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特攻 空母バンカーヒルと二人の神風 マックスウェル・T・ケネディ ハート出版

 太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)初めごろより、日本の敗戦が見え始めると、日本軍は、若い人達を主力とする神風特別特攻隊(特攻)を編成し、米軍の戦艦に体当たりする戦略に出る。特攻に出れば、帰ることは出来ず戦場で散る事になる。その為その戦果は、日本側では、分からない。本書は、神風特攻隊により攻撃を受け大破した空母バンカーヒルの乗組員たちの状況をマックスウェル・ケネディ氏(米国大統領、ジョン.F.ケネディの甥)が聞き取り調査した結果を基に、当時のバンカーヒル内での状況を克明に記したものである。と同時に、かつての、日本の特攻隊員やその関係者への聞き取り調査をされており、それを元に、日本の若者が特攻に向かわざるを得なかった背景もしっかりと分析し、日本側の状況も著わされている。
 米国の戦略爆撃調査報告書には、1945年4月6日から6月22日の78日間に日本軍の特攻に拠って艦船26隻が沈み、164隻が損傷したと記されている。全期間を通じた、神風による被害は、空母36隻(正規空母16隻)を含む288隻に及び、その内34隻が沈没した。一方、戦死した神風特別攻撃隊員は、3913名に上る。この内2525名が海軍、残りの1388名は陸軍搭乗員で、その多くが20歳前後の若者だったと記されている。
 1945年5月11日にエセックス級空母バンカーヒルに立ち向かったのは、鹿児島県鹿屋基地に所属の第6、7昭和隊。メンバーは、 安則盛三(21) 石嶋健三(?) 高橋三郎(22) 小川清(22) 茂木忠(22) 根本宏(21) 石塚隆三(22) 篠原惟則(24) 黒野義一(19) 皿海彰(17) の10人。この内、安則盛三と小川清がバンカーヒルへの体当たりに成功する。小川清に至っては、体当たり後、機体から身体が放り出されバンカーヒルの甲板上に横たわっていたという。
 午前9時21分、安則盛三は、鹿屋にモールス信号を送った。「敵艦隊見ゆ」。 午前10時04分、今度は、小川清が「敵空母見ゆ」と打電。その直後、再び安則が「敵部隊見ゆ」と打電した。
安則盛三の突入状況は、かなりはっきり分かっている。安則は、バンカーヒルの右舷後方から艦首側に向けて、緩降下に入った。着艦しようとしているかにも見えたが、それにしては角度が急で、スピードも速かった。何よりも、彼は甲板に向かって機銃を掃射していた。安則の撃った弾の跡は、甲板に並べられていた航空機の上を、斜めに突っ切る様に残されていた。安則は、機の突入直前に通常爆弾を命中させた。爆弾は飛行甲板を貫き、ギャラリーデッキの通路を破壊。さらに格納庫の天井を突き破ると、左舷側壁に穴を空け、バンカーヒルから6メートルほど離れた海上で爆発した。その破片は、左舷にいた乗員や砲員を切り裂き、バンカーヒルの船体(水面より下の部分にも)に多数の穴を空けた。安則の零戦は、甲板に並んだ航空機に激突すると、航空機で込み合った甲板を横滑りし、次々に破壊しプロペラを吹き飛ばした。
 小川は、安則と同じ位置から降下を開始したが、安則の航空機が甲板に激突した直後、右舷後方で激しくバンクした。安則がその死の瞬間に生み出した煙幕のお蔭で、小川は、艦尾側の砲員からは狙われずに済んだ。しかし、艦首側の砲員達は、キノコ状の煙幕の上を飛ぶ小川の姿をはっきりと捉えていた。小川は、バンカーヒルの後方で急旋回した。そして対空砲の嵐の中でバレル・ロールを行い、ほぼ真っ逆さまに(70度の角度で)バンカーヒルの中央、アイランドの基部に突っ込んだ。突入直前、小川は鹿屋に、最後のメッセージを送っていた。「我敵空母ニ必中突入中」

