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嘘をつかずには生きられない

あなたは今日、嘘をついただろうか。

自信を持って「いや、ついていない」と答えたなら、さらに畳み掛けてみよう。昨日は嘘をついただろうか。なるほど、「ついていない」と。では、今月だったらどうだろう? 今年は? 去年は?

ここまで詰め寄られてなお首を横に振るとしたら、「それ自体が嘘だ」と言わざるを得ない。

誰でも日常的に嘘をつく。恥ずべきことでもなんでもない。ぼくも日常的に嘘をついて生きている。自分で認識できないレベルの些細な嘘なら、息を吸って吐くようにほぼ反射的についている。

これでもかなりマシになったと思うが、もっと幼いころ、小学生くらいが一番ひどかったかもしれない。話していることの半分(下手したらほとんど)は、嘘だったんじゃないかと思う。

例えば小学6年生のときについた嘘を、今でもはっきりと覚えている。その嘘を思い出したからといって痛みは感じないが、手のひらで誰かから少し胸を押し付けられたような息苦しさを感じる。

それはこんな話だ。

ぼくを入れた5〜6人のグループは、教室でバカらしいことを言ってふざけ合っていた。ごくありふれた、小学校の放課後の光景だ。

そのとき、外の廊下を歩く担任の姿が目に入った。担任は背が高く痩せ気味で、ぼくたちはその身体的な特徴をある野菜に例えて陰でからかっていた。もちろん今となっては、身体的な特徴をからかうことは許されないとわかっている。当時は分別のつかない子どもだったと、大目に見てもらいたい。

担任は何か考えごとをしていたのか、自分の受け持っている教室の中を一瞥もくれずに通り過ぎていった。担任が通り過ぎたあと、ぼくたちは顔を見合わせ合図し教室から廊下へ顔を出した。そして担任が教室から十分に離れたのを確認してから、その背中に向かって「おーい、〇〇」とその身体的な特徴をからかった。

陰で言われていたとはいえ、その嘲笑に神経を尖らせていたのだろう。担任はその言葉に気づくと踵を返し、血相を変えて走ってきた。

身体的な特徴をネタに笑われれば、誰もが嫌な気分になる。それが自分の教え子からであれば、怒りが一瞬でK点を越えるのは当然のことだ。

ぼくたちはそんな当たり前のことを想像できる知能を、まだ持ち合わせていなかった。ぼくたちは恐ろしい形相で走ってくる担任を見て血の気が引き、慌てて教室の中へ逃げ込んだ。卑怯にも素知らぬ顔をすることに決め込んだのだ。

担任は教室に駆け込んでくるや、「今、悪口を言ったのは誰だ!」と怒鳴った。机や椅子、黒板消しが飛び上がりそうなほど、大きな声だった。本気で怒った大人を見たのはこのときが初めてだ。担任は唇を震わせながら、「お前か!」「お前か!」とぼくたち一人一人を指差して詰め寄った。

ここで、「はい、ぼくが言いました」と答えればどうなるか。結果は火を見るより明らかである。ぼくたちは口を揃えて「違います」と答えた。

もちろん担任は、その場にいた誰か(もしくは全員)が悪口を言ったと確信していたはずだ。そうじゃないとこの教室に入って、怒鳴り散らしはしない。しかし歩いている背中越しに遠くから言われたものだから、「確かにこいつが言った」という確証がない。さすがに疑わしいだけで、罰を与えるわけにはいかない。そのため、生徒に自白させるしかなかったのだ。

ほぼ全員が口を揃えて「違います」と答える中、M君だけは違っていた。最後に自白を迫られたM君は、「責任を取らなくては」と覚悟を決めたのか、それとも彼なりに何かしらの美学があったのか。声を震わせ答えたのだ、「ぼくが言いました」と。

これがNHKドラマ「中学生日記」であれば、M君は罪を許されたかもしれない。ジョージ・ワシントンの桜の木の逸話もある。担任は「お前らも正直なMを見習え」と讃えることすらしたかもしれない。

しかし現実は、時間内に完結するご都合主義のドラマや尾ひれのつく偉人の逸話とは違う。残酷である。担任は「お前か!」と激昂すると、M君の首がもげるほど何発もの往復ビンタを喰らわせたのだ。

ぼくが小・中学校時代を過ごした1980年台は、今のZ世代からすると別世界に思えるくらい教員から日常的に暴力が振るわれていた。教育機関とは名ばかりで、教室の中は暴力で生徒を服従させるのが常態化した軍隊的なものだった。

担任は気が済むまでM君に往復ビンタを喰らわせると、ぼくたちを睨みつけ、荒い息を吐きながら教室から出て行った。ぼくたちは廊下に顔を出し担任の姿が消え去るのを十分に時間をかけて確認してから、一人犠牲になった勇敢な兵士の元に駆け寄りその安否を気遣った。

小学生の割に体格の良かったM君は、身体的にはそれほどダメージを負っていないように見えた。幸いなことに、首ももげていなかった。目には涙を溜めていたが、頬には一筋も流していなかった。気丈だった。

それでも大人からマシンガンのような往復ビンタを食らったのである。精神的なダメージはいかほどだろうか。

「ごめんな…」「すごいよ、お前は」と放心状態のM君に労りの言葉をかけるぼくらの中で、グループの一人がこう呟いた。

「バカだなあ、正直にいうなんて」

その通りだ。正直に言ったM君はバカだった。みんなと同じように「ぼくじゃありません」と嘘をつけば、少なくともすべての責任をM君が背負うことはなかった(担任は振り上げた拳を下ろせず、事態は混沌としただろうが)。

