写真家・濱田英明氏、第二回オンライン・リーディングパーティー。手書き文字で刻まれる記憶
今どき、手紙を送る人は稀だろう。メールでさえ宛名や挨拶がまどろっこしく感じて、LINEなどメッセンジャーで済ませるのが主流になりつつある。そんな時代のなかでも、「手書きで文章をつづる。その面倒な行為をやる意味は、確かにある」そんなふうに思った。写真家・濱田英明氏のオンライン・リーディングパーティーに参加しての感想だ。
このイベントは濱田氏自らが上梓した写真集を、オンラインで参加している全員と一緒にめくっていく試みだ。2020年5月16日に第一回が開催され、同月30日の夜22時から第二回が開かれた。
(第一回の様子は、こちらに書きました)
両日とも参加したひとは、第一回との相違点も楽しめるイベントとなった。写真集の解説をTwitterの専用アカウント(@amiHamadaHdk)で発信するのは変わらず、2回目とあって濱田氏自身、前回より気持ちに余裕があったのか遊び心に満ちていた。
紙とペンを用いてミニイベントがあったり、コーヒーカップへみんなでハートマークを注いだり、突然、濱田氏があんバタートーストを焼いて食べだしたり(そしてあんこを写真集にこぼしたり)。それらを受け入れる親密な空気が、画面上に流れていた。
そのなかでぼくが気になったのは、濱田氏が今回コミュニケーション手段として用いた手書きの文章だった。
インスタライブは映像だけでなく、音も流せる。最も簡単な伝達方法は、口頭で話すことだろう。しかし濱田氏は、前回同様、終始言葉を発しなかった。それだけでなく、解説用Twitterの発信量も第一回に比べ少なかった。それでもイベントは前回より15分ほど長い、深夜0時15分ごろ終了した。なぜTwitterでの発信は少なくなったのに、時間は長くなったのか。その理由は、手書きの文章が多くなったからだ。
特に時間を多く割いたのは、エジプトのページを開いたときだ。そのページでおもむろに紙とペンを取り出した濱田氏は、写真そのものでなく、そのときのエジプトの状況(ラマダーン)や気に止まった出来事(イスラムで最もポピュラーな名字とそのニックネーム)を手書きの文章で伝えはじめた。
(こちらの写真は、mikaさん @_mi_c_am_ にお借りしました。ありがとうございます!)
紙の量にして、A4用紙に3ページ。画面越しに読めるよう、文字はそれなりに大きく書いてある。つまりA4に3ページといっても、情報量はごくごくわずかだ。おそらく口頭であれば、1〜2分で終わったであろう。
濱田氏がこのページでTwitterでなく手書き文章を選択した理由は不明だが、結果的にぼくはこのシーンをありありと覚えることとなった。大げさに言えば、このときの空気の匂いまで覚えている。
ぼくはこの行為を、「フィルムカメラと似ている」と思った。
濱田氏がフィルムカメラを使っているのは、ファンなら誰もが知っているだろう。そしてご存知のようにフィルムカメラは、デジカメに比べ圧倒的に不便だ。
顕著なのが撮れる枚数。SDカードなどデジタルの記録媒体と比較すれば、フィルムは撮れる枚数が極端に限られている。特に濱田氏が使っている中判カメラは、一度のフィルムで10枚しか撮れない。残り1枚で何かを撮った直後、つまり残りフィルムがゼロの状態で抑えたい別のシーンが現れても、シャッターを押すことが物理的にできない(新しいフィルムを装填したとき、撮りたい状況は変わっているかもしれない)。つまりフィルムカメラを選択したということは、デジカメであれば撮れたはずのその他多くを諦めることとなる。
手書きの文章も、諦めざるを得ない性質のものとしてフィルムと似ている。タイピングであれば、思考と遜色ないスピードで言葉を書けるだろう。まして「話す」ことを選択すれば、思考と口に出す言葉はほぼ同時になる。
一方、手書きはそうはいかない。まずは文字を書くという、肉体的な面倒さがある。たくさんのひとが見ているのだから、書き直しは基本的に避けたい(できない)。自ずと頭のなかで文章を決めてから、文字を書くことになる。つまり思考のすべては書けず、「時間内に書ける、本当に使いたい言葉」以外は捨てざるを得ないのだ。
そうしてリーディングパーティーの画面に映しだされた文章は、多くの言葉を諦めた結果なのだ。画面を通しそのことを知るぼくたちは、そこに書かれる文章を一層、大切なものとして記憶に植え付ける。
それだけではない。万年筆を走らせる音や、画面から聞こえる外の電車の音。目にし、耳に聞こえるそれらすべてが作用し、手書きのわずかな情報量の文章がぼくたちの記憶に定着していく。
ぼくは濱田氏の写真を分析する言葉など持たない。濱田氏のファンの人たちも、そのようなものを望まないだろう(なにしろ、ファンであるぼく自身がそうだ)。ただ全2回に渡って行われたリーディングパーティーに参加して思ったのは、濱田氏は「体験とそれに伴う記憶」を大切にしているということだった。昨夜の手書きの文章が、それを象徴的に表していると思った。
体験とは文字通り、身体を伴った経験だ。ぼくたちはページがめくられ、解説されるのをただ見ているだけではなかった。自分たちもページをめくり、お茶を飲む。写真集に使われている紙の触感をみんなで確かめる。万年筆のペン先が紙を走る音を聞く。ゆっくりと進んでいく文字をみんなで見つめる。
ときにはぼくたちもペンを持ち、文字を書く。ハートマークをカップへ沈め、コメントで拍手を贈る。これらすべてをひっくるめて、「良い時間だった」そんな言葉が自然と出てくる。これを体験と呼ばずになんと呼べばいいだろう。
このリーディングパーティーが行われる2時間前、濱田氏は別のオンラインイベントを開催していた。有料チケットを購入した人だけが参加できる、写真集製作に関してのオンラインレクチャーだ。そこでは視聴者との双方向のコミュニケーションはあまり行われず、2時間弱の間に写真集の裏話が濱田氏の口から解説された。
その場所にも参加したぼくは、すごく良い話を聞けた満足感がもちろんあった。写真集に対する理解が深まり、自分の撮る写真や作品に活かそうと前向きな希望を持った。でもオンライン・リーディングパーティーで手にしたのは、それとはまた違う種類の満足感だった。その満足感とは、カメラや写真といった物体そのものとは別の場所に存在する、身体の内側から自然と湧き上がる温かい感情によるものだったのだ。
最後の写真をめくった際、濱田氏は改めて万年筆を握った。
こうやって同じ時間を一緒にすごせたことは
宝物
ありがとうございました
濱田氏いわく、この写真集(DISTANT DRUMS)を使ってのオンライン・リーディングパーティーは、これでおしまい。今回が(おそらく)最後である。
2回だけの限定された時間だからこそ、特別な感情を持って体験した人もまた多かったはずだ。なにしろ、2回とも長い感想を書いてしまった自分がそうだ。写真家・濱田英明氏と、同時代に生きていることに感謝した二夜だった。
ありがとうございました。
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全2回のリーディングパーティーのことがまとめられています。
https://togetter.com/li/1513995
写真集『DISTANT DRUMS 』の販売サイト
https://hideakihamada.stores.jp
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