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「こゝろ」の書き出し1文を読んでみた。

私はその人を常に先生と呼んでいた。

「こゝろ」夏目漱石

好きな小説をあらためて読む。なぜこの1文から始まったのだろう。

主人公「私」の語りから始まるパターン。
重要人物に対する呼称の説明から入っている。
そして、「本名は言わない。イニシャルも使いたくない。先生と呼ぶのが自然だったからそう呼んでいる。」ということらしい。
誰が、誰を、何と呼ぶのか。
それが重要なんだろう。
教科書にも載っている漱石後期の名作は、こんな感じの書き出しだった。

呼称の違いは登場人物の関係性を表すのに重要な要素だと思う。
名字呼び、名前呼び、敬称の有無、役職や肩書で呼ぶ。などがあるだろうか。
なかでも先生という呼称は、教師・医師・作家・政治家などに使われ、カバー範囲がとても広い。
ただし、本作の「先生」は上記のどれでもなく、それどころか定職にすらついていない。
だが、なぜか「私」が一方的に呼んでいて、呼ばれた方も最初は先生と呼ばれることを不思議がっている。
それでも「私」にとって、彼は先生なのだ。
将来がイマイチ定まっていない、モラトリアム感を出してる主人公の目には、「先生」に先生っぽさを感じ取ったのだろうか。

話は変わるが、登場人物の特別な関係性が見える呼称が好きだ。
『ドラゴンボール』のブルマの「孫くん」呼びや、『あしたのジョー』の白木葉子の「矢吹くん」呼びなんかが特に。
作品内でも、同じ呼び方をする人が少ないほど特別感が増す。
家族や恋人といった、通り一遍の関係性では表せられない「つながり」を感じる。

『こゝろ』でも「先生」のことを先生と呼ぶ人は主人公以外にいない。
なぜなら、一般的な尺度でいうと彼はぜんぜん先生じゃないから。
だからこそ、わざわざ冒頭で「私は常に先生と呼んでいた」と言っておかなくてはならないのだろう。
では、なぜ主人公は先生と呼んだのか。
「先生」は、世間的に優れた成果を残した人物ではなさそうだ。
だが、「私」は「先生」と出会って、仲良くなる。遺書を渡されるぐらい仲良くなる。
「私」は彼の抱えていた人生の暗い部分に、何か学びを得たのかもしれない。

亡くなってからあらためて、彼のことを先生と呼んでいるよ、と宣言する。
物語の最重要人物が、主人公にとってどれだけ大きな存在であるかを示す書き出しだと思った。

≪前回取り上げた小説≫


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