嘘をついて罪を免れたことは、それこそ学生時代には無数にある。先生に怒られたり先輩にしごきを喰らうのは、決まって正直者である。その場で調子のいいことを言って取り繕う人間は、罪を逃れるのが常だった。

幼年期から少年期、青年期と、ぼくたちは様々なことを猛スピードで体験し、学習していく。社会に順応し、受け入れられ、摩擦なく生きていくための処世術を学んでいく。その中でも嘘をつくことは、かなり早い段階で習得する「技能」の一つである。

多くの人は親やそれこそ学校の担任から、「嘘をつくな」と厳しく叱られた経験があるだろう。「嘘つきは泥棒の始まり」の言葉もある。閻魔大王という得体の知れない怖いおじさんがいて、嘘をついたものの舌を引っこ抜く。そんな迷信も、言葉よりイメージが先に来る幼い子どもには抑止力として機能する。

一方、世間には、嘘をつくことを正当化する言葉もある。「正直者はバカを見る」「嘘も方便」なんかは、そのわかりやすい例だ。

「舌を抜かれるなんて、たまったもんじゃない」と正直であろうと努力しているうち、嘘つきが正直者より優遇される場面に出くわす。何度かそんなケースを目にすると、正直であろうとする真っ直ぐな心に「ひょっとして、嘘をついた方が得するのではないか」と影が落ちてくる。

嘘をついてはダメなのか、それとも嘘をつかないと損をするのか。ぼくたちの心はそれら二つの狭間で揺れ動き、場面に合わせ両方を出し入れするようになる。そしてある地点を境に、「どうやら正直に話すと損をすることが多いようだ」と気づくのだ。その地点を越えると、嘘は水位を越えあふれていく。

赤く腫れ上がった頬で、こぼれんばかりの涙を目に溜めたM君。その姿をみながら、「身を守るためには嘘が必要」とぼくたちが思うのは致し方ないことだった。みんなそうして大人になっていくのだ。

ここまで書いて、ふと考える。「どうしてぼくは、この出来事を今でも鮮明に覚えているのだろう」と。どうして思い出すと、胸に息苦しさを感じるのだろう。

嘘をつくことで得られたものは、その場での体罰からの逃避である。圧倒的に力の勝るものが、暴力で人を屈服させる。それは最低な行為だ。その状況から逃れるため担任へ嘘をついたことには、微塵も罪悪感を感じない。それでも何か引っかかりを感じる。「あのとき嘘をつかない選択肢を取っていたら、どうなっていただろう?」と。

M君と同じように首がもげるほどの往復ビンタを喰らったのは間違いないが、そのことをそれから数十年経った後にまで覚えているだろうか。

もちろん自分に暴力を振るった担任のことは、しっかり覚えているとは思う。ぼくは学生時代に自分や友達に暴力を振るった教師のことを、今でもしっかりと覚えている。

暴力そのものではなくて、「ぼくはあのとき、嘘をついたのだ」という記憶。保身のために嘘をついた記憶。それがいつまでも自尊心を傷つけ、数十年経った今でもこの出来事が忘れられないでいる。

これまでに嘘は数え切れないくらいについてきた。記憶には限りがあるから、そのすべてはもちろん覚えていない。しかし保身のためについた嘘は、いつまでも心のどこかにシミとなって残っている。そして不意に思い出したときにそのシミは、熱を帯び、ぼくの呼吸を少し息苦しくさせるのだ。

嘘をつくのは、とても簡単なことである。それに引き換え、正直でいることは難しい。正直になることで自分にデメリットが生じるなら、脳を経由せず反射的に嘘が口からこぼれでる。

「大人はどうして、嘘をつくなと言うのだろう」と子どものころに疑問を持っていた。幼いながら、「大人も嘘をつくじゃないか」と彼らの欺瞞に気づいていた。

しかし自分も大人になった今は、その理由が少し理解できる。「いいか、くれぐれも正直になるなよ。嘘をついた方が自分にとって得だぞ」などと子どもへ話したら、胸のシミが疼き、内面に致命的なダメージを与えるかもしれない。

「本当は嘘などつきたくない」と本音では思っているが、暮らしている社会では正直になることで損をする。周りの空気も、正直であることを許さない圧力をかけてくる。だからせめて子どもへは「決して嘘をつくな」と諭し、その矛盾した自分の心のバランスを保っているのだ。

そろそろ、まとめに入ろう。

この話をきっかけに読んでいる人の人生がより良くなることが書ければと思ったが、どうやらそれは無理なようだ。「嘘をつかないでおこう。正直に生きよう」と思ったところで、嘘のこぼれる瞬間にはそんな決意は忘れている。死ぬ間際には、ぼくの心は嘘のシミで埋め尽くされているだろう。

最後に告白する。ここに書いた話にも、重大な嘘が一つ含まれている。

担任に悪口を言ったのはM君を含めて二人だけで、ぼくを入れた残りの3〜4人は、その場に居合わせ、ことの成り行きを見ていただけだった。この話を書きながら、「自分も悪口を言った側に入ったほうが、話に説得力が生まれるのではないか」と思い、ほぼ自動的に真実の土台に嘘を建て増ししたのである。

「正直であろう」と決意することは容易いが、「正直であること」はとても困難だ。それが自分にメリットの生じる場合は、なおさらである。この文章を書いている最中に、改めて思った次第。


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