《小説》青空の道しるべ
いつからだろうな。男らしさなんて気にするようになったのは。小学校の頃は何も考えずに毎日楽しく遊んでいた。ブランコに乗って靴を飛ばしたり、消しゴムに画びょうを刺したり、教科書に落書きしたり、まあバカだったよな。女の子の方がまじめでしっかりしていて、学級委員とか放送委員とか、大事な仕事は大体女の子がやっていた。男なんて掃除もまじめにやらないし、女の子には勝てないって思っていたんだ。
何か違うって思い始めたのは中学校に上がってからだった。とにかく全員部活をやらなきゃいけない学校だったから、楽そうな所に入ったんだ。全然楽じゃなかったけど。そうしたらそこには先輩がいて、俺は敬語を使うようになった。そんなに堅苦しい部活じゃなかったから、先輩も優しくて、友達みたいな感じだったんだ。でも同級生の女の子は先輩に話しかける時と、俺に話しかける時で、どこか雰囲気が違った。俺からしたら先輩って言っても一学年しか違わなかったから、もちろん敬語は使ったし、いろいろ教えてもらったけど、最後は同じ人間だと思っていた。でも女の子は俺と先輩の間に、はっきりと線を引いていた。気のせいだったかもしれないけど、そんな感じがしたんだ。
高校の時には人並みに好きな子もいた。背が高くて、成績も良くて、みんなに好かれていたな。俺の成績はいつも真ん中くらいだったよ。窓際の席にいた時には、授業中も空ばかり見ていた。ずっとずっと高い所に行きたかったんだ。実を言うと、小さい頃は、自分が世紀の大発見をしたり、世界を平和にしたり、新しい街を作ったり、そんなことができると思っていたんだ。もちろん、自分の限界には気づいていた。俺は何者にもなれない。この学校の中ですら、上の方には行けない。好きだった子とも一緒になれない。俺には、ただ空を見上げることしかできなかったんだ。
大学の時に後輩ができた。大した話じゃないんだ。サークルと学科が一緒っていうただそれだけでさ、なんだかよく分からなかったけど、この子を守りたいって思ったんだ。でも何から?そんなに危ない奴もいなかったから、何もない所を一人でかき回して、勝手に敵を作り出していたな。ひどかったよ。卒業前に冬の花火に誘って、断られて、それっきりさ。
初めて恋人ができたのは、社会人になってからだったかな。趣味つながりの子だった。イベントで何回か一緒になる機会があって、飲みに誘ったらついて来てくれた。そのあと、何回か会って、気づいたら付き合っていることになっていた。びっくりするくらい何もなかったな。でもずっと、こんな関係を続けていたいって思ったんだ。守ってあげたいっていう気持ちは変わらなかったけど、今度は俺が家みたいになって、彼女には自由に、気楽にいてほしいって思ったんだ。二人でどこかに行く時にも、行き先とか、集合時間とか、全部俺が考えた。俺が行きたい所って、大体、俺が楽しいだけだからさ、ちゃんと人気のある場所を調べたよ。喜んでくれる時も、そうじゃない時もあった。彼女は、楽しくない時もはっきりとは言わないんだ。でもそんな時は、口数が減るからすぐに分かった。どうしたら彼女に喜んでもらえるか、一生懸命考えたんだ。
平日に会う時には、仕事を早く終わらせて、駅まで走った。夜中に電話がかかってくることもあった。何かと思ったら、眠れないんだって。怖い夢を見そうって言っていたから、夜更けまで相手をしたんだ。とにかく時間の感覚がない人だったな。待ち合わせをすると、時間ぎりぎりに着く電車に乗って来るんだよ。それで道を間違えたり、乗り換えを間違えたりして、待ち合わせの時間に必ず遅れて来た。俺はいつも待たされたけど、全部許した。そんな俺のことを彼女は好きでいてくれた。
