家の近所で、写真を撮れない
今年になってはじめた習慣のひとつに、川沿いの散歩がある。
ウォーキングと書けば何やら勇ましいが、はじめたのは本当にただの散歩だ。でもそのただの散歩が、自分に変化をもたらせた。
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そもそも散歩をはじめたきっかけは、単純に運動不足解消のためである。家にこもる時間が増えたため、意識的に外へ出かけるようになったのが今年の春のこと。
ある地点まで行ったら橋を渡り、対岸沿いを同じように歩いて自分の家へ戻ってくる。距離にして5キロを一時間かけて歩く。その散歩に、いつしかカメラを手にするようになった。
持ち歩くのは、ハッセルブラッドという古いフィルムカメラだ。レンズとボディ合わせて、重量は1.5キロ。それなりに面倒ではあるのだけど、それでも晴れた日はほぼ持っていく。
晴れの日に限定している理由は、ハッセルブラッドは遮光板を取ったり、真上からファインダーを覗きこんだりと、傘を差しながら扱うのがとても難しいカメラだからである。
そうして一時間の散歩の習慣は、晴れていれば一時間半くらいかけてのフォトウォークと変容している。
なぜこれが、今年の自分に変化をもたらしたか。それまで近所で写真を撮ることが、ほぼなかったからだ。なかったというより、「撮れなかった」がより正確な表現となる。
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フィルム写真を撮りはじめたのは、2018年7月だった。伯父が遺したハッセルブラッドを見つけたことで、フィルム写真の世界へ足を踏み入れた。
その年の暮れに2ヶ月間ヨーロッパに滞在したのだが、その際にもハッセルブラッドを連れて行った。そのときから、「フィルムカメラで、海外の街並みを撮っていこう」そんな思いが自分のなかに生まれていた。
海外へ出かけたひとは、同じような感覚を持つかもしれない。カメラを持って異国の地に降り立つと、撮りたいものがともかくたくさん出てくる。目の前のあらゆるものが新鮮。現地の人が日常を過ごしている、ただそれだけで、とても魅力的な被写体に見える。
それに引き換え、日本ではうまく写真を撮れなかった。特に自分の家の周辺はだめだった。
金沢市中心部に住んでいるのだけど、家のまわりの街中の光景は普段見慣れすぎていて、被写体として見ることができなかった。撮ったとしても、「ほんとうに自分はこれを良いと思っているのかな。なんとなくそれっぽいものを撮っていないかな」と疑問が出てしまう。撮れば撮るほど自信を失ってしまう、そんな悪循環が起こっていた。
自信を失うことは、精神衛生上やらないほうがよい。
「だったら、地元では撮らなければいいじゃないか」と思った。
「なにも卑下することはない。海外へ行けば、その土地に住んでいる人とは違った視点を持てるのだから」と。
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そういうわけで毎年、何週間かは海外へ撮影旅行をしようと決めていた。今年は東欧をいくつかまわろうと思っていた。一度チェコ共和国のプラハへ行ったとき、建物や鉄道、生活用品のデザインが懐かしい形状をしていて、興味を持ったのだ。
ところがご存知の通り、新型ウイルスが世界中に蔓延してしまい、海外へ気軽に行けなくなってしまった。行けたとしても、ホテルなどで一定期間の待機を強いられるだろう。
そうして今年の撮影旅行を、早々に断念してしまった。かといって写真を撮りたい思いはある。さてどうしようか。そんな状況で、ふと「近所の川沿いを散歩しているときに、写真を撮ってみよう」と思いカメラを手にしたのだ。
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散歩をはじめて数ヶ月は、カメラを持ち歩くなんて考えてもいなかった。前述の通り、近所で写真を撮ることをそもそも放棄していたし、散歩は散歩、撮影は撮影と別物に思っていた。
それが散歩をはじめてしばらくして、川沿いの光景が意外と魅力的なのに気づいた。単調に見えて変化に富んでいるのだ。景観のためか、木々が多く植えてある。ジョギングやウォーキングのための歩道が整備されていて、公園の散歩道もある。
晴れている日には人が多くいて、寒い日には少ない。ある日には、川沿いの芝生にグラウンド・ゴルフを興じるお年寄りたちが大勢いた。ある日には、ネットをたててトスバッティングしている女子学生たちがいた。陽がさせば歩道へ木漏れ日が降り注ぎ、対岸の家々の上には形のよい白い雲が浮かんだ。
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