ノンノモデルになりたかった話
20歳。ミスiDという変わり種のオーディションに合格し、初代ミスiDになったものの、私は焦っていた。ミスiDに関わる撮影などあっても、ギャランティはなく、きちんと仕事として存在するのは、たまにいただく文芸誌からの寄稿依頼だけだった。
当時、父のいる熊本に住んでいたので、東京在住者のようにフットワークは軽くない。
ミスiDになったはいいが、それからどうなるのだろうと不安だった。
そこで、中学生から愛読していたノンノというファッション雑誌のモデルオーディションに応募することにした。大手のオーディションに参加するのは三度目である。ミスiDの前に、私は国民的美少女コンテストにも応募しており、面接審査までは行けた。とりあえず国民的美少女の書類は通れたのだから、なんでも応募してみるしかない、と思ったのだ。
ノンノのモデルオーディション、今思えば、20歳という年齢は応募者の中では高めだった。
でも、書類を提出すると、なんとか書類は通った。身長はそこそこあったからだろうか。東京の面接審査まで行けることとなった。
だが、やはり、面接に集まる少女たちは、私より細身で、スタイルがよく、整った顔立ちの子ばかりで、コンプレックスは募った。自己アピールに、「ミスiDになって、『文學界』にエッセイを寄稿しました!」と言ってみたものの、それが、アピールになるかどうかもわからない。
そのまま、面接審査のあと、落ちたという連絡が入った。
どこかで、落ちるだろうとは思っていた。
私の一番の容姿のコンプレックスは、肌だ。肌がとても荒れているのだ。病院に行って治療を続けても、なかなか良くならなかった。こんな肌の人間が、ノンノのモデルになれるわけがないと、心の何処かではわかっていた。それ以外にも、沢山理由はあっただろうが。
私は、変わっているだとか、個性派だとか、そういうキャラクターを積極的に売りにしていたと思われがちだが、妙に王道な活躍をしたがるところがあり、ノンノモデルになりたがったのも、そうだった。
私は、東京では、他のミスiDの子のようにファッションモデルにはなれないのだ、劣った容姿なのだ、という現実を叩きつけられた。
「文学アイドル」というよくわからない名称で生きていく自信もなかった。
よくわからなくないか?
なんなんだ、それは!
まあ自信満々に名乗ってみればよかったと思うが、なかなかその図々しさを発揮すべきところでできなかったという反省が、ある。
そこで、元々女性のグラビアが好きだったのもあり、グラビアアイドルになってみたのであるが、それまで、グラビアアイドルがこれほどまで蔑視される存在だとは知らなかった。
グラビアに出てくる女性の美しさに惚れ惚れしていた私は、そこに向けられる他の、おぞましいマイナスの感情を知らなかったのである。
グラビアアイドルも、芸能の中では王道といえば王道だ。
しかしそこで、いかに貶められるものか、体験したのであった。性的モノ化という言葉があるが、まさにそのもの、ああ本当にモノ、しかもそれは何をしてもよい、モノ、だとされるのだと理解したのであった。
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