『わが星』演出ノート(未完)「秩序とデタラメと」



こんなことを考えている。

昨日のこと。自宅マンションのエレベーターに乗って変な匂いがすると思ってたら、つくね1個の大きさのうんこが落ちていた。笑い話のようだが辛かった。(結局誰かがやることなので、自分が処理をした。)ずっと「わが星」のことを考えている最中だったから、エレベーターのうんこのことで、『わが星』に書かれた「宇宙」と「社会」のことを考えた。
人はみな当たり前に排泄をする。これは純粋に人体の物理だから、(社会ではなく)「宇宙」に属する話だ。日が昇る。雨が降る。うんこをする。宇宙。多くの者はうんこはトイレでする。こっちは「社会」の話だろう。同様に、人はエレベーターではうんこはしない。「もちろんエレベーターにうんこはない」というのも社会の話だ。だったら、その逆の「エレベーターに乗ったらうんこがあった」というのは宇宙の話じゃないか。だって、人は誰しも毎日のようにうんこをするわけで、地球上の人のいるところ、本来は何処であっても人のうんこに出会って不思議はないはずだから。

15年前、2009年に岸田戯曲賞を受賞した柴幸男『わが星』は、タイトルからも明らかなように、冷徹な〈時の流れ〉で移り変わる〈人の日常〉を描いたソーントン・ワイルダー『わが町』Our Townという名作戯曲に発想の多くを負っている。元の戯曲にならうように、『わが星』にも「宇宙」と「社会」が書かれている。やや強引ながら、宇宙と社会は重ね合わされ(10歳の女の子の主人公ちーちゃんは「地球」)、しかしそこに詩的が生まれて、ラップミュージカル演劇になっている。

宇宙にも社会にも秩序がある。宇宙の秩序は物理法則だが、一方、社会の秩序は人間による。ここで、社会の秩序の方を「そういうものだ」という言葉と言い換えてみる。「便はトイレでする。」そういうものだ。「エレベーターでは排泄しない。」そういうものだ。「出社する時に男性社員はネクタイを締める。」そういうものだ。「夏には締めない。」そういうものだ……

宇宙の秩序は社会の秩序に逆らって現れる。エレベーターのうんこのように。これをなんと言い換えよう? 「たまたま(偶然)」はどうか。太陽はたまたまじゃなく毎日同じように昇って沈むじゃんと私たちは理科的知識で思ってはいるが、実際晴れたり曇ったりしてるのなんて「たまたま」としか言いようがない。今日はたまたま晴れてるし、たまたま雨降っているし、たまたまエレベーターにはうんこがあるし、たまたま自分は男だし女だし。夏の暑さが36度で済んでるのもたまたまだし、「いま地球に人類がいる」こと自体がたまたまに決まっている。私たち人間にとってもっとも深刻なたまたまは死ぬことだ。私たちはいつ死ぬか知らない。知りようがない。宇宙の秩序は私たち人間に対して実に「でたらめ」に現れる。人間たちの「そういうものだ」に逆らって。

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戯曲『わが星』は、あらためて読んで新鮮に思ったのは、形式として「ボーイミーツガールもの」ということであった。ラストに男子と地球が出会って、「地球が消えて終わる」ということは、「出会いと死」ということだから、実は「世界の中心で愛を叫ぶ」と変わらない。(別に悪いことではまったくない。)劇中のお話として力点が置かれているのは、月との別れ(疎遠)で、ベースとして描かれるのは家族との日常だから、「日常と別れと出会いと死」を、宇宙誕生~惑星(地球)消滅という枠組みの中で書いたという戯曲になる。

