石光真清 「望郷の歌」 -日露戦争に思う-
石光真清さんの「望郷の歌」読んだ。二十世紀に入りロシアの南下政策により満州がロシアに占領されつつあった。次は日本かという懸念の下、満州に渡り諜報活動をしてこられ、多くの手記を残された石光真清さん。この本は、その手記を元に、息子の真人さんが編集されたものである。太平洋戦争の名残は、おぼろげに感じる年代の私であるが、日露戦争となると断片的なイメージしかない。この本を読むとその戦いの有態が見えてくる。武器も兵士数もロシアに対して劣る中、奮闘した日本軍。冬季の間、凍結した河を挟んでの睨み合いの中、両軍士官等による氷上での交換会など、当時の戦いの様子が見えてくる。
ここでは、悲愴な戦いに向かい、残念ながら戦死された多くの戦士の方に敬意を表し、皆さんにその戦いの様子を改めて知って頂きたく、印象に残った場面を紹介させて頂きたい。
奥保鞏(おくやすかた)率いる第二軍が遼東半島に上陸後、旅順に向かって進撃する場面から始まる。
真清はこの戦いに第二軍司令部付き副官として従軍する。中国、塩大澳(えんたいおう)に上陸後、大連から旅順に向かって進撃を開始する。その途中にあるのが南山という地名のなだらかな丘陵、山麓には幾重にも厳重な鉄条網が張り巡らされ、中腹には強固な堡塁が二十数か所も設けられており、しかも、山頂は要塞化されて、砲七十余門が日本軍に砲口を向けていた。十分な砲撃を加えてからでなければ到底手を付けられないと思えたが、如何せん、わが軍には敵を沈黙させ進撃路を開き得るほどの砲兵隊もなかったし、それほどの弾薬もなかった。幾たびか慎重に作戦が練られ、偵察が試みられたが、強行突破のほか方法が無かった。明治三十七年五月二十六日の払暁、大雷雨の中で部隊はそれぞれ進撃の位置についた。司令部は肖金山に設けられたが、ここからは、南山が一望のもとに見渡せた。降り止まぬ大雨の簾を通して真清の双眼鏡に入って来る情景は、目を閉じたくなるほどの凄惨極まりないものであった。援護砲撃の下に突撃を敢行する決死隊は、次から次に敵の機関銃の掃射になぎ倒されて、行く者行く者、仆れて再び起き上がる者が無かった。わが軍が機関銃という新兵器を体験したのはこれが初めてである。午後四時になっても戦線は全く進展を見せず、南山の斜面には将兵の屍が積み重なり血潮が流れた。奥司令官はいよいよ言葉少なになり、前線からの報告は絶望に近いものになった。突撃を続行せよ---の指令が繰り返され、そして、やがて伝えられて来る報告は何々部隊全滅の悲報だけであった。
真清は呼び出され、第一師団司令部への口達命令を受ける。
「全滅を期して攻撃を実行せよ」
ただこれだけの命令であった。真清は不思議な顔で反問したが、参謀長はうなずいて眼の色で行けと言った。大雨は去ったが辺りは薄暗に包まれていた。第一師団司令部に馬で駆け付けると、第一師団長伏見宮貞愛(さだなる)親王殿下が粗末な支那式の古椅子に腰かけて、三原副官を相手に地図を広げておられた。真清は星野参謀長に命令を伝えた。星野参謀長は姿勢を正して、黙ってうなずいた。師団司令部を辞してから、第一線の後方五百メートルの地点にある松村旅団司令部に行って戦況を観察した。すると第二連隊長の五十君弘太郎(いきもこうたろう)中佐が青白い顔を引きつらせ、両眼を光らせて馳せつけ、不動の姿勢で旅団長に報告した。
「正面の状況はご覧の通りであります。ただいま前進すれば全滅のほかありません」
「わかっとる・・・・・」
「・・・・・・・・」
「軍司令部の命令である。全滅を期して攻撃を実行せよという命令である。ご苦労様です」
