処刑少女の考察道:アニメ映像から考える強敵 マノン
列車は右から左へ走り――
主人公たちは右側から左を向いて戦い――
そして右から左へと歩いていきます。
これはもしや、この作品においては「右から左」という方向に何か意味があるのでは? 発見してしまった?
……そんなふうに思っていた時期が私にもありました。
よくみたらプリキュアも右から左へ飛び――
バスケでも左に向かって跳んでるじゃん……。
詳しい方には笑われてしまうかもしれませんが、映像表現に共通した原則というものがあるんですね。
今回は『処刑少女の生きる道』をアニメ映像から考えてみましょう。
この記事のネタバレ警告
今回はアニメの映像から考察に入りますので、アニメ12話まで、小説2巻までの内容に触れます。
そこまでの展開をご承知の方は、安心してお読みください。
ちなみに、コミカライズ4巻までだとリベールでの決着までは描かれていませんので、その先のネタバレが少しあります。
物事は右から左へ
今回は富野由悠季さん著『映像の原則 改訂版 』(2011年 キネマ旬報社)を参考にさせていただきました。
とはいえ素人の、にわか仕込みの解釈です。
知らないこと、間違っていることなどもあるかと思いますが、コメントで教えていただければありがたいです。
さて、ざっくりいうと、物事は画面の右側から左側へ流れると自然に感じられるという原則があるようです。
アニメに限ったことではなく、映像表現全般に古くからある原則で、舞台劇などにも共通しているそうです。
(あくまで原則なので、守らなかったからといって警察に捕まるわけではありませんし、意図があって敢えて原則に沿わない場合もあるはずです)
これを踏まえてアニメを視てみると、台詞で説明される情報以外にも「どちらからどちらへ向かって物事が流れている場面なのか」が伝わってくるように思います。
「あれ、どっちだっけ?」と戸惑った時は「漫画の読み方と同じ」と考えると迷わないかもしれません。日本では右から左へ読んでいく漫画が大多数ですよね。
教えて導師★映像の原則
具体的にみていきましょう。
『陽炎』からメノウが塩の剣のことを教えてもらっている場面では、メノウは左側に描かれています。
その後にメノウが次のように言う場面。
この時はメノウが右側に描かれています。
もし、処刑人になりたいという言葉がメノウ自身の意思だったと言えるのか、それとも『陽炎』に「そう育てられた」と考えるべきか、と考察するならば――台詞の内容の他に、描かれている位置も情報になるかもしれません。
同様に、修道院に入った後に『陽炎』に申し出る場面。
基本的には上位者である『陽炎』に左側から話しかける構図になっているのですが、次の言葉を告げる時だけは画面上での位置が逆転します。
これも、この発想がメノウ自身の意思と解釈できるかどうかと考えるひとつの材料になりそうです。
そして、この意味深な言葉を告げられる時は、メノウは左側にいます。(近い)
これらの場面の意味について今回は深く掘り下げませんが、いずれ改めて考えてみたいと思います。
作品によっては原作小説とアニメで設定や展開が異なる場合もあるので、注意は必要かとは思いますが……。
皆さんは、どのように考えるでしょうか。
描かれる位置から考える、メノウ対マノン
これだけでは、映像の原則について『処刑少女の生きる道』を引き合いに出して紹介しただけになってしまいます。
せっかくなので、映像の原則の観点から気になった場面をひとつ挙げてみましょう。
メノウとの決戦の間、マノンは終始、右側に描かれます。
「敗北していく人物は、右側から現れて左側へ移動するように演出する」という原則もあるようです。
つまり主人公を振り回す強敵として立ちはだかった後、主人公に越えられていくわけですね。
アーシュナ姫殿下ですら、中庭での仕合では、右から現れて最後は左へ移ります。
しかしマノンに関しては、決着が着いた後も最後まで、メノウよりも右側に描かれ続けるのです。
ちなみにこの場面の位置関係はコミカライズにおいても同様です。
更なる強敵である万魔殿が彼女の体内から登場するために、右側に位置している必要があった、というのは一つの答えかもしれません。
ちなみに万魔殿は、このアニメ10話の終盤で右側から登場した後、次のアニメ11話では冒頭から左側に移されます。
さすがは自称「四大人災の中でも最弱」。かわいらしい限りです。
