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Twitterをやめた日

先日、ようやくTwitterをやめることができた。正確な日付は、2023年4月6日。登録したのが2010年6月なので、13年弱つかっていたことになる。その間おそらく、一日一度はTwitterの画面を開いていたはずだ。

これまでTwitterに費やした時間は、どのくらいになるだろう。仮に一日10分とすれば、ざっと47000分。時間数に直すと、783時間になる。ちなみに日数で換算すると、32日だ。

丸一ヶ月…。

こうして改めて数字にしてみると、膨大な時間である。そして当然ながら、一日10分で済んでいるわけがない。

2019年ごろから、「Twitterをやめようかな」と思うようになった。しかし思うだけで、実際に行動することはない。「やめようか、続けようか」とぐだぐだしながら手癖でTwitterのホーム画面を開いてしまい、絶え間なく流れるツイートを眺めた。「アクセルを踏みながら、同時にブレーキを踏む」、そんなどっちつかずの状態である。

当然ながらその状態は、エンジン(精神)に良いわけがない。やるならやる、やらないならやらない。そのどちらかが良い。

そもそもTwitterとは何なのだろう。いつの間にか社会に浸透していたが、始まりの発端は何だったのか。何事にも始まりの瞬間がある。それはTwitterにしろ例外ではない。

Twitterは2006年、当時ニューヨーク大学の学生だったジャック・ドーシーが考案したものだ。着想の種は子どものころに傍受していた、街中を行き交う車の無線通信だった。

そこではメッセンジャーや、荷台を運ぶトラックの通信が行き交っていた。タクシーや救急車両の通信もある。それら短い無線連絡の飛び交っている様子が、後にテキストメッセージで情報を出し合うプラットフォームの着想へ結びついたのだ。

そのときジャック・ドーシーの考えたTwitterのイメージは、チャットのような明確な会話目的ではなく、目の前の他愛もない出来事(今、何してる?)をただプラットフォーム上へ発するだけといったものだった。テキストを見た人は、感心しても良いし無視しても良い。そんな自由なイメージだ。

Twitterは開発当初から、そして今でも、「ソーシャルネットワーク(SNS)ではない」と定義されている。ソーシャルネットワークとは会社の同僚や友達、親族など、近しい人たちとネット上で結びつく、そんな「社会的繋がり」を促進するサービスとされている。

Twitterにもフォローの機能はあるが、それはあくまで情報を取得するための行為であって、フォローする人が誰であるかはあまり問題ではない。Twitterは「人と繋がる場」ではなく、「情報を取得する場」なのである。

Twitterにおいて重要なのは、あなたがフォローしているのは人ではなく、その人が発信するものだということです。Twitterはソーシャルネットワークではないので、相手を「友達」と呼ぶ必要も「親戚」と呼ぶ必要もありません。なぜなら、あなたは直接相手と接しているわけではなく、相手が投稿したものと接しているからです。

The important consideration there was that on Twitter, you’re not watching the person, you’re watching what they produce. It’s not a social network, so there’s no real social pressure inherent in having to call them a ‘friend’ or having to call them a relative, because you’re not dealing with them personally, you’re dealing with what they’ve put out there.

2009年2月ジャック・ドーシー氏のインタビューより Twitter creator Jack Dorsey illuminates the site’s founding document. Part I

冒頭にも書いたが、ぼくがTwitterを使い始めたのは2010年6月である。

使い始めてすぐ、「やめたい」と思ったわけでない。2010年ごろのTwitterは、2023年現在とは雰囲気が違っていた。少なくともぼくの観測する範囲では、それはもっと牧歌的なものだった。

2010年といえば、日本にSNSたるものが徐々に浸透しはじめたころである。Twitterにしろ(すでに日本版リリースから2年経っているとはいえ)、まだまだ手探りで使っている人が多かったように思う。ぼくもまた、Twitterで積極的に発信などしなかった。関心ある有名人やニュースサイトのアカウントをフォローし、主に情報収集として使っていた。