場は0から29の全30場あるが、大きく分けて3部に分かれそうだ。
0~5でビッグバンから惑星の消滅までの劇の全体が言葉のリズムを中心に表現されて、いったん幕が下りる。この宇宙のダイジェスト的な冒頭に、その後にリピートされるフレーズが詰め込まれている。4秒間の休憩後、幕間(まくあい)的な6場「望遠鏡」で、ちーちゃんという地球を中心とした太陽系一家から1万光年隔絶した場所にいる男子(と先生)の場が現れる。(調べて恐ろしいと思うのは私たちの天の川銀河の直径が10万光年なので、銀河内のレベルでは1万光年の距離は日本国でいう東京から名古屋程度の距離感である。そしてこの銀河は宇宙にあと40,000,000,000個つまり400億個あるそうだ。)
いったん時間がリセットされて始まる7~15の場は、ちゃぶ台が導入されて日常風景のお芝居を中心に展開される。何度も同じくだり(「寿命なんじゃないの」)を繰り返す前半の「家族編」(7~11)、引っ越しを経て友人・月ちゃんとの関係の時間の移り変わりを描く後半の「月編」(12~15)によって、第二部は構成される。前段の幕間・6場で男子が望遠鏡で観察している「わたし」は「1万年前の話」(p52)と示されているから、日常的風景中心のこの第二部は実は「(もう消えている)過去」の場面といっていいかもしれない。
50億年過ぎて(p119)、再び男子×先生中心の幕間的な16場「光速」が挟まれて、これ以降は「円外にいた男子が地球に出会う」ことが終幕へ向けての一本線となる。ところが、この一本線は男子が光速を超える(19)ことで消える(=男子は舞台に現れなくなる)。その見えない一本線に引きずり込まれるように「周辺」のモチーフ(描かれてきたこと)がクロスオーバーし始める。「ちーちゃん(地球)と繰り返し」という第二部の中心から、第三部はその「周辺」(それぞれ実は思っていたこと)にスポットが当てられる。「姉の想い(20)」「父・母の日常ラップ(21)」「日常は繰り返すが明日は来ない(終わりの予兆)(22)」「月の伝えたかったこと(タイムカプセルの手紙)(24)」が重ねられて、消えていた男子が自転車に乗って再び登場(光速を超えて過去に追いつくからか?この辺解読しきれてないが)、大団円として◻︎◻︎◻︎(クチロロ)のテーマ曲「00:00:00」が流れ、地球と男子は出会い、100億年が経って、地球は滅亡する。
構成として、よく書けている。まとめる。

【第一部=アルバム】わが星/地球が生まれて死ぬ100億年

〈幕間〉遥か彼方でそれを見る男子登場
   ↓
【第二部=過去】地球の日常を切り取るスナップショットの1枚1枚
・繰り返す「家族編」
・移り変わる「月編」

〈幕間〉男子、あの星に会いたいと想う
   ↓
【第三部=クロスオーバー】男子、地球に会いに行く/それぞれの想い
   ↓
ラスト、未来(男子)が過去(地球)に追いつく現在、
100億年経って地球滅亡/男子はそれを見る

しかし惜しむらくは、実際のオリジナル上演では勢いよくセリフが放たれるばかりで、このダイナミックな凸凹は伝わらなかった。もちろんお客さんがそんなこと分からなくたって、感動することの土にはなっていただろうが、この構成の上出来こそ、「わが星」という戯曲の一番の美徳なのではないかと自分は思う。最近、演出のことを「伝える工夫」じゃないかと思うようになった。柴くん本人の演出作より、もっと伝える量を増やすことができる(他人だからこそ)、それが今回のチャレンジの意義となるんじゃないか。
構成に関して、実際いまこれを書きながら気づいたこともあって、第三部の「男子の消える一本線が、地球以外の〈周辺〉の想いを引きずり出す」(この書き方にはニシの解釈が入っているものの)がそうなのだが、想いを抱えて男子が走り出すことによって、本来なら絶対に知り得ることのない「周辺」(他人)の心の中が次々開いて示されるという展開は感動的で(その男子が走り出すきっかけが先生の「後悔」だというのも面白い)、そうと分かった上で読む月ちゃんの(きっと本人には届くことのない)手紙の独白「ちーちゃん、あの時声をかけてくれてありがとう」には泣いてしまう。これは「それぞれの孤独」について書かれたホンなのだなと思う。そして、同時に、地球と男子が出会うというラストは、その孤独を、本人の知らないところで眼差す者もいる、ということが書かれた戯曲なのだった。

………………

(このあと1/3ほど『わが星』を手がけるにあたって「そういうものだ」に抗いたい旨を書いてまとめる予定も、文章完成に力入れてる場合でない、人集めねば!と書くのを中断。公演の当日パンフレットに「つづきのような文章」を書きました。)


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