見出し画像

[小説]朝のからす(小鳥書房文学賞応募作)

 昨年秋、この「朝のからす」の小鳥書房文学賞へへの応募をきっかけに文章を書き始めました。残念ながら受賞は出来ませんでしたが、とても思い入れの強い作品です。10分ほどで読めます。読んでいただけたら嬉しいです。(テーマ「とり」。文字数4,000字程度)

 *

 女が肩にかけたバッグから、水が滴っていることに、男は気がついた。

 土曜日の早朝、小さな駅のホーム。
 客は、今しがた階段からホームに降り立った男と、列車を待つ女だけであった。

 女は、水の滴りに気づいていない。イヤホンから流れる音楽か何かに夢中になっており、視線は手元にあるスマートフォンに落ちている。口元には、もはや世界的フォーマルとなったマスクをつけていて、表情はわからない。よく手入れのされた長い髪の毛も、表情を隠す一因となっている。

 バッグから水滴が落ちる状況など見た事がないが、水筒の蓋でも緩んでいるのだろうか。と男は思った。
 声をかけ、教えるべきか。
 しかし、こんな朝に、突然に声をかけられたら驚くだろう。イヤホンで埋まった耳元に声が届くだろうか。他人に指摘されず、自分自身で気付くのが一番じゃないか。

 男は一瞬の迷いの後、声をかけることをためらった。言いようの無い不穏さを抱えたまま、女の後ろを通り過ぎる。

 かあかあと、近くでからすが鳴いている。
 夕方に聞くからすの鳴き声はいい。夕日を背景に聞く鳴き声には哀愁があり、人を感傷的にさせる魅力がある。
 しかし、朝に聞くからすの鳴き声はそれとは違う。夜のうちに出されたゴミを漁る朝のからすの鳴き声は、不気味さと不穏さをまとって、耳元におりてくる。

 下り線ホームの三両目、ニ番目のドア。男は仕事に向かういつもの定位置に足を置き、ドア二つ分離れた女の方に目をやった。

 ぽたりぽたりと滴る水滴は、冬の朝、軒先から伸びたつららを思い出させた。つららはポジティブだ。冷たく暗い闇の世界で作られた体を、朝の陽光が照らし溶かす。溶ける事で生まれる滴りには、明るく暖かいイメージがある。
 だが、バッグからの滴りは、そうではない。原因が何であろうと、その滴りがネガティブな事情を抱えていることは明らかだ。
 このままでは、彼女は滴りとその滴りが作る水たまりに気づくことなく列車に乗ってしまう。やはり声をかけるべきか。
 
 「あの」
 男は、誰にも聞こえない音量で、言葉をつぶやいてみる。
 練習にもならないわずかな発音は、外に出ることなく自らの口の中で死んだ。

 一声かければよいだけなのに。なかなかその一言が言えない。たった一言で、自身を覆っているこの不穏な雲を晴れさせることができるのに。時間が経過するほど、一言にかける力が大きくなることも、分かっているのに。自らの無能さを憂いながら、男は再度、口内で死にゆく言葉を生み出した。

 *

 男が思考を止め、再び女に意識を移したのは、視野の端っこに、がさごそと荷物を探る仕草が見えたからだ。彼女はバッグから何かを取り出そうとしていた。よかった。水滴に気付くかもしれない。男は、犯人を追い詰める刑事を応援するかのような期待を胸に秘めながら、横目で見守った。

 女は目的の物を取り出して使った。使い終わると、何事もなかったかのように、元ある場所へとしまいこんだ。するりとバッグをすりぬけ、着実にホームを侵食していく液体の進撃は続いている。

 男の心を満たしていた不安は、先ほど淡く暖かな期待にとって変わったが、今度は黒々しい疑念に変わった。彼女の手によってバッグから取り出されたものが、水筒だったからだ。そして、水筒が取り出されてもなお、水滴は落ち続けていた。

 水筒ではないなら、あの水滴はなんだ。と男は思った。自らを悩ませる滴りの正体が気になり、今度はその原因について考え始める。
 
 滴りには、粘度は無さそうだ。布のバッグの底面、糸と繊維で構築された細かな網目をするりと越えて、重力に導かれるように、ぽたりぽたりと落ちている。そこに、一切の抵抗はない。滴りはその流れに身を任せ、なすがままに落ちていくばかりだ。