まさにジャック・ドーシーが定義していた、「発信をフォローする場」として利用していたのである。

タイムラインに流れてくる内容も、「渋谷なう」「確定申告だん」など行動や状況を簡単につぶやくものが目についた。それぞれがそのときに起こった出来事や感じたことを140字以内で自由にツイートし、見た人はそれを世間で起こっている現象の一つとしてただ取得する。

そのころはツイートに「いいね」をつける機能もなく、「ツイートをバズらせたい」という欲求が、(もちろんゼロではないにせよ)あまり顕在化していなかったと思う。

しかしそんなTwitterの牧歌的な時代は、長くは続かなかった。

2010年代前半において、Twitterでフォロワーの多い人は大きく二種類いた。もともと著名な人か、もしくはユニークな発信のできるごく一部の一般人である。

例えばぼくのような著名でなく、おもしろい発信ができるわけでもない一般人は、フォロワーの増える道理がそもそもない。「Twitterは情報を集めるツールの一つ」という認識しか持ちようがなかったので、「フォロワーを増やそう」など思いつきもしなかった。要は、気楽に楽しめていたのだ。

それがいつしか、「フォロワーが増えるとメリットがある」という言説が出始めた。その理屈はこうだ。

商品やサービスをリリースしたとする。そのときTwitter上で多くのフォロワーを持っていれば、告知した際に彼らが買ってくれたりリツイートで拡散してくれたりする。つまりTwitterが、「無料で使える広告ツール」として有意に働くというのである。

これはまったくその通りだ。たとえ1000人のフォロワーであっても、広告としての効果はある。1000人のフォロワーのうち5%でも濃度の濃いフォロワーがいれば、50人が購入や拡散に協力してくれる。

彼らにとってフォローしている人のツイートは、ランダムに表示される企業のバナー広告とは性質が違う。そこには製品なりサービスなりを作った、「その人の表情」が見える。応援したくなるのだ。

一つのTweetには、血の通った人間の息遣いがある。ウェブ上にランダムに広告を出すより、ほんの数百から数千人のフォロワーを持ったアカウントのツイートが効果的。そんな場面は多々あるだろう。

Twitterを侮るなかれ。いつしかTwitterは、テレビや新聞と同じような「メディア」として機能し始めたのである。

こうした認識が広がれば、「Twitterのフォロワーを増やさないと」となるのはごく自然な現象だ。また一度その流れができれば、「目的がなくとも、ともかくTwitterのフォロワー数を増やす」となる。つまり、手段の目的化である。

手段が目的化すれば、それは「行為そのものが楽しい」いわば趣味の領域となる。ツイートの反応を見るのもインプレッション分析も楽しくなる。「フォロワーを増やすのに効果的な打ち手は何か」と考え、どんどんPDCAを回していける。

Twitterには「ツイートがどれだけの人に見られたか」「そのツイートによってどれだけの人がフォローしたか」などのわかる分析ツールがある。そんな分析ツールを用意していること自体、Twitter社が手段の目的化を奨励している証だ。

一方、手段を目的化できない場合、つまりハマれなかったらどうなるか。Twitterに限らず、ネットは数字が可視化される残酷な世界だ。フォロワーを増やす目的でいくらTweetしても、増えないばかりか「いいね」ももらえないとしたら。

自分よりあとにTwitterを始めた人がどんどんフォロワーを増やすが、自分は何を書いても増えていかない。「いいね」ももらえない。この現象は単に「向き不向き」が大きいと思うのだが、一向に数字が増えないと相対的に価値のない人間に思えてくる。

それでも「Twitterでフォロワーを増やすことは、必要なことだ。折れずに頑張る」と思うのも、一つの道だ。またフォロワー獲得競争の空気に乗らず、半径2メートルの小さなコミュニティで満足できるならそれも幸せだろう。