付き合い始めて最初の、彼女の誕生日、俺はきちんとした服を用意して、高いレストランを予約した。寒い冬の夜のことだった。大通りの並木はオレンジ色の光に彩られて、二人で、寒いねって言いながらレストランまで歩いた。料理はおいしかったな。彼女も上機嫌だった。外に出て、少し歩くと小さな広場がある。階段を上ると花壇があって、道の横には石造りの川が流れているんだ。夜になると誰もいなくなるっていうことも知っていた。俺は街灯の白い光の下に立ち止まって、思い出したように彼女にプレゼントを渡した。彼女は満面の笑みを浮かべてくれた。完璧だった。彼女が俺の胸の中に飛び込んできた。俺は彼女をぎゅっと抱きしめた。小さかった。
その時に、ふと思ったんだ。俺は何をやっているんだろうって。今日着ている服も、食べたものも、彼女に好かれるものを選んだ。仕事も忙しかったのに、いろいろと準備をして、俺は何を手に入れたんだろう。この先、ずっと俺は、彼女のために心をすり減らし続けるのだろうか。気づいたら泣いていたんだ。何年ぶりだろう。涙が止まらなかった。彼女が慌てだした。俺のことをぎゅっと抱きしめてくれた。「落ち着いて。落ち着いて。」って何度も繰り返していた。
次の日の朝、目が覚めたら彼女からメッセージが届いていた。文字が模様にしか見えなかった。昼にもう一度メッセージが届いた。俺のことを心配しているようだった。返事はしなかった。電話がかかってきた。出なかった。次の日、いつ教えたのかも分からないアドレスにメールが送られてきた。何もしなかった。夜中に電話がかかってきた。出なかった。その日から、毎晩電話がかかってきたんだ。着信拒否したら、違う番号から電話がかかってきた。消えてくれ、お願いだから消えてくれって神様に祈った。それでも、毎晩九時になると電話がかかってきた。俺はベッドの上でうずくまって着信音を聞いた。それがだんだん、彼女の心臓の鼓動のように思えてきたんだ。彼女からの着信音が鳴っている時だけは、彼女が生きているって分かった。初めて、彼女を心から愛することができたような気がした。それからだんだん、電話の数が減っていった。二日に一回になり、三日に一回になり、ついに電話は来なくなった。しばらくしてきれいな桜が咲いた。
そんなこともあって、楽しみが週末に酒を飲むことしかなくなったんだ。飲むって言っても、強い方じゃなかったから、いつも一杯か二杯だった。面白い店長がいる店があってさ、いつもそこで飲んでいたよ。仕事のグチをこぼしたり、政治家の悪口を言ったり、それが全てだった。それだけで良かった。いつのことだったかな、隣の席にいた人が店長と音楽の話をしていてさ、俺も好きな曲だったから、思わず声をかけちゃったんだ。その人と話してすぐに気づいた。女だって。見た目は男なんだけど、声で分かった。そういう人に会うのは初めてだったから、思わず女かどうか聞いちゃったよ。今思うと失礼だったけど、その人は教えてくれた。待ち合わせをしたわけじゃなかったけど、月に一回くらいはその人に会うことができた。俺の昔話も聞いてくれたよ。それで、最後に言っちゃったんだ。「男なんてくだらねえよな。」って。そうしたら言われたんだ。「女になってみたら。」って。
その時は冗談だと思って笑い飛ばしたよ。でもなんか、目が本気でさ。話を合わせるのに苦労したな。でも次に会った時にも同じ話をしてくるんだ。嫌だよって、また適当にごまかして帰ったさ。その次に会った時には、もうその話はしてこなかった。聞かれなかったら逆に気になっちゃって、化粧の仕方を聞いてみたんだ。そうしたらすごく嬉しそうになって、優しく教えてくれたよ。騙されたかな。そのあと、こっそりウイッグを買ってかぶってみたんだ。似合わなかったな。髪型だけじゃだめだと思って、化粧の練習をしたんだ。難しかったね。女って毎朝こんなことをやっているんだって、なんだか申し訳ない気持ちになってきたよ。週末に練習をしていたら、一ヵ月くらいでそれなりに女らしくなってきたんだ。
