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第105話あとがき 無法地帯

コンテンツ摂取の苦手な私が、最近は扉が開いたかのようにコンテンツ摂取しています。
コンテンツ摂取という言葉はなんだかまんま「消費している」という感じがしますが、その通りかな、とも思うので使います。
「作品に触れる」と言い換えてもいいけど、「触れる」というよりは「浴びる」かな、「浸かる」かもしれない、とか色々考えると難しいので、コンテンツ摂取、としています。
人には人のコンテンツ摂取があって、具体的にいうと「聞いてる」とか「読んでる」とかになるんですけど、ただ「聞いてる」だけではないし、ただ「読んでる」だけではない、何かを感じ取って、影響を受けて、次の一歩を考えるとっかかりにさえしている、ということを、「聞いてる」、「読んでる」という言葉に託すのはやや荷が重そうです。聞いて、何かをしている。読んで、何かをしている。という感じがする。
面倒臭いのでコンテンツ摂取です。

インプット、とか言ったりもしますね。
これはなんだろう?アウトプットを前提としている言葉っぽいですよね。
私は漫画を書くのでインプットという言葉を使っても差し支えはないはずです。アウトプットの予定がありますから。
でもアウトプットすることを踏まえて、作品を聞いたり読んだりするわけでもない。影響は受けるだろうけど、私の場合それはコントロール不能です。メソッドをインストールするようなコンテンツ摂取は出来ない。つまり勉強は出来ない。つまりインプットとは勉強のことなのか?と言われるとそれはそうではない気もしますけど。
やっぱりコンテンツ摂取一択ですね。
とりあえずAとする。みたいな意味で使いやすいです。

使いやすいけど、作品=コンテンツなのか?と言われるとまた難しくなりますね。
私は自分では私の漫画のことを「コンテンツ」だと思っています。でもいつか「作品」を作りたいな、みたいな気持ちがあったりします。「切実な作品」という言葉を使ったりもします。「切実な作品」を作りたい。でも切実な作品は「切実な作品を作ろう」と思ってできるものでもないだろうから、思えば思うほど遠のいていっているような気もします。

私はどちらかというと漫画よりも文章の方が、ワンチャンあるなって感じています。
私の文章は自分で言うのもなんだけど無法地帯。未開の地。何も考えずに自由にやらせているので、時々驚くものが書けたりするんです。自分で思ってるだけなんですけど。

でも文章で、「作品」を作ろうと思うと、やっぱり漫画と同じようになってしまうのでしょうか?つまり「コンテンツ」を作ってしまう、という…
「コンテンツ」が悪いわけではないんですが…
あ、今思ったけど、もしかして、「作品」とは作っている間に「生きて」いて、完成した瞬間に「死ぬ」んじゃないしょうか?
漫画を描いていて感じていたのはそれだったのかもしれないです。制作途中の引力が、完成するとどうしても失われているように思っていたのですが、「完成=死」と考えると納得がいきそうです。

だから私は苦手だったのだな。どうしても気持ちを揺さぶられると死にたくなる。死ぬ気はないので日常生活に差し支える。単純に困る。だからコンテンツ摂取に慎重だったのです。

で、最近はそれでも「摂取したい」と言う気持ちが強くなって、コンテンツ摂取に対して大きく扉を開いているのです。すると、なんというか、つまりたくさんの「死」を浴びているんだけど、一周回って生き生きしてきた気がします。
この感覚、なんだろう、多分何かに例えられる気がするんだけど、長くなってきたのでやめますね。
とにかく、とても楽しく生きてるという話でした。

ではあとがきにいきましょう。

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