【小説】そよぐ#1
そよちゃんがお母さんからパラソルをプレゼントしてもらったのは、まだ暑い日も寒い日もある5月の終わりでした。それはクリスマスでも誕生日でもありませんでしたし、テストを頑張ったわけでもありません。(もともとそよちゃんのお母さんはテストの点数を気にしたこともありません)それにそよちゃんは、これまで一度も「パラソルが欲しい」と言ったことがありません。ましてや思ったこともありません。
それなのに、パラソルをもらってしまいました。
「可愛くない?」
お母さんは言ってそれをそよちゃんのものだとしました。
「自由に使っていいよ」
お母さんはとても嬉しそうでした。
そよちゃんはチラッとお父さんの顔をみました。お父さんはいつもの、笑ったような困ったような顔をしたまま
「よかったじゃん」
と言い、でもその後一瞬、そよちゃんにだけ分かるように表情を変えました。
そよちゃんはそのお父さんの顔を見て
「ありがとう、可愛い」
とパラソルを撫でました。
そよちゃんは小学校4年生です。7月生まれの10歳の女の子です。
小島そよ、という名前で、「そよ」は、ひらがなです。
お母さんが名付けました。
お母さんは小島成子という名前で「じょうこ」と読みます。
お父さんは小島皐月という名前で「さつき」と読みます。
お母さんはお父さんのことを「さっちゃん」と呼び、お父さんはお母さんのことを「じょーくん」と呼びました。そして2人ともそよちゃんのことは「そよ」と呼びました。
そよちゃんはパラソルを持ってバスに乗りました。パラソルを自由に使わなければなりません。日曜日、宿題もまだやってないけど、そよちゃんにとってはこれも宿題みたいなものです。
そよちゃんはパラソルの他にスマホと水筒、それから小さい時に使っていたお砂場道具を持っていました。百均の網バックの中に入った、砂で汚れた古いお砂場道具をお母さんはずっと捨てたがっていました。
お母さんはなんでもすぐに捨ててしまう人だし、そよちゃんはもうお砂場道具を使いません。それに、お砂場道具は狭い玄関で確かに場所をとっていました。これがなくなったらスッキリしそうだと、そよちゃんも思います。それなのにそよちゃんは、
「これもう使わないんじゃない?」
と聞かれると胸の奥から熱くなってきて、涙が溢れそうになるのです。
涙が出そうになるのを感じると、そよちゃんは心の中で歌を歌います。それはジブリの「千と千尋の神隠し」という映画に出てきた、エンディングソングでした。そよちゃんが5歳の時にお母さんが教えてくれたのです。夕方、友達とバイバイするのが辛くて、泣いてしまった時に
「泣きたくなったら歌を歌おう」
と言って手を繋いで歌ってくれた歌です。その歌を聴くことに集中していると、だんだん悲しい気持ちは薄れていき、ホホホッホッホッホッホホホホ〜と楽しくなっていくのが分かりました。お母さんかその歌がのどちらかが、魔法を使ったようでした。
その時にも持っていたお砂場道具です。
「そろそろ捨てよっか?」
トイレから出てきて玄関を通ったついでにふと思いついたようにお母さんが言いました。
「でも、まだ使うかもしれないし」
心の中でルルルンルンルンと歌いながらそよちゃんが言いました。
「本当に?」
お母さんは顔を顰め、
「ま、いいけど」
と言って仕事部屋に戻っていきました。
その、捨てられずにいたお砂場道具とパラソルを持って、そよちゃんはバスに揺られていました。
バスの中には、そよちゃんの他におじいさんが1人優先席に座っているだけでした。おじいさんが停留所で降りると、また別のおじいさんが乗ってきて同じように優先席に座りました。何度か同じようなことがありました。そよちゃんは、バスの一番後ろの席からその様子を見ていました。
終点までついてそよちゃんはバスを降りました。
パソコンで調べた道はそんなに難しくはありませんでしたが、初めて通る道でした。歩道の石畳を見ながら歩いていると、だんだんと肌色の砂がまぶされたようになっていきました。靴底を通して、砂をジャリジャリと踏んでいるのが分かります。そして徐々に石畳は見えなくなっていきました。
砂浜には誰もいませんでした。
そよちゃんは砂浜の真ん中くらいのところにパラソルを開いて刺しました。パラソルは10歳の子どもが差すには、どう考えても大きすぎると思いましたが、その日は5月の中でも暑い日だったので、スッポリと日陰にしてくれるパラソルの中はとても、いい気持ちがしました。
パラソルの中で、そよちゃんはしばらく海を眺めていましたが、やがて、靴と靴下を脱ぎ、海の方まで歩いてみました。
太陽に焼かれた砂浜はジリジリと足の裏に伝わって、じっと立ったままではいられないくらいでした。
でも歩いていると、砂浜の色が濃い茶色に変わって、足の裏はひんやりしました。
波打ち際にそっと近づいて、つま先を水に入れると、それはさっきの湿った砂浜とは比べ物にならない冷たさでした。
