好きだけど、それを曲を聴く場所がないっていう人たちのために楽しめる場所を作りたいっていうところが、まず一番にあった。いつでもお客さんがメイン。そういう考えがもちろん一番にあったね。


ーーデルタポップは17年やっているわけですが、これまでも様々なことをやっていますよね。

みんなでコスプレ合わせしたりとかね。LEEDARが、大野城から「Early Believers」までマラソンしたこともあったね。9時に大野城からスタートして、その3時間の間に走ってきて12時からの出番に間に合うのかやってた。それをUstreamで配信したりね。でもそれから色々あったけど、やってる気持ちは昔も今も、一切変わりはない。

ーーいまでは福岡以外でもアニソンのDJイベントはいっぱいあります。そういう部分については、どういうふうに感じていますか?

デルタの名が知れるようになってきたくらいから、「自分たちもやってみたい」っていう人たちが増えてきたんだよね。他のアニソンのパーティーも増え始めた。デルタにお客さんとして来てた人たちが、自分たちのやりたいことをやり始めて、シーンができてきた気がする。そのあたりで福岡だけじゃなくて、日本中でいっぱいアニソンのパーティーが生まれてきた。デルタをはじめた頃はさ、世の中で福岡じゃないところでアニソンのパーティーがあってたことなんて、それすらも知らなかったけど、今ではね日本中どこでもあるような感じだし、変な感覚はあるね。

ーー福岡でいえば、親富孝通りのクラブ「Selecta」でのアニソンのパーティーの盛り上がりは、ずっとすごいですよね。

「Selecta」っていうクラブができてから、その影響力っていうのは本当にすごいなと思ってる。自分で言うのもあれだけど、デルタの影響力というか、そういったものの中からいろんなDJがでてきたみたいなのがあったと思うんだよ。でもSelectaができてから、そこから始まったものみたいなのがいっぱい出てきて。自分らの影響下にあるものではなくて、全く違うところにあるのを感じてる。だから見ていてすごくおもしろいし。新時代だなと思う。割とそれが今のアニソンのパーティーのスタンダードなのかなって思うね。

ーー魚住さんからは、今のアニソンのDJパーティーのシーンはどう見えているんですか?

これからいろんなことがあったりするんだろうけど、普通に見てて楽しいんだよね。「どうなっていくんだろう」とかそういったことも考えながら見てるのが楽しいかな。元々「シーンを俯瞰して見ていく」のが元々の自分の性分みたいなところがあって。それは中学のときにラジオで邦楽のランキングをノートにつけてた頃から変わらないんだけど。自分たちと違う文脈の新しいアニソンのパーティーが生まれてきたことはすごく良いことだと思うよね。

ーー「デルタポップ」として、または魚住さんとしてはどういうことを考えながらやっていきたいと思っているんですか?

「デルタポップがやるべきこと」を常にやりながら考えながらいけるように、頑張っていければいいかなとは思うかな。あと個人的なところでは、俺もまだ新しいパーティーを始めていきたいっていうのがずっとある。それはジャンル関係なくて、自分が遊びに行きたいっていうような、理想のパーティーみたいなのを追い求めていきたい。参加している人たちが、いろんな人たちがいる中でそれぞれが楽しめるようなものをやっていきたいなっていう思いは、ずっとあるんだよね。

あとはデルタを運営していった17年間、いろんなことがあったわけよ。思い返したら失敗とか間違えたこともたくさんあったし。自分自身、愚かな振る舞いをしてきた。それでたくさんの人たちが傷つけてしまったこともいっぱいあるんよね。そういうことを常に反省してしていかなくちゃいけないなっていう風に最近思ってて。
なんかどんなことでも頭ごなしに否定しないように。考えていいか悪いかとかの0か100かみたいな考え方をしないようにしていきたいなと。そして、それをデルタの運営にも浮かせていけたらなと思ってる。

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