「分かりました。御命令は守らねばなりませぬ。閣下、お世話になりました。お別れいたします」
五十君連隊長は睨みつけるように全身を硬直させて挙手の礼をした。松村旅団長も身を固くして答礼したまま去っていく連隊長の後姿を見送った。この様な無理な肉弾総攻撃も、ますます激しい敵の銃砲火に阻まれて、午後六時になっても、依然として戦線は進まず、南山の麓は将兵の死屍に死屍を重ねてゆくばかりであった。この状況を肖金山上で見ていた奥司令官は、参謀会議を開いて参謀各自の意見を一人一人問うたが、既に万策尽きて誰も発言するものが無かった。
「こうなっては、夜になるのを待つよりほか致し方ないと思う。それまでは、現状を維持して動かぬよう命令してもらいたい」
奥司令官の低い声で、そのように命令して散会を宣した。
予備兵は既に一兵もなく、この一戦に日清戦争の全期に費やした数量の砲弾を打ち尽くしていた。とうとう最後の一弾迄が第一線に配給を終わった。午後六時五十分、死屍累々の山麓に闇が垂れ込めた頃、最後の砲撃を山頂の一角に集中して、まず第四師団の一部が闇を縫って斜面に這い登り、砲台に突入を敢行した。続いて、第一、第三師団も進撃、意外にも僅か三十分で、あっけなく南山に日章旗が翻ったのである。敵は死傷者を収容して、整然として既に旅順方面に退却した後であった。、戦機というものは、この様に微妙な物である。こちらが無理押しすれば、敵は苦しくても退却できずに死守し、結局はわが軍の損害も大きくなる道理であった。手を休めて敵の出方を待つうちに、敵は進退を打算して退却を決定したのである。
行けば死は免れないと判っていても、命令に従い突撃しなければならぬ兵士達の胸の内を思うと胸が張り裂けそうな感情に打たれる。それでも、文句も言わず機関銃照射の中に突撃して行った明治の若い兵士達には、頭が上がらない。自分を犠牲にしてお国の為に死んでいった貴い人達に、今の日本を生きる者として心から感謝の念を捧げたい。
又、特に記憶に残るのが奉天郊外で行われた日露の戦いの激しさである。
氷結した沙河を挟んで、日露両軍は対峙したまま動かなかった。双方とも弾薬、兵器の補給が途絶えて久しい。互いに相手方の戦力を推定し合って、見栄を張って意味のない射撃を加えてみたり、双方から白旗を掲げて、両陣の中央地点に相会して交換会を開いたり、あれこれと手を使ってお互いに牽制し合っていた。冬ごもりの三か月ついに最後の日が来た。明治三十八年三月八日である。この日が我が第二軍の最後の死闘の日となり、また日露戦争における陸戦の幕が閉じられる日ともなった。三か月の間、氷原の友となっていた日露両軍は突如として凄惨な死闘の鬼となって、広大な野戦を展開したのである。戦線は入り乱れ、随所に白兵戦が起り、伝令は途絶え補給は断たれ、司令部の命令は辛うじて師団には達しても、師団命令は第一線の諸部隊には伝わらなかった。連隊命令でさえ徹底せずに、随所に分散した小部隊は、敵兵とみれば出合い頭に射ち合い、弾が尽きれば銃を構えて飛び込んで行った。誰が命令する訳でもないし、誰が督戦する訳でもない。敵か味方か、この二つしかなかった。
全軍悪戦苦闘の二昼夜、いずれの舞台にも勲功の差は無かったが、我が第二軍にあっては第三師団の正面が最も激しく、そのうちでも李官堡の前の畑中の三軒家の奪取戦は凄惨なものであった。この報告を傍らで聞いた真清は、その翌日の三月九日午後三時、騎兵一騎を伴って苦闘の第三師団を訪うた。
