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《小説》ふたり

 まだ夏のおもかげが残る気だるい秋の日のこと、午後の授業が終わって、その日部活のない五人の女子生徒が昇降口の小さな階段を降りてきた。正門を出て神社のある角を右にまがった時に彼女たちの前を一台のバスが通り過ぎ、二人が手をふって別れ、すぐ先の停留所でバスに駆けこんだ。しばらく歩いていると、一人が突全大切な用を思い出し、そのことを告げて早足で学校に戻っていった。こうして恵と由美の二人が残された。
 この二人が並んで立っている姿は見慣れない人の目には少し異様に映るかもしれない。恵は目立たない生徒だった。校則で定められた紺の靴下をはき、十七年間一度も染めたことのない黒い髪を肩の下までのばし、教室でただ一人、膝までのスカートをはいている。しかし不思議と違和感はなく、男子生徒達の話の中に時々現れてはすぐに消えてしまう話の種になるくらいのことだった。
 由美は特に勉強家というわけではなかった。授業を聞きながらほとんどのことを理解した。ただその授業も時々、窓の外を眺めながら過ごした。そのような時、彼女は友達に授業内容を聞きにいった。話を聞きながら由美は友達の間違いを指摘して、苦笑いさせたことがある。
 由美は夏になるとポロシャツを着て学校に来た。冬になると制服の下に色鮮やかなセーターを着た。髪を金色に染め、ウェーブをかけた。目を大きく見せるための化粧をし、黒い瞳は爛々と輝いた。スカートの丈は膝より高く、靴下には派手な模様がついていた。教師に注意されると次の日には直してきた。ただ一週間もすると元の服装に戻った。このようなことを何度か繰り返すうちに教師も何も言わなくなった。生活態度を改めるよう真剣に忠告してきた友人がいた。由美は何か言ったほうがいいのかと思ったが、特に言うべき言葉も見つからなかったので黙っていた。
 対照的な二人だったが不思議と気が合った。話は合わなかった。誰にでも言えるような話をした。同じことを何度も言い合った。それでも時々話題が尽きた。そのような時、由美はふと思ったことを口にする。恵には理解できない。少し間を置いて由美の方を見る。寂しそうに笑って、恵は視線を元に戻す。
「よくわかんないよ。」
 無理に答えてみたこともあった。その時由美は前を向いたまま静かに笑みを浮かべていた。
 恵は普段、他の友達と時をすごした。昼休みには窓際の席に数人の女子生徒が集まって午後の授業が始まるまで話し込んだ。勉強のこと、ファッションのこと、教師のこと、クラスメートの噂話。友達が笑うとつられて恵も笑い、高らかな笑い声が教室中に鳴り響いた。授業中はこまめにノートをとり、わからなかったところは放課後に質問をしにいき、部活のある日はそのまま部室に向かう。そのようなあたりまえの生活を送っている恵にとって、由美と共にすごす時間はいつのまにか特別なものになっていた。いつか、恵が当番日誌を書き終えて誰もいない教室を出た時、廊下をこちらに向かって歩いてくる由美の姿が彼女の目にとまった。恵はその場に立ち尽くした。目を大きく見開いて口をあけ、何か言おうとしたが言葉にならず、表情だけが驚きから喜びに変わっていった。先に声をかけたのは由美の方だった。恵は落ち着きを取り戻して由美の近くに駆けより、自分より背の高い由美の黒く光る目を見上げてまた言葉に詰まった。
「恵、何やってるの、こんな時間に。」
「私?私、当番日誌書いてた。由美は?」
「ずっと図書室にいた。」
「勉強してたの?」
「まさか、本読んでた。」
「小説?」
 由美は首を横に振って静かに続けた。
「調べもの。」