安則が突入した時には何の警告も受けていなかったバンカーヒルの砲員達だが、小川の時には、突入の20~30秒前には、機体を発見し、攻撃を始めていた。アメリカ軍の全ての火器が小川に照準を合わせていた。バンカーヒルだけでも、12門の5インチ砲、72門の40ミリ機関砲、52挺の20ミリ機銃が小川の零戦を狙っていた。機関銃の様な勢いで近接信管付の砲弾を発射する5インチ砲。激しく火を噴く40ミリ機関砲、零戦の胴体部を狙い撃ちする20ミリ機関銃。さらには、バンカーヒル以外にも、多数のアメリカ軍艦船(少なくとも巡洋艦1隻、駆逐艦4隻)が、小川目掛けて発砲していたのである。
 小川の零戦は、既に制御不能なはずの姿勢、速度に入っていた。しかも、機体には多数の銃砲弾を浴びいる。それでも小川は操縦桿を握り続けた。突入の途中、小川の零戦は左翼先端に40ミリ機関砲直撃を受けた。かなり吹き飛んだが翼自体がもげることはなった。小川は、煙と炎の中に突入した。任務の成功が自らの死、そして、自らとさほど変わらない他の大勢の男たちの死を意味する事を知りながら。小川は、絶好のタイミングで爆弾を投下した。零戦の突入に先駆けて、500キロ爆弾を落としたのだ。弾頭は、バンカーヒルの甲板で最も脆弱な地点、サイドエレベータの近く、飛行甲板の中心線からわずか8メートル左の箇所を貫いた。
 艦橋から1~2メートル、穴のすぐ近くの濡れた甲板に、小川清の遺体が横たわっていた。小川は、飛行機用ジャケットを着ていた。首には、真っ白なスカーフを巻いている。下半身は、切断されてしまったが、背中の後まで折れ曲がっている様だった。シュカカンは、言う、「上半身だけを見ると、生きている様でもあった」。シュカカンは、炎とあらゆるものの残骸に満ちた悲惨な甲板で、この若者の遺体をじっと見つめた。彼の体や服から何かを読み取ろうとでもするかのように、少しずつ身を屈め、近づいてみる。しかし、小川の傷一つない丸い顔は、何も教えてはくれなかった。
 機首不明の特攻機が1機、小川の零戦の近くを飛んでいたが、飛行甲板左舷にいたウォルとライオンズの目の前で撃墜された。小川の突入の瞬間を収めた写真の高解像度版を見ると、この航空機の姿を確認することができる。更にもう一機は、右舷側の海面すれすれを飛んでいた。リーヒとヴォルケーマは、それが撃墜される瞬間を目撃した。5月11日の朝は、これ以外にもたくさんの特攻機が、バンカーヒルに攻撃を仕掛けた。艦首、艦尾、両舷の砲員達は皆、声を揃えて、特攻機を目撃した、特攻機を撃墜したと言う。おそらくは6機程度の特攻機がバンカーヒル近くまで到達していたと思われる。小川が突入した直後には、バンカーヒルを周囲の護衛艦も3機の特攻機を撃墜している。空母エンタープライズの日誌を見ると、この朝、少なくとも5機の神風がバンカーヒル近くで撃墜されたと記されている。
 この攻撃によりアメリカ軍の被害も尋常ではなかった。艦内では、火災が発生し、有毒ガスが蔓延し、亡くなられた方、健康被害を受けられた方も沢山おられた。
 ビーズ・ポップは、葬儀の為に遺体を格納甲板に引き上げてやろうと、45名の水兵を連れて下へと向かった。艦の中央部の各区画は、安則の爆弾が炸裂した瞬間に、完全な水密防御の状態になっていた。ステール製の扉と昇降口は、それ以降閉まったままになっていたので、初めてそこに入ったのがポップ達だった。ポップがそこで見たのは、スチール製の扉から這い出ようとして、もがき苦しみながら死んでいった者達だった。彼らは窒息して死んでいた。その手や指は血まみれだった。最後の瞬間まで助かる道を模索して苦闘したのだろう。ポップ達は遺体を袋入れて紐で縛ると、まだ動く揚弾用エレベーターの所まで引きずっていき、それに乗せて格納甲板に引き上げた。さらに奥深くに進むと、光が完全に無くなった。艦の真ん中のこの暗闇の中では、誰かがいたとしても、皆死んでいるだろう。消火用水は3年間の汚れを浮かべつつ、各区画のハッチの開口部の高さまで溜まっていた。彼らは、真っ暗闇の中を、時として膝の上まである汚水をかき分けながら、のろのろと進んだ。両手のひらを開いて前方に突き出し、進路を確かめながらも、何かに触れるのではないかとびくびくしながら歩く。
 彼らは、遺体を仰向けにして、前後二手に分かれて抱え上げた。そして、煤だらけの汚水の中を、真っ黒でべとべとになった遺体を運ぶのだ。彼らは、濡れた遺体を抱えて急な梯子を上るのに苦心しながら何度も汚水の中に転倒した。ハッチを通る為に手足を折り曲げたり、急なラッタル(艦の中の階段)の所で引きずり上げたりすると、遺体は不気味な音をたてた。遺体を高い所に持ち上げようとすると、遺体からボタボタと落ちた雫が隊員たちに降り注ぐこともあった。
 回収班は遺体を押したり引いたりしながら、上へ上へと運んでいき、漸く格納庫の壊れた電灯の元に辿り着くと、そこに並ぶ遺体の長い列に、また新たな一人を加えるのだった。甲板には何百という遺体の不気味な列ができていた。それぞれの遺体のつま先にはタグが付けられ、身元が確認できる友達が現れるのを待っていたが、ついに最後まで誰だか判らないままの遺体もあった。遺体の側には、ユダヤ教、プロテスタント、カトリックの聖職者が一人ずつ待機していて、それぞれの死者に相応しい一人が進み出ては、最後の祈りを捧げていた。