そうしてついに、女の服を買った。初めて女の格好で外に出た。緊張したよ。変質者に間違えられそうで。でも誰も、通りすがりの人のことなんか気にしていないって分かっていた。俺もそうだったから。すれ違う人の顔なんか、すぐに忘れるさ。なるべく気にしないようにって思いながら前を見て歩いたんだ。電車に乗った。汗がひどかった。席は空いていたけど、ドアの近くで立っていた。窓を見ると自分の顔が写る。なんとか女に見える。でも見たくなかった。駅に着いて電車を降りた。いつもの店に向かって速足で歩く。繁華街に近づくと、歩いている人も変わる。三人組の若い男とすれ違った。一人が俺の方をちらっと見た。見るなって思った。俺もよくやっていたけど、ばればれなんだな。いつもの店に入った。あの人は先にいた。声をかけたら、俺の方を見て、落ちそうなくらいに大きく目を見開いて、五回まばたきをした。
その日は、化粧の仕方とか、服の選び方とか、そんな話をして終わった。次の週は、ちゃんと待ち合わせをした。ずっと自分のことを俺って言っていたけど、私って言ってみた。恥ずかしくなって一回でやめた。次の週の土曜日、いつもの店じゃなくて、駅前で待ち合わせをした。彼女って言っていいのか分からないけど、いつものその人がやってきた。ややこしいから彼女って呼ぶけど、見た感じは男だった。身長が俺と同じくらいだったから、並んで歩くと、どっちがどっちか分からなかったと思う。行き先は決まっていなかった。彼女に誘われるままに映画館に入った。どこかで見たことがあるような映画だった。外に出てから黙っていたら「つまらなかった?」って聞かれた。「うん。」って言ったら、「ごめんね。」って言われた。そのあと、カフェに入った。二人でケーキを食べた。甘かった。彼女がポット入りの紅茶を注文して、二人で飲むことになった。おいしかった。いつも缶コーヒーしか飲んでいなかったから、なんだか落ち着いた。彼女がおごってくれた。
そのあと、水族館に行った。大きな水槽の前に立った。「魚は気楽でいいよな。」って言ったら、「みんな一生懸命なの。」って。イルカのショーを見たいって言われて、嫌だって言ったけど、無理やり連れて行かれた。家族連ればかりだった。イルカが跳ねると、水しぶきが午後の日差しを受けて光った。楽しかった。水族館を出ると、日が傾いていた。最後に一杯飲もうって言われて、夕日の中を一緒に歩いた。手をつないだら握り返してくれた。この時間が永遠に続いてほしかった。狭い路地の前で立ち止まって、彼女の手を引いて中に入った。彼女をぎゅっと抱きしめた。頭をなでてもらった。そのあと、いつもの店に戻ってから死ぬほど飲んだっけな。バカみたいに騒いで、シャンパンも開けて、店にいたお客さん全員にふるまったよ。気づいたらソファーの上で寝ていた。彼女はいなかった。閉店の時間だった。鏡を見たらひどいことになっていた。お金を払って、逃げるように外に出て、明るくなり始めた朝の街を、うつむきながら歩いて帰ったんだ。
それからも、時々彼女と会った。男として会ったり、女の格好をしたり、いろいろだった。あの時に入ったカフェは二人とも気に入って、よく一緒に行った。おごってもらったのは、あの時が最初で最後だった。女でいる時は楽だった。でもそのまま、女になりたいなんて言う気にはなれなかった。言いたい人は言えばいい。俺はそんな感じじゃなかった。会社に行けば一緒に仕事をする人もいるし、後輩もいるし、俺がいなければ進まない仕事もあるし、誰かに頼られている方が幸せだって思ったんだ。それは生まれつきの性格かもしれないし、男として生きてきた中で、刷り込まれた感情なのかもしれない。でも社会で生きていくっていうことは、結局、誰かの価値観に合わせて生きていくっていうことじゃないのかな。それがたまたま、伝統的というか、多数派だったっていうだけで。俺はこれからも男として生きていくと思う。なんか上手くまとめられなかったけど、聞いてくれてありがとうね。
終わり
この物語はフィクションです。役者として参加していただいたモデルさんに、深く感謝致します。