でもそよちゃんは、そのまま踵も水に付けて、もう片方の足も水の中に入れました。
とてもよく晴れた穏やかな風の日で、水は透明にキラキラと輝き、飛沫や波の影を底に移しました。
波が打ち寄せ、砂が泳いでは沈み、そのたびにモヤがかったり晴れたりする海中を、そよちゃんはじっと見ていました。
何かが泳いでいるのも見えました。それは魚のようでした。2センチくらいの、細長い小さな魚です。10から20匹くらいの群れで、鳥が飛ぶように泳いでいました。が、それらは、よくみたら魚の影で、本当の魚はもう少し上のほうにいるのが分かりました。でもそれも、波の揺れと太陽のきらめきで、一瞬で見失います。あ、いた、と見つけては見失い、また見つけては見失い、追いかけては見失い、そのうち、ちっとも見つからなくなって、魚の群れはどこかに消えてしまいました。
そよちゃんは不思議な気がしました。
こんなに大きな広い海で、あんなに小さな小魚が、群れになって逃げ回るように泳いでいるのは、アンバランスで滑稽だと思いました。
しばらく足を水に付けていると、足先から体が冷えてくるような気がしたので、海から上がって、暖かい砂の上に腰を下ろしました。
砂のうえは今度はちょうどいい温度に感じました。
手で砂を撫でるように触ると、サラサラした砂は表面だけで、すぐ下には湿った濃い茶色の砂が出てきました。かまわずにザラザラと手で撫でていると何か固いものを触りました。
それは小さな白い貝殻でした。
「しろいかーいーがーらーのーちいさーなーいーやーりーんーぐー…しろいかーいーがーらーのーちいさーなーいーやーりーんーぐー…しろいかーいーがーらーのーちいさーなーいーやーりーんーぐー……」
そよちゃんは小さな声で何度も同じ場所を歌いました。歌いながら砂を掘り、いくつも貝殻を見つけました。持って帰りたいと思う貝殻は一つも見つかりませんでしたが、このうちの綺麗なものを3つくらい持って帰ろう、と思いました。お母さんにあげると喜ぶかもしれない。どんどん掘っていくと、今度はそよちゃんが本当に持って帰りたいと思うような、綺麗な肌色の貝殻が見つかりました。
それはこれまで見つけたどの貝殻とも違いました。手のひらにそれを乗せ、片手でくるりとひっくり返すと、また同じ肌色の綺麗な貝殻でした。
そよちゃんはしばらく、それがどういうことなのか分かりませんでしたが、ついに「あっ!」と思いました。
くっつきあった貝の隙間からヒラヒラとした白いものが出てきたのです。
近くでよく見ようとすると、手のひらで揺れ動いて、その白いヒラヒラしたものはスッと貝の中に引っ込んでしまいました。
そよちゃんはお砂場道具の中から古びたピンク色のバケツを取り出しました。
貝を手に乗せたまま、バケツをもって波打ち際にいき、砂と水をバケツにいれました。
砂は最初、バケツのなかでグルグルと嵐の雲のように動き回りましたが、すぐに底に沈んで、水は透明になりました。
その水の中へ、貝をそっと置きました。そのままじっとみていると、貝はまた白いヒラヒラしたものを伸ばして、ズズズッと砂の中に潜っていきました。バケツの中はまた、何事もなかったような、砂と透明の水だけになりました。
そよちゃんはそれを見て、そのあと自分の足元を見下ろして、それから、あたりの砂を見渡しました。
この砂浜の下にも、たくさんの貝が潜っていて、ジッとしているのでしょうか?
ジッとしている貝たちは、周りに他にも自分と同じような貝がジッとしているという事に気づいているのでしょうか。
と、急に視界が明るくなって真上にあるはずのパラソルの柄が目に飛び込んできたかと思うと、フワッと動いてまた海がひらけました。あんなに重たかったパラソルがふわりふわりと風船のように飛ばされていき、波打ち際にドサリと落ちました。そよちゃんは急いでパラソルのところまで走りました。
パラソルは海に濡れた砂でフリンジの部分が汚れてしまっていました。
そよちゃんはパラソルを持ち上げ汚れを払い落とそうとしましたがなかなか砂はなくなりませんでした。そよちゃんは、もういいだろうと思いました。
パラソルを閉じ、片手で支えて海を眺めました。
もう帰ろう。
その時ふと足元にざらっとした何かが触れました。
見るとそれはヒトデでした。
波に飲まれてひいては戻り、ひいては戻り、また見失ったかと思うとすぐ近くに出てきました。
初めはよくわかりませんでしたが、しばらくみているとそれはどうやら生きているようでした。
そよちゃんはパラソルを、濡れていない場所に置いて、お砂場道具の場所に走りバケツを手に取りました。そして戻ってくると、また、よーく波の中を観察しヒトデを探しました。
けれどもヒトデはもう見つかりませんでした。
(つづく)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?