 熱はない。温かさを持った液体であれば、外気温との差分に伴って、その体を気体へと、蒸発させるのではないか。目をやる限り、水滴からも、その下にある水たまりからも、湯気は上がっていない。

 色は無色に見える。しかし、見えるだけであって、そうであるという保証はない。雫は朝日に照らされて光っている。見ようによっては、黄色くも見える。水のイメージからか、淡いブルーに見えないこともない。目に見えている色と、その物が持つ本来の色は異なる、と聞いたことがある。赤、黄色、青、あるいは言葉では表現の出来ない、その雫だけが持つ独自の色かもしれない。

 しかし、見えているものが全てでないのならば、何に頼って推測すればよいのか。
 匂いか。
 そうか、匂いならば、と男は思ったが、マスクから出した鼻にはツンとした朝の空気しか届いて来ないことは少し前から分かっていることだった。念のため、すーっと大きく息を吸い込んでみる。しかし、滴りが水たまりを作り、その水たまりが大きくなった今も、匂いが鼻のもとへ辿り着く事はなかった。
 
 かあー、かあー。
 駅と道とを隔てる緑色のフェンスにとまったからすが、無駄な思考を繰り返す男をあざ笑うかのように、その発声を浴びせて見せた。男は大きく吸い込んだ空気を吐き出しながら、そのからすを一瞥した。俺の勝手だろう。放っといてくれ。そもそも、朝のお前とは会いたくないんだ。
 そんな男の気持ちを知ってか知らずか、不穏さをまとった朝のからすは、高慢なスピーチを手短に終えると、ばさりと飛び立った。

 男は女に後頭部を向けたまま、線路の先の方へと視線を移した。一つ手前の駅舎が、朝靄に隠されて、薄ぼんやりと見えている。ふたりを、各々の目的地へ運ぶはずの列車は、まだ来ない。

 「ふう」
 男はもう一度大きく息を吸い、そのまま吐き出した。二度の深呼吸が、男の脳をいくらか冷静にさせた。

 朝の空気はどうして、こうも魅力的なのだろう。大きく息を吸い込んだ事で、男は改めて気付く。普段の空気とは酸素濃度が違うのかもしれない。
 人で溢れる昼間の駅。吸い込んだ空気に感じるのは、賑やかな喧騒。そしてどこかのだれかの忙しない日常だ。
 朝の空気は、わずらわしい他人の声や体温、感情を孕んでいない。
 朝の、いわば出来立ての、まだ誰にも吸い込まれていない、新鮮な空気を魅力的に思う。

 *

 さて、女には、もはや完全に声をかけるべき機会を失ってしまった男である。そうすべき時に正しく判断し、速やかに行動できなかった事を、後悔し、うつむく。

 「あれ」
 ずっと前にも同じように、声をかけずに後悔したことがあったのではなかったか。男はそのことに気づき、顔を上げる。眼前には、誰も客のいない、反対方向へと向かう列車を待つプラットホームが、ただ広がっている。

 男は後悔した事実を思い出すが、その内容は思い出せなかった。ほんの一瞬、顔を出した記憶は、すぐに泡となって消えてしまった。
 弾けた泡の、かすかな残り香をたどるように、刹那の記憶を取り戻そうと手を伸ばすが、届かない。およそ、ありふれた話だったのだと思う。きっと取るに足らない出来事で、日々の忙しない日常に忙殺される中で、簡単に消えてしまうような、その程度の後悔だったのだろう。
 
 だとすれば今日のこの葛藤と後悔もまた、空へ飛び、すぐに弾けるシャボン玉のように、記憶の彼方へと消えてしまうんだろうか。それとも、いつまでも自分の体内に居座って、うだうだと、ちくちくと、自分を悩ませるのだろうか。
 それはそれで嫌だな、と男は思った。
 