 恵はそれ以上聞こうとはしなかった。二人は一緒に職員室に向かった。階段を下りる途中に窓から差し込んだ西日が由美の横顔を照らした。金色に染められた由美の髪がこの上なく美しいものに思えた。職員室の前で二人は別れ、恵は中に入った。広い空間に人影は少なく、隣の部屋で動いているコピー機の音と運動場にいる野球部の掛け声がかすかに聞こえるだけだった。真ん中近くにある担任の机の上に日誌を置き、恵はしばらくの間、広い部屋をぼんやりと見渡していた。突然大きな音がして、恵がその音がした方を向くと、英語の女教師が中に入ってドアを閉めるところだった。恵は慌てて黙礼をし、職員室を後にした。靴を履いて昇降口を出る時に、恵はひどい空虚感に襲われた。

 学校に向かって走り去っていった友達が神社のある角を曲がってその姿が見えなくなってからも、二人はしばらくそこにたたずんでいた。一台の自転車が通り過ぎて恵が振り向こうとした時、突然一つの考えが恵を襲った。
――今、由美が私の横にいる。
 恵は由美の横顔を見た。由美にしか見えない何かを見ているようだった。
――ついに二人きりになれた。
「行こうか。」
 由美はそう言ってまた歩き始めた。恵も慌ててついていった。街の中心部から離れた所にある坂の上に続く道を二人は歩いている。午後三時の日差しが熱せられたアスファルトの上に揺れる二つの影を落とす。人通りは少ない。恵は由美に引きずられるように歩いた。由美はまっすぐ前を見ながら歩いている。この日に限って一言も口を聞かないのが恵には気になった。何度か由美の方を見てみたが特に怒っているような様子もないので、何か自分にはわからない理由があるのだろうと思って黙っていた。自分の横を通り過ぎていく車の音がいつもより大きく聞こえる。前から歩いてくる高校生の一団の話し声が近づくにつれて大きくなり、すれ違う瞬間にいくつかの単語を聞き取ることができたが歩く速さの倍の速度で遠ざかっていく見知らぬ人の言葉が記憶に長く残ることはない。二人の靴底と歩道のぶつかるかすかな音が午後の街の空気の中にあらわれては消えていくのが手に取るようにわかるような気がした。たまたま足元に落ちていた小石を蹴り飛ばして、思いがけなく遠くに転がっていくのに気を取られている時に由美が足を止めた。恵はそのままの勢いで二歩進み、思わず由美の方を振り返る。由美は優しく笑っている。
「赤だよ。」
 ちょうど交差点に差し掛かったところだった。
 恵は由美と並んで立ち、目の前を何台もの車が通り過ぎていくのを眺めながら胸の動悸が高まるのを感じた。その理由について思いをめぐらせている時に恵は自分の名を呼ばれて慌てて由美の方を向いた。
「この道を真っすぐ行くとどこに着くか知ってる?」
 恵は首を横に振る。
「知らない。」
「ローマ。」
「えっ。」
「全ての道はローマに通ずって言うでしょ。」
 由美が静かに笑い、恵もそれに続いて笑う。面白かったからというよりも由美が口をきいてくれたことが嬉しかったから。二人の歩いてきた道と交わる車道の信号が赤になった時に、自転車が二人の横を通って横断歩道を渡った。目の前にある歩行者用信号が青に変わってから由美は歩きだし、恵がその後についていった。
「今日はまじめなんだね。」
 横断歩道の先にも、古くからある街並みが続く。この日は昨日よりも少し暑く、恵は自分の体に汗がにじむのを感じた。少し歩いた先にある花屋の前を通った時に、由美は恵を待たせてその中に入っていった。恵は花屋の横にある砂利の駐車場を囲む低いブロック塀の上に腰かけてぼんやり空を見上げた。水色の空に昨日見た夢のような白い雲がいくつか浮かんでいる。視線を地上に戻すと傾きかけた日の光に照らされた気だるい午後の街並があるばかりだ。もう一度空を見上げるとさっきと同じ空がひろがっている。それがなんだかおかしくて恵は一人でくすくす笑う。
「おまたせ。」