ただ、改めて考えてみると、この演出は「メノウが勝てなかった」、言い換えると「マノンは負けなかった」ことも表しているのかもしれないと思います。
戦闘ではメノウが勝ちましたが、マノンの目的が「禁忌になって処刑宣告されたい」ということなので、喜ばせただけというか……。
だから、左側へ移動しなかった、のかもしれません。
アニメ12話で復活したのを見て「せっかく倒したのに生き返るとか……」と感じた方も、もしかしたらおられるかもしれませんが、そもそも勝てなかった強敵という役割が、物語全体の流れの中であるのかもしれません。
個人的には、何度でも復活してずっと万魔殿(とその中の子)と仲良くしてほしいです。
映像と小説の表現の違いから考える、メノウ対マノン
さて、アニメとコミカライズについては描かれている位置関係から情報を拾うことができましたが、小説では同じ場面はどのように表現されているか見てみましょう。
メノウがマノンに勝てなかったことを象徴するような文章はあるでしょうか。
このメノウの言葉、アニメとコミカライズでは、もっと短い内容に変わっています。
アニメの尺やコミカライズのページ数・コマ割りの都合で取捨選択された結果といえばそうなのですが、どうして短くできたかといえば、前述の人物の位置関係によって情報を補えるからだと思います。
一見するとメノウがマノンを論破しているように見える文章ですが、逆だと思います。
アニメやコミカライズではカットできた「正規の手段」という文言が、文字媒体である小説において、メノウがマノンに勝てなかったことを表現するために必要だったのではないでしょうか。
メノウの論理を正論のように感じるとすれば、それは私たちが民主的な社会というものを知っているからです。ここでは「正規の手段」が実際に用意されている社会のことを指します。
選挙に立候補したり投票したり、自由な言論や政治活動をすることで社会を変えられる権利を実際に与えられているのなら、正規の手段をとらなければなりません。暴力的な手段をとるのは正当ではないでしょう。
しかしメノウたちの世界の第一身分は、マノンたちに「正規の手段」なんて与えていません。
地球においても、現代の自由と民主主義を牽引しているアメリカ合衆国は、独立戦争という手段によって建国されています。
植民地であった時代、本国の議会に投票権のある議員を送る権利を与えられていませんでした。それならば独立戦争こそ唯一の解決手段という理屈になるわけです。
メノウの言葉はマノンの心に全く響かなかったはずです。むしろメノウの側に与えられている権限の正当性に疑問を投げかけるものになってしまったと思われます。
こういう言葉が出てしまったのは、メノウに第一身分以外の立場で生活した記憶がないからでしょう。
その意味では、とてもリアルで、考え抜かれた描写だと思います。物語の主人公のこの時点での未熟さや変化しなければならない余地を、分かりやすい敗北展開などでエンターテインメント性を損なうことなく、しかし確かに示しているわけです。さすが敬愛する親愛なる愛しの佐藤真登先生です。
メノウ自身も「悪人だから」という自覚はあるようですが……。
そうしてマノンは、メノウに殺されるのではなく、自身を万魔殿への生贄に捧げます。
言いたいことを言い、やりたいことを全てやって、最後には復活までしてしまう。
アニメ第1期にあたる物語を通じてメノウがついに勝つことができなかった相手、それがマノンです。
異世界人でも大司教でも姫騎士でも、そして四大人災でもない。立ち寄った町で残念な組織のお飾りにされていた地方領主の娘が、明らかに強キャラとして描かれている。
アニメ・コミカライズ・そして小説の表現を見比べても、やはりそう感じました。
どうして、それほどまでにマノンは強いのか。
次回は、彼女の背景について改めて考えてみたいと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
『処刑少女の考察道』では、このように本編から材料を拾い上げて、登場人物たちの設定や作中の表現についてより深く楽しむきっかけになれるような考察をしていきたいと思います。
それによって『処刑少女の生きる道』の魅力がより多くの方々に伝わることを目的としています。
更新はTwitterでもおしらせします。
イラスト素材:イラストAC kumamaru 様
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