この日は未明から南風が強く、文字通りの黄塵万丈、太陽の光も被われて漏れず、天地暗澹として三、四間先の物さえ見えないほどであった。既に第一線の激闘は峠を越し、銃砲声は遠く奉天に近づいていた。第一線に近づくに従って、黄塵に覆われた砂漠のような畑地には、戦死者や重傷者が遺棄した銃器、弾薬、雑嚢、水筒などが死屍と共に散乱して、半ば黄塵に埋まっていた。兵士の一人一人が機関銃の猛射を避ける為に円匙で自分の頭を入れる穴を掘った跡が、黄塵に埋もれながらも点々と残っていた。この日露大会戦の最後の戦場に、若い生命を散らした兵士達の哀れな営みが馬上の真清の胸を締め付けた。
露軍の主力部隊の前哨であった僅か三軒の支那家屋が争奪戦の的になった。歩兵三十三連隊長吉岡中佐は砲煙の幕をくぐって先頭に立ち、この前哨の掃滅戦に突っ込んで戦死したのである。狭い家屋の中で、庭先で、路地で、射ち合い斬り合いつかみ合い、両軍入り交って死体の山を築いた。いずこも同じように両軍兵士の死体が重なり合って倒れていた。中には真っ黒に焼けただれて敵とも味方とも判らないものがある。投げ合った手榴弾の火を浴びたものであろう。手足がバラバラになって散っている死体が沢山あって、足の踏み場もない程である。真清は馬を降りて呆然と立ち竦んだ。まだ収まらぬ黄塵の嵐の中で生き残りの兵士達が、激戦の疲れを押して戦友の死体を収容しているのが影絵のように見える。ロシア兵の死体も、蓆を敷いて丁重に並べており、戦友の死体には氏名の標識を付けて順次後方に送っていた。一人の兵士が一軒の家屋の窓際に立って、誰か手伝いに来てくれと叫んだ。真清が、馬を傍らの木に繋いで、急いでゆくと、既に二、三の兵士が集まって話し合っていた。
「誰だろう?」
「さあ、判らんなあ・・・」
兵士達は、真清を認めて身を固くして敬礼した。「ご苦労さん」と言って窓下に近づくとロシア兵二名が倒れており、それを踏み台にして一人の日本兵が真っ黒に焦げたまま、片足を窓から室内に入れている。しかも、焦げた両手には、しっかりと銃が逆手に握られて、振り上げられたままである。しかも、その銃は二つに折れていた。この兵士は銃丸尽きて銃を逆手に握ってロシア兵を叩き伏せ、屋内に飛び込もうとして、手榴弾の火焔に焼かれたものと推定された。真清は畏敬の念に打たれ挙手の礼をしてから、兵士を手伝って、黒焦げの死体の手から銃を離そうとしたが、焼け焦げた指は銃の部品の様に、しっかりくっついて離れなかった。
「よしよし、取るな、このまま収容しろ、この銃には魂が通っとる」
兵士達は、真清に敬礼をして、銃を逆手に握って振り上げたままの黒焦げの死体を、黄塵の彼方へ運び去っていった。真清は敬礼をして見送った。おそらくこの勇士の氏名は判らないであろう。所属部隊にもその功を知られず、まして家族にも同胞にも、何の消息も伝えられずに、「幾重不明」のまま「戦死したものと認定」されるのであろう。考えてみれば、この様な勇士がこの戦いに幾万といた事であろう。
後世の人たちに、その名を知られる事なく勇敢に戦ったこの兵士達に改めて畏敬の念を表したい。ただ、南山の戦いといい、奉天の戦いといい、これ等は、戦艦大和と同様、日露戦争の勝利の余韻が忘れられず、人命を軽視した太平洋戦争での特攻という考えに繋がって行った様にも感じる。インパール作戦の司令官であった牟田口廉也は、インパールを落とすのに何人殺せばよいのかと語ったと伝えられている。ここで、殺されるのは日本軍の兵士である。人命軽視も甚だしい。南山や奉天の戦いで命を落としていった兵士達は、後の世のこの司令官の言葉を、どう受け取ったであろうか。
現代に生きる我々は、明治の若い兵士の思いを無駄にしないよう、心して生きていきたいものである。
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