 勢いのある声とともに由美が出てきた。その手には大きな赤いバラの花束が抱えられている。飾りのついた白い紙に何重にも包まれて、一番下はピンクのリボンで結ばれている。その瞬間に恵は一つの光景を思い出していた。去年の恵の誕生日のことだ。その日の朝、授業が始まる少し前に代表委員の生徒が、教壇に立って言った。
「あの花を持ってきてくれたのは誰。」
 彼の指さす方を見ると、黒板の横の小さな白い棚の上のガラスの花瓶に、一本のオレンジ色のカーネーションがささっていた。教室が少しどよめいたが、彼の質問に答えようとする者はいない。
「もう一回聞くけど、誰が持ってきてくれたの。」
 全員が沈黙する。
「誰か知らないけど、みんなに代わってお礼を言うよ。」
 恵も特に気にすることなく、その日を過ごした。その三日後、恵は一学年下の男子生徒に求婚された。彼は制服のボタンを一番上までとめて、両手で赤いカーネーションの花束を持って、恵の前に立っている。一瞬のうちに恵は全てを理解した。
――君だったの。
 恵が友達から渡された手紙には次のように書いてあった。
「明日先輩に相談したいことがあります。会いにいくので五時に教室にいてください。」
 恵はその場に立ちすくむ。何も考えずにすごした三日間の記憶が恵の中を通り抜け、二人で笑いあって全てを若き日の思い出にしてしまう一瞬の機会を恵はのがしてしまった。恵は何かを言おうとして口をあけたが、言葉が出る前に恵はすでに両腕をあげていた。彼の肩に恵の両手が振り下ろされる。恵はまっすぐに幼い二つの目を見つめた。その時になって初めて恵は自分の両腕が震えているのに気がついた。彼の体もまた震えている。恵は思わず笑い出すところだった。恵は大きく息を吸い込んだ。その一瞬があたかも永遠に続くように思えた。
「私はね、ずっと一人なんだ。」
――なんでこんなことを思いついたんだろう。
「これからも、ずっとね。」

「どうしたの?その花束。」
 恵はブロック塀から立ち上がる。あの日以来、恵は彼と会うことが少なくなった。もしかして私のことを嫌いになったのかもしれない。彼は今何をしているのだろう。学校には来ているのだろうか。
「今日は特別な日だから。」
「何かあったの?」
「内緒。」
 恵は少しうつむいて車道の方に視線を送る。車が通り過ぎるたびに二人の影は水平から垂直になり、次の瞬間にはまた水平に戻っている。
「恵は今日時間空いてる?」
 恵は視線をもとに戻し、小さな声を出してうなずいた。
「ちょっとそこの公園で休んでいこうか。」
 街の中心部に続く坂を切り開いた公園に二人は向う。学校の前から続いていた道は、途中から並木が続く大通りになる。その道の途中にある美術館のわきの石造りの道を抜けて、うっそうと茂る木々を横目に見ながら、木で出来た階段を下りると芝生に覆われた広場にたどりつく。広場を取り囲む木々の間の道を通り抜け、小川にかけられた橋を渡り、短い急な坂を上ると突然視界が開け、ちょうど人が座ることができる石の舞台がある小さい広場に出る。まず由美が腰を下ろし、続いて恵が腰を下ろす。恵は由美に遅れないように急いできたので少し汗ばんでいる。そよ風が吹くと心地よい。ふと由美の方を振り向くと金色に染められた由美の髪が風になびき、恵の表情に自然と笑みが浮かぶ。
――今由美が私の横にいる。
 恵は由美のことを美しいと思っていた。何をやっても最後には負けてしまうことは初めからわかっていた。そのような由美とこの小さな広場に二人きりでいることは恵にこの上ない安心感をもたらした。恵は時に由美が悪く言われるのを聞いた。けれども恵は彼女たちを責めることはできなかった。彼女たちの気持ちもよくわかったから。恵は両腕で体を支えながら体を後ろに反らし、わずかに青みを増した空を見上げた。視線を下ろしていくと空の青は次第に薄い黄色がかかった白に変わっていく。遠くには市街地の白い建物が見える。大通りの騒音も木々にさえぎられてここまでは届かない。すでに日は傾いて、地上にあるあらゆる物を夕日の色に染め上げる。
