錆びたバス停、炭酸の抜けたソーダ
どうも、Vの配信者兼ラッパー兼note極稀出現妖怪、仁紫煙です。
noteで会うのは久しぶりな気もします。初めましての方は以後お見知りおきを。
まぁ挨拶も程々に早速今回の本題に入っていきましょうと。頑張って着いて来いと。
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ハイ!!!!!!
オイそこのお前!!!!!!!!!
タイトル見て「あっなんかエモそう」って思ったそこのお前!!!!!!!
お前だよお前!!!!
お前さぁーーーー!!!!!!!!
それでいいよ。(いいよ)
いきなり大きい声出してごめんね。
声は出てないか。文だからね。
まぁ、なんか、上手く言えないけどごめんね。
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はい、という訳で今回のテーマはね、IQを下げて言うなれば「バス停、なんかエモくね?笑」になります。
IQと年齢を少し上げて言うなれば、「我々は何故"バス停"や"炭酸の抜けたソーダ"に"エモい"というノスタルジー的感情を抱くの、カナ?😅」ですね。
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着いてこれてますか。
そうですね、例えばヨルシカとか好きな人は分かりやすいんじゃないでしょうか。
・雲と幽霊
・ただ君に晴れ
・あの夏に咲け
・負け犬にアンコールはいらない
・逃亡
これは僕が今バーッと探して発見した、歌詞に「バス停」が含まれるヨルシカの楽曲です。
なんなら「夏、バス停、君を待つ。」ってタイトルのインスト曲まである。全部いい曲です。聞いてみて。ギター上手すぎ。
更に、ヨルシカの作詞作曲をしているボカロPのn-bunaさんの楽曲「メリュー」にも、「古びたバス停」という言葉が出てきます。
僕はOrangestarさんというボカロPの方も結構好きなんですが、Orangestarさんの「DAYBREAK FRONTLINE」って曲には「ぬるくなった水」という言葉が出てきます。
どちらも、所謂「エモい」というコメントがバチバチに多いアーティストのように感じます。皆さんはどうですかね。わかんないんですけど。
で、まぁどのアーティストがエモいのかとかいう議論は今回に関してはどうでもいいんですよ。
僕が思うのは、「バス停」とか「ぬるくなった水」とか「炭酸の抜けたソーダ」とか「踏切」とか「溶けたアイス」とか「錆びた標識」とかってさ、、、
なんか、エモくなりがちよなぁ。
それって、、、
という訳です。
思ったことないですか?
個人的には、幼少期に比べて最近の曲ってこういう「エモい気がする単語」が表現として多くなった気がするんですよね。
ま、そういう表現大好きなんですけどね。
寧ろ好きだからこそ、なんでただの単語の羅列が心に訴えかけてくるのかにゃ~?って気になった訳です。
極論、古びてるのがエモいのであれば「穴が空いたパンツ」とか「日焼けしたプリント」が歌詞に出てくる曲も同程度あるはずでしょう。
「バス停」が出てくる曲が多いのは、「バス停」じゃなきゃ出せない味があって、かつそれが良いってことになりますよね。
それが何となく感覚としては分かるんですよ。「バス停」はいいね、「駅」もまぁわかる、「駐輪場」も個人的にはぽい、けど「駐車場」は違うかも?
感覚的に分かるなら一回言語化してみっか!!!