安則機と小川機の攻撃に拠る推定死傷者数は、、バンカーヒルの戦闘詳報から入手する事が出来る。同報告書には、352体の水葬を行ったことが記されているが、さらに後に発見された1体がウルシ―で水葬された。これ等の内24体は、最後まで身元不明だった。42名は戦闘中の行方不明と宣告され、発見されなかった。これで戦闘中の死亡者は合計395名。この攻撃中の負傷者は、264名であった為、死傷者数は合計659名という事になる。
 日本の公式記録には、様々な特攻作戦があらゆるタイプの成功を遂げた事が記載されているが、中間点を越えるまで飛んで行くことが出来た航空機の内、帰還できたものは、殆んどなかった。そして、アメリカ軍の艦船に突入を遂げた者は、極わずかである。

安則盛三中尉は、寄せ書きに辞世の句を2つ書いている。
はらからが 五人そろって 旗のもと 一足先に 四男坊征く
幾度も 生まれ変わりて 醜敵の 手を挙げるまで 御盾とぞなる
 赤穂健児 安則盛三

そして、小川少尉の最後の便り

最後の便り                                     海軍大尉 小川清命
 父母上様
 お父さんお母さん。清も立派な特別攻撃隊員として出撃する事になりました。思えば、二十有余年の間、父母のお手中に育った事を考えると、感謝の念で一杯です。全く自分程幸福な生活をすごごした者は、外に無いと信じ、この御恩を君と父に返す覚悟です。
 あの悠々たる白雲の間を越えて、坦々たる気持ちで私は出撃して征きます。生と死と何れの考えも浮かびません。人は、一度は死するもの、悠久の大義に生きる光栄の日は今を残してありません。
 父母上様もこの私の為に喜んでください。
 殊に母上様にはご健康に注意なされお暮し下さる様、なお又、皆々様の御繁栄を祈ります。清は靖国神社に居ると共に、何時も何時も父母上様の周囲で幸福を祈りつつ暮らしております。
 清は微笑んで征きます。出撃の日も、そして永遠に。

海軍では、、新兵の団結と服従を促すために、ある標語を暗唱させていた。小川ら徴収兵は、消灯前に、「五省(ごせい)」と呼ばれる五つの問いかけを唱え、自省するよう求められた。五省は、精神と身体の純化に向けた努力の重要性を強調する、大日本帝国海軍の指針だ。戦後は、アメリカの海軍兵学校でも採用されている。
五省
 至誠に悖(もと)る勿りしか
 言行に恥ずる勿りしか
 気力に缺(か)くる勿りしか  
 努力に憾(うら)み勿りしか
 不精に亘(わた)る勿りしか
軍隊だけでなく、我々の普段の仕事や生活でも、常に心掛けねばならない
指針にも思える。

私には、この特攻という攻撃方法(特攻だけでなく、フィリピンやガダルカナル等での戦場での陸軍の突撃戦もそうであるが)は、日露戦争での戦い方が当時の軍人たちの頭の片隅に残っていた為ではないかと感じる。中国、遼東半島の南山における奥保鞏や203高地の争奪戦を指揮した乃木希典の戦い方である。ロシアはガトリング砲という機関銃で203高地を落とそうと昇って来る日本兵を高地の上から連射し、次々と倒していった。日本軍はというと、江戸時代の戦い方から脱することが出来ず、倒れても倒れても、次の部隊を突撃させ気迫でロシア軍を圧倒しようとした。戦力に劣り、バルチック艦隊が来るまでの決着を迫られていたとはいえ、日露戦争に参戦した石光真清の4部作の手記「望郷の詩」にも記されている様に、余りに旧態依然とした戦法で戦わざるを得なかった。山本七平さんの著作「一下級将校の見た帝国陸軍」(文春文庫)でも、仲間を助ける為に最後に「メン、コテ、ドウ」と叫びながら藪に斬りかけ突撃していく兵士がいた事が記されているが、全くむなしく感じる。

 特攻作戦の創設者とされる大西滝治郎中将は、日本の降伏の翌朝、自決した。まるで明治天皇が崩御された時に殉死された乃木希典大将に習ったように見える。司馬遼太郎が「坂の上の雲」で乃木大将を愚将として描いているのも、うなずける気がするのは、私だけであろうか!

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