ふるさとを語ろう【キャリコンサロン編集部】
毎週決まったお題に沿って何かしらを書くというキャリコンサロン編集部の活動。
さて、今週のお題は、ふるさとについて語ってみようということですので、私が今住んでいてもう50年以上になる、横浜について、前回の「思い出の街」の続編みたいな形で書いてみようかと思います。
ちなみに前回はこちら。
私が横浜に越してきた50数年前は、今とどう違っていたか? について書いてみたいと思います。
前回「思い出の街」では、みなとみらい周辺の変遷について書きましたので、今日はそれ以外の地域について。
まず、横浜駅周辺です。
東口はまだ、レンガ造りの駅舎が残っていました。
まだそごうもスカイビルも無く、広々とした駅前広場がありました。
西口は、高島屋と西口五番街だけだったと思います。
というか、まだ栄えていない横浜西口に行くことはあまり無く、衣類や書籍、またレコードなど買い物は伊勢佐木町に行っていました。
その伊勢佐木町の最寄駅である関内と横浜の間にある駅が桜木町です。
今は桜木町駅はみなとみらいの玄関口としてJRと地下鉄のみであるにも関わらず賑わっていますが、当時の桜木町は横浜と関内に挟まれたちょっと寂れた佇まいでした。
ただ、ここが東急東横線の始発駅でもあったのですね。
東京の高校、そして大学に通っていた私は、毎日ここから東横線に乗って通学していました。
桜木町から横浜までの区間は、今でも京浜東北線に並行して東横線線路の遺構が残っています。
今の東横線は、横浜駅の先はみなとみらい線となって、関内を通り過ぎ、元町・中華街駅まで伸ばされています。
このみなとみらい線ですが、横浜から地下で伸ばす計画のとき、当初は本牧まで行く計画があったそうです。
しかし、周辺住民の反対に遭って元町・中華街駅が終点となったとか。
本牧と言えば、私が越してきた1970年頃はまだ米軍の住宅が広々と広がっている地域でした。
自転車であの辺りを散歩すると、まるでアメリカの西海岸のような風景が広がっていて、結構好きだったのを憶えています。
その後、米軍関連施設は撤収されて、バブルの時期になると、あのマイカル本牧が出現します。
慶応ボーイが日吉からBMWでフェリス女子大までお嬢様を迎えに行って、マイカルで遊んでいたわけです。
ハマトラなどという若者のファッションが生まれたのもこの頃でしょう。
しかし、そのすぐ隣には、古くからの商店街もあって、バブルが崩壊してマイカルの一夜の夢も過ぎたときに湧き上がった、みなとみらい線の延伸計画。
昔からの本牧を知る住民たちは、バブルのときに散々荒らされた思い出があるもので、また若者たちがやってきて喧騒が繰り返されることを危惧したのかも知れません。
この反対運動が無ければ、みなとみらい線は本牧まで延伸されて、また本牧に活気が戻っていたのかも知れません。
と、今日はまた昔の横浜に思いを馳せて書いてみました。
今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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