そういう回でございます。まぁ、僕としては一応1つの結論が出てるので前置きを長くしてみたらめっちゃ長くなりました。前もやったなこれ。
ここまで読んでる人は多分、こういうの好きでしょう。僕はこういうの考えてる時ワクワクするタイプです。一緒にワクワクしましょう。
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さて、では何故「バス停」や「炭酸の抜けたソーダ」はエモくなるのか。今回は「バス停」に絞って僕なりの考えを書いていきます。
まぁ勿体ぶる必要もなければ、既に1500字程度勿体ぶっているので言いましょう。
一言で言うと、
これなんじゃないかと。
はい、勿論噛み砕きます。
えっとですね、「バス停」とかの名詞って読んで字の如く、本来何かを指す名前としての言葉のことですよね。
僕を指す固有名詞は「仁紫煙」ですし、僕達のような配信者を指すために「Vtuber」という名詞があります。
だから、本来(ある物体を指す)名詞そのものには感情とか意思って内在されてないんですよね。
「バス停」を辞書で引いて、「バスを待つ場所、またはノスタルジーな雰囲気を感じる場所」とは出てこないでしょう。
だから、じゃあ「バス停」ってなんでエモいねん!な訳ですよ。
で、そういえば「バス停」ってバスを「待つ」場所なんですよね。これはまぁ当たり前なんですけど。
そして何かを「待つ」という行為には行為者がいて、行為者には動機や感情が付随する。
ここにポイントがあると思うんです。
「待つ」人は何を感じているでしょうか。
「待つ身は辛い」とも言うように1人で待つ辛さ、或いは待ち人が来ない寂しさ、早く来ないかなと期待したり、再会を前に逸る心、色々あるでしょう。
バス停を前に何かを歌う人はどういった人なのでしょうか。
いつも通りあの人が乗ったバスが来ることを楽しみにしているのか。
ふと立ち寄ったバス停で、かつて誰かと2人でバスを待った夕暮れを思い出しているのか。
もしかしたら、もう待ち人がバス停に来ないことを知りながらも足を運んでいるのかもしれない。
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と、まぁ色々な情景が浮かびます。要は名詞には、それに付随する行為、そしてその行為者、更にその動機や感情といったものが、蜘蛛の巣のように絡んでいることが分かります。
その要素が何か。そこが重要なんだと思います。
さぁ、先程挙げた例を振り返りましょう。「バス停」「炭酸の抜けたソーダ」「踏切」「溶けたアイス」「錆びた標識」。
どれも「待つ」、或いはそれに関連して「時間の経過」が要素として絡んでいることが分かるでしょうか。
特に「バス停」「踏切」「(錆びた)標識」には、行為者が「待つ」という要素に加えて、それぞれがそれ単体では意味の無い物である点も無視出来ない要素に思えます。
要は物も何かを待っているということです。
バス停はいくら待ってもバスが来なければ意味がありませんし、踏切も電車が来て初めて存在意義が生まれます。標識もそこを通る人、もっと言えばそれを見る人がいなければそこにある意味はないでしょう。
我々はそこに、「待つ身の虚しさ」や「1人取り残された無力感」のようなものを見出しているのかな~と思います。
だから、「古びたバス停」であり「動かなくなった踏切」であり「錆びた標識」なのでしょう。
都会の忙しなくバスが来るバス停ではなく、海辺の町にある1時間に1本しかバスが来ない寂れたバス停だから「エモい」のだと。
錆びた標識は、いつかあの子と見た時のまま、ずっと同じ場所で突っ立っている。僕のように。
夏の日に他愛ない話を交わしながら待ったあの踏切は、赤錆が目立つようになった。今じゃ僕のことを止めもしない。
だから、「エモい」のだと。
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まぁ、そういう訳です。なんとなく的は射ている気はしますが、専門家に聞けば恐らくまだまだ稚拙な論だとは思います。
こうして考えてみると、色々な言葉に応用出来そうな気がしてきますね。
例えば「煙草」は失恋曲によく出てくる名詞です。1曲ぐらい皆さんもパッと思い浮かぶでしょう。
僕が今思い浮かんだのはくじらさんの「ねむるまちfeat.yama」でした。いい曲です。
「煙草」と聞いて関連して思い浮かぶものには、「不健康」「香り」「嗜好品」「吸殻」あたりがありますね。
そこからイメージされるのは失恋して自棄になって自傷的に喫煙する人、別れても忘れられないあの人の香り、楽しんだ後は捨てられる煙草のような自分、あの人に憧れて吸った身体に悪い煙草、みたいなストーリーでしょうか。
実際、そういった情景を歌ったものも探してみると沢山あります。是非色々聞いてみてください。3markets(株)の「セブンスター」とか、ね!
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つまり、「バス停」や「煙草」には、たった数文字で人にここまで情景を浮かばせる力があるということです。すごいですよね。
そして我々には、たった数文字からここまで想像を膨らませることが出来る力があることになります。めちゃくちゃすごいですよね。
そして僕は楽しかったよということです。作詞してる身としてはこういうこと考えると楽しくてしょうがないんですよね。
是非皆さんも作詞するしないに関わらず、「この曲(文章)のここ、なんかいいな」みたいな時は、「何故これをいいと思うのか」まで考えてみてはいかがでしょうか。
新たな発見があるかもしれません。
発見はありましたが、オチはないです。
最後に、歌詞に「バス」が入っている仁紫煙の曲を置いて筆を置こうと思います。
いや、置くもなにも筆は持ってなかったです。
なんやそのオチ。
さよなら再見、またきてにしぇん。仁紫煙でした。