 ふわふわと取り留めのない思考の最中、頭上のスピーカーから、電車の往来を告げるアナウンスが流れた。
 
 男は、出口の見えない思考の迷路に迷い込みながら、いよいよ近づいたそのタイミングを前に、再び女を見た。さっきまで水たまりと呼ぶに相応しかった水滴の集合体は、いつの間にか池のようになっていた。女は、いまも手元のスマートフォンを忙しなく操作している。
 現代人は忙しい。自分の魂はその中にある、とでも言うかのごとく、命を削りながら、常にその小さな箱と格闘している。彼女もまた、現代人なのだろう。
 
 間もなく列車が来る。声は、結局かけられなかった。
 
 *
 
 その時、男は目に強い光を浴びた。
 それは一瞬意識の喪失を疑わせるほどで、それが女の手元から発せられているものだと気づかせるのに、少し時間が必要だった。発光の大本に意識を集中させると、その正体が女のスマートフォンに反射した、朝の陽光であることが男にも理解できた。
 
 と、同時に男の目をくらませた、その原因を作った女もまた、その理解へと至り、男の側へと視線をやるのだった。
 
 この瞬間、ふたりは、初めて意識の上でつながった。双方の目がばちりと合った。視線の邂逅が、お互いの存在を改めて認識させた。
 女は自らの過ちに対しての謝罪の意を男に伝えるべく、表情をゆるませ、小さく、しかし素早く頭を下げた。
 男もそれに応えるように表情をゆるめた。顔には、互いに相も変わらず小さな布を付けており、口元の露見は許しておらず、目元のわずかな皺に頼って、それをそれと理解するのだった。

 この一連の出来事は、男にとって千載一遇のチャンスであった。
 
 男は、先ほど自らの口の中で繰り返した言葉を、再び呼び起こす。
 死んだかに思われたその言葉を。
 
 「あの」
  
 そのわずかな生き残りが、女の懐に届いたと分かったのは、彼女が自身の耳元に手をよこし、その耳と世界とを断絶していた小さな機械を外したからだ。
  
 「…?」

 「す、水滴が、が、あの、バッグの、、」

 その声は、かすれて、咳混じりの、まるで壊れたテレビのような、粗くか細い声だった。
 さらには、ついに訪れた列車の発する風音と、線路との摩擦音が入り混じった巨音が、その発声に見事に重なってしまう。ただでさえ消え入りそうな灯火は、列車の音によって消えかけてしまうが、男は声に合わせて右手で女のバッグを指し示し、自らが伝える情報を鮮明にすることで、その灯火をすんでのところで、なんとか守ることができた。
 
 「あぁ!」
 彼女は指し示された情報によって、ようやく、自らが作ってしまった池と、その原因となっていた滴りに気がついた。
 そして、男と同様に、列車の発する巨音にかき消されながらも、今度は感謝の意を表明した。
 
 「あ……とう…ざいます!」
 
 その瞬間。
 男は、またしても目がくらんでしまった。
 女は、後ろからの陽光に照らされ、列車が作った人口の風にもて遊ばれた自らの長い髪の毛を、その手で見事に飼い慣らしながら、その目尻に、さっきとは違う形のきらりと光る端正な皺を作って見せた。
 
 一層強さを増した朝の陽光にも勝るとも劣らない、彼女の放つ輝きに、男は目をくらませたのであった。
 
 *
 
 男は、プシュという気の抜けるような音で、自らの呼吸が止まっていたことに気がついた。空気と共に、いくつもの入り口を解放した乗り物へと、急いで足を運んだ。
 男とは会話という会話もないままに、バッグの中の処理を速やかに済ませた女も同様に、近くの入り口から乗車した。
 男は、女と一定の距離を保ちながら、しかし、近くて遠い彼女の存在を頭の片隅に置きながら、並列に連なった列車のシートの端に腰を下ろす。

 再び鳴ったプシュという音に続き、ガコンという断絶を象徴するような音が聞こえた。やがて、列車の背もたれに預けた男の体重が、ゆっくりと進行方向と逆側にもたれかかる。

 水滴の正体など、もうどうでもよかった。

 かあかあと鳴いていた朝のからすが、ホームに出来た小さな池のほとりにおりたのが、流れる車窓の端に見えた。
 
 男には、その鳥が、いまや朝独特の不穏さではない、夕方のそれと変わらぬ魅力をまとっているように見えたのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?