「由美。」
 恵はそう言って由美の方を振り向いた。その時、恵の体に大きな衝撃が加わって、思わず目をつぶった。由美の体にぶつかったのだと恵は思った。
――ごめん。
 恵はそう言おうとしたが声にはならなかった。恵の体は熱い気体に包まれた。服が湿った肌に押し付けられる。背中が熱くなり、両腕は何者かに挟まれて動くことができない。
――何が起こったの。
 恵は目を開けてみる。恵を包み込んでいるのは由美の両腕だった。由美はさらに強く恵の体を締め付ける。制服を挟んで由美の体温が恵に伝わる。恵の小さな顎は由美の肩に押し上げられて、恵の目の前に青空が広がる。霧のような雲の西側はすでに赤く染まっている。恵は必死になって由美の体を振りほどこうとした。
――どうしたの、何があったの。
 恵の体の左側にかかる力が弱まり、そこから恵は逃げ出そうとした。その時に由美の右手に何かが握られているのが見えた。恵はバラの花束とともに芝生の上に崩れ落ちる。由美の右腕が恵の体の上を通り過ぎた。倒れた姿勢のまま由美の方を見ようとして恵が見たものは由美の右手に握られたカッターナイフだった。恵は慌てて立ち上がり、由美の方を見て一歩後ずさる。
「ねえ由美。」
 恵の声は震えている。
「どうしたのいきなり。」
 由美は右手を下ろして恵の顔を見てゆっくりとほほ笑んだ。
「ねえ冗談だよね、悪い冗談だよね、私を驚かせようとしただけだよね。」
 由美は左腕のそでをまくり手首にカッターナイフの刃をあてる。赤い血がにじみでた。恵は目を大きく見開いてまた一歩後ずさる。
「どうして。」
 由美は前に歩み出る。恵とともに滑り落ちた赤いバラの花束が由美の足の下でつぶれた。恵はその場を逃れようとして走り出した。
 後ろから宣告のような声が鳴り響いた。恵の脚はすくみ、何歩か前によろめいて、立ち止まった。恵の体は震えている。恵は両手を握りしめた。うつむいて、すぐ足もとの地面を見つめた。
――そうだよね。走ったってすぐに追いつかれちゃうよね。
「ねえ。」
 恵はゆっくりと振り向き、まっすぐに由美を見つめた。
「教えてよ。何があったの、どうして欲しいの。言ってくれたっていいじゃない。いつもいつも自分のことばっかり考えて、よくわかんないよ。でもがんばって由美の話聞こうとしてるよ。だから教えてくれたっていいじゃない。それでも私、由美と一緒にいるの楽しいよ。私、何やっても由美に勝てなくて、本当に悔しいよ。何もやってないくせに。でもね。私、由美のこと大好きだよ。」
 恵は走り寄って渾身の力を込めて由美の体を抱きしめる。
――もう絶対離さない。
「私、妊娠してるんだ。」
 恵は自分の頭の上から足の先まで見えるような気がした。
――嘘だ。
 恵の体が前に倒れる。鈍い音がした。痛みはない。目をあけると由美のスカートが見えた。恵の背中には由美の手が二つ置いてある。視線を前に向けると、由美は石の舞台にもたれかかって空を見上げていた。驚いたように目も口も大きく開けている。由美の髪の間から流れ出た赤い血が黒い石をつたって枯れかかった芝生の中に消える。恵は立ち上がって由美の体を見下ろして、そのままの姿勢で立ちつくした。胸の動悸が高まる。息を大きく吸い込んではきだし、由美に踏みつぶされたバラの花束を拾い上げて、もう一度由美の横に並んで座る。恵は両膝を曲げてバラの花束に顔をうずめた。
「ねえ。由美。どうしたの。何があったの。よくわかんないよ。」
 空にいくつかの星が光り、夜が始まろうとしている。遠くで人の声が聞こえた気がした。

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