一方、変わっていくTwitterの空気に、居場所を見つけられない人もいる。それがぼくだった。

ファボが「いいね」に変わった2015年ごろから、Twitterとの距離の取り方を見失ってしまった。情報取得だけしていたつもりが、「そうか、フォロワーを増やした方がいいのか」「そのためには、もっと人の役に立つことを書いた方がいいのか」とよこしまなことを考えはじめ、発信がぐらついてきた。

13年やってフォロワー数が400くらいなのだから、フォロワーを増やすことに向いていない(はっきりいえば才能がない)のは明らかである。向いていないと気づいてその努力はしなくなったが、一度そういう意識でTwitterをやると元の状態には戻せない。

ツイートするたび「いいね」がついたりつかなかったりすれば、どうしても「評価してもらいたい、あわよくばフォロワーを増やしたい」と媚びる書き方をしてしまう。

ただ「確定申告だん」とだけ書いていたツイートが、「確定申告が終わった。今年の締め切りは3月15日。個人事業主の皆さんは、がんばって間に合わせましょう。マネーフォワードはアプリから書類を送れておすすめ」と何かしら有益な情報を入れないとダメなように思えてくる。

ツイートした後には、「いいね」がついているか確認するために何度も画面を開く。気にしないようにと思っていても、ついていなければ心のどこかは必ず落胆している。その逆に予想を上回る反応があれば、脳が快楽を感じているのがわかる。それが欲しくて、また媚びるようなツイートをする。

そして、あるとき気づいた。「ああ、そうか。ぼくは周りからの反応が欲しくて、ツイートを書いているのか」と。

「いいね・リツイート・フォロー」という報酬が欲しくて、通知が来るたびに感じるドーパミンが欲しくて、書いているのか。

これはもう書いているのではなく、書かされているのではないか。仮想現実を見させられて現実世界の動力となる、『マトリックス』の住民と変わらないではないか、と。

こうして「Twitterをやめたい」とくすぶっていた気持ちが、今年の3月終わりになって急に鮮明になった。「認められたい」という弱い心によって、書くことや書き方をコントロールされているように思える。他者からの評価軸が、自分の行動へ過剰に入り込む。それが嫌だったのだ。

しかしそうわかったあとでも、ぼくはその場からなかなか立ち去ろうとしなかった。なぜだろう?

おそらくTwitterという群れから抜け出すのが、怖かったのだと思う。社会的な動物である人間は、群れからはぐれることを本能で怖れる。

もしやめないでいる原因に恐怖があるなら、そのこと自体も抜け出すべき理由になる。なぜなら恐怖の大部分は、自分の心が生み出す幻想だからだ。

以上のような長ったらしいことを友人に話していたら、「で、結局、やめるの?」と問いかけられた。やめる? ぼくは10年以上続けたTwitterを、今や社会の出来事を伝え合うインフラにさえなっているTwitterを、やめるのだろうか?

「Twitterだけで繋がっている人と、切れてしまうからなぁ…」ともごもごしていると、友人は言った。

「わかった。じゃあ、今が死ぬ直前だと想像してみて。その瞬間に、『Twitterに時間を掛けてきて良かった』と思えそう? 思えるんだったら、続ければいいんじゃない」

友人のこの言葉を聞いた数分後に、ぼくはTwitterのアカウントを削除した。いつ寿命が尽きるのかわからないが、おそらく未来のぼくは、どっちつかずでTwitterに時間を使っている今のぼくにため息をつくだろう。未来とはいえ、同じ人間の考えることだ。想像がつく。

アカウントを削除したあと、「なんだ、やめるのはこんなに簡単だったのか」と体が軽くなった気がした。

おそらくTwitterくらいで焦燥感を抱いたり不自由さを感じるぼくは、神経がやわなのだろう。スマホを通して行動のすべてを吸い上げられ、あらゆる情報に待ち伏せされるのが、いま生きている世界だ。Twitterの反応に神経をすり減らすようでは、これから先が思いやられる。

Twitterをやめたことが影響しているのかわからないが、2023年の4月はとても穏やかな日々を送れた。


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