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あたかも同じ地平に立っているかのように

共感は大切だ。
だが、それ以上に、相手の個別的状況をふまえて究極的には「分かり合えない」ことを理解することの方が、実は大切なのではないか、と最近思う。

デジタル時代。イラストや、絵も。音楽も。映像も。文字も文章も。

データでいくらでもネットにあげられる。

それを聴いたり見たり、読んだりすることもできるし、感想も言える。言い合える。

「よかった!最高!」
そんな風に。

そして、ぼくたちはそれに共感することもできる。

「この歌が好きだ」と言ってサブスクから流す。
「いいよね!ぼくも好きだ」と共感する。

それは、一見すると美しい、分かり合えた瞬間のように思える。

でも、よくよく考えると、相手がどんな状況で、どんなことを思いながらその曲を聴き、好きになったのか、ぼくは分からないことに気付く。

例えば、Aという曲について。以下のような状況で聴き、好きになった人がいたとする。

営業先でちょっとした失敗をした日、虚な目をしながら会社に戻る電車内でスマホの再生ボタンを押す。
シャッフル再生から流れてきたAというおかしなリズムが特徴の曲を聴きながら、車窓に目をやる。
美しい夕焼けに照らされたビル群。それを反射する川の水面。河川敷で犬と散歩する人、野球の片付けをする少年たち。向こうの橋を走る車の列。それらが目に映る。
耳から聞こえて来る「飛び出せ」とか「踊ろうぜ」とかの言葉が、何故かその映像と状況とリンクするように感じ、涙が溢れる。


極論、その曲を聴いた時の状況と全く同じ状況はあり得ないとあうことに戦慄する。

「この曲が好きだ!」「わかるよ!」
と簡単に言えてしまうけれど、
その内実、奥底の感想までは分かり合えていないかもしれないという事実。

それでも、僕たちは共感を大切にする。

「データ」は、それらの個別的な状況や感情を無視して、全てをフラットにする。
それはいい点でもあるけれど、「分かり合えなさ」を見えなくする危うさがあると思っている。

例えば、これが生音なら。つまりライブなら、分かりやすい。

あの時のライブは良かったな。
野外だったんだけど、途中からゲリラ豪雨みたいな雨が降ってきて、大変で。でもラストの「雨上がり」って曲で、ちょうど雨が上がって、虹が出たんだよな。
それは本当に美しかった。


みたいな感想を聞いた時、データ化された「同じもの」を見たり聴いたりした時の共感とは違う性質の共感を抱くことに気付く。

「分かるよ!一緒だよ!」ではなく。
「それはよさそうだね。」「そんなライブもあるんだね。」

そこには、自分の経験と他人の経験に線を引いた上で、それでも分かり合いたいという興味が存在する。
相手を尊重しようという姿勢が存在する。

本来、他人と自分との関係って分かり合えなくて、それでも分かり合いたくて、努力をして、少しずつ近づくもののはずだ。(そして結局いくら頑張っても全く同じにはなれないのだけど)

でも、データはそれを破壊する。

データは一見すると、「同じ」であるが故に、本質的な他者との「分かり合えなさ」を見えなくしてしまう。

お互いが、あたかも同じ地平に立っているかのように錯覚させる。

それは、SNSの投稿でも同じことが言えると思っている。

ある趣旨の投稿をしたときに、その人がどのような立場にいて、どのような生活をしていて、どのような時間と環境で、その文章を書いたのか。
文に表れない部分は捨象され、表面的な「言葉」としてのみ受け取られる。

表面的な言葉を切り取って、判断して、共感したり、あるいは逆に反感したりする。

その人の状況や、状況から作り出される究極的な個別性は、簡単には捉えられず、だからこそ共感も反感も簡単には出来ないはずなのに。

何でもデータ化することや、SNS全盛の時代の危うさは、そこにあるのではないか、と思う。

(ちなみに僕はこの文章を、月〜金の保育の仕事を終えた、土曜の早朝、読書するぞ!とやる気を出してコーヒーを淹れて、本を横に置いて、とりあえずスマホを触ってしまったその勢いでメモ帳に書いている。街が活動的になる前の、時折り聞こえるガタンとかカチャンという準備の音や、街を歩く人の足音や、公園に来た小鳥の声を聴きながら。
読んでくれた方はどんな状況で読まれたんだろうか。)

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