コミュニケーションについての考察
このあいだ、保育園の廊下を掃除しているとき。
「なんでそうじしてるの?」
と子どもに聞かれた。
「きれいにするためだよ。だってきれいな方が気持ちがいいでしょ?」
とぼくは伝えた。
子どもはそれに対して、
「◯◯(その子の名前)はきたないほうがすきー」
と笑って言った。
その時は、
「何言ってるのー、きれいな方がすきでしょー」
と笑いながら冗談として受け流した。
そのあと午睡に入った子どもたちの傍ら、床拭き掃除をしながら、あーでも待てよ。もしかして本当に汚い方が好きな人もいるかもしれないな。そうだとしたらその「好み」を冗談として受け流してしまうことで、否定してしまったことになるな、と思った。
だとすれば、
「きたないほうがすきー」に対しては、
「そっか、そういう人もいるよね。でも保育園はみんなが使うところだからきれいにした方がいいんだよ。」
と、その子の「好き」を否定せず、あくまで社会一般としての掃除のあり方を伝えるなら、傷つけずに済んだかもしれない。
でも、それが唯一の回答では、もちろんない。
その子が本当に冗談を言っている場合もあるだろう。それだと、その真面目な回答ではその子の思いと「ズレ」が生じてしまう。むしろ、さっきのように「またまたー」とお互いに笑いあって面白い気持ちを共有するほうが大切だ。
“それがどっちなのか”瞬時に感じ取れるだろうか。
その時の声や雰囲気、表情などはもちろん、その子の普段の様子、年齢、家庭の事情、ぼくとの関係性など。
さまざまな情報によって判断は変わってくる。
大人同士のコミュニケーションの場合も同様だろう。
いろいろな人がいて、いろいろな関係性がある。一律ではない関係性。お互いがどういう人なのか。どの程度知っているのか。信頼関係はあるか。
その二人の間合いの中で、一つの言葉(あるいはその表情や目線、声の大きさ)からその人がどんな気持ちでいるのかを感じ取ることが大切だ。
“唯一絶対の解”というものはそこには存在しない。
それを直感で感じとって、個別具体的な一人ひとりの相手に応じて適切に対応できるひとが「コミュニケーション能力が高い」ひとなのだろう。
話は飛ぶけど、よくある恋愛マニュアル本に書かれていることは、それとはまるで逆に感じる。
「三回目のデートで告白をするといい」みたいな指南は、多様な人がいて、多様な関係性があることを無視して、全ての人を一般化し、たったひとつの価値観を押し付ける。
AさんとBさんの恋愛は、二人にしか分からない関係性と空気感があって、それはマニュアルで対応できるものではない。告白ひとつとっても、その機会は自然的必然的に二人に訪れるものだ。
それは人によって一度目の電話かもしれないし、十回目のデートかもしれない。それは当人たち同士にしか分からない。
自慢ではないけど(本当に自慢ではない…)ぼくはコミュニケーション能力がめちゃくちゃ低い。他人の気持ちなど基本的に分からないし、それでトラブルになったことは一度や二度ではない。空気が読めないとか、デリカシーがないと言われたし、仕事(営業)でも散々失敗してきた。
ぼくの場合は、それを出発点として、保育園や学童クラブでの、たくさんの子どもたちとの関わりの積み重ねの経験や学びがあって、ようやくいま人並みにコミュニケーションが出来ている状態だ。
とくにこういうことを考えたりせずとも、また保育士のような多様な人と関わる経験の積み重ねもなくとも、天性の才能で自然にひとと適切にコミュニケーションをとれるひとを、ぼくは本当に尊敬するし、そうはなかなかなれないな、と思っている。
でも。いま。
そんな風にぼくがたくさんの人(子ども)と会って、コミュニケーションの機会を積み重ねて、やっと一人前になれたことを思うと…このコロナ禍はその意味でも結構な危機かもしれないな、と思う。
たくさんの人から、コミュニケーションの機会が奪われている。
「人流を減らす。」
「ひとと会う機会を◯◯割減にする。」
それが大切なのは分かるけど…
でも、他の大切なものも同時に失っているのだろうな…
そして、失ったものの大切さは、すぐには分からないのだろうな…
コミュニケーションは、本当に難しい。命懸けですらある。人を生かすことも、殺すこともある。
そこまで行かなくても、無意識に傷つけたり、悩ませたりしてしまうことはおおいにある。きっと、毎日、ぼくも誰かを傷つけてしまっている。
でも、それは同時に、刹那的で儚くて、なんとも美しいものでもある。
いまはコロナ禍で、人と会うのは難しい世の中だけど、なんとかうまく機会を見つけて、その“刹那的な美しさ”を楽しんだり、色々な人と接することでコミュニケーションの力を磨いたりしたいものだ。
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