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佐々木守:幻の刑事くん 完全版

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では「(新)七人の刑事」「特捜最前線」「刑事くん」について寄稿させていただいた。そのうち「刑事くん」については自分の方から書きたいテーマを申し出て強引に頁をいただいた関係で、当初の原稿を半分近く短縮した形でしか掲載できなかった。

先日、洋泉社がその歴史を終えた。その餞に、短縮前の原稿を掲載させて貰おうと思う。



佐々木守:幻の刑事くん

『柔道一直線』が7クールに及ぶ大ヒットになったことで、一躍お茶の間の人気スターとなった桜木健一が、NETの『太陽の恋人』を経て再びTBSに戻ってきたのがこの『刑事くん』である。その間に東映は『仮面ライダー』をヒットさせており、次に七時台で子供向けに刑事ドラマを作るという挑戦に出たプロデューサーは平山亨、斎藤頼照(東映)橋本洋二(TBS)という『柔道……』と同じ布陣であり、パイロット脚本も同じく佐々木守に依頼するという力の入れようだった。
 平山の回顧によれば佐々木は当初難色を示したという。平山の言葉を伝えるブログ『泣き虫プロデューサーの「いいから、俺にしゃべらせろ!」』によれば佐々木が「他のものなら書かせてもらうけど、刑事だけは嫌だ。刑事なんて権力の番人のこと素晴らしいなんて書けますか?貴方は殴られて蹴られて、ぼろぼろにされた事ありますか?私は学生当時デモに行ってひどい目にあっているのですよ。あれは人間ではない。憎悪の塊以外の何者でもなかった」断るのを、平山は「現在の警察にはいないような素晴らしい刑事を書きたいのだ」とついに口説き落としたのだという。
 筆者はかつて「宇宙船」誌の取材で佐々木にインタビューさせていただいたことがある。そのときも『(旧)七人の刑事』という代表作を持つ佐々木が「刑事ドラマは好きではない」と主張するのに驚かされた。しかし佐々木にとって刑事とは権力の側を代表する暴力装置であって、決してヒロイックに描かれるべきものではなかった。『七人の刑事』でも佐々木が一貫して書いたのは犯罪者の側の物語であり、捜査する刑事たちは事件を解決はできてもそこに隠されている意味までも理解することはできない。この「断絶」が社会の様々な問題を描きだしていたのだ。
『刑事くん』は桜木健一が演じた四シリーズ(最初の二シリーズは連続)と、星正人主演の第五シリーズが断続的に五年192話制作される人気番組となった。しかし佐々木が担当した第一シリーズの最初の四話は正に刑事ドラマを否定するようなエピソードばかりだ。主人公・三神鉄男は刑事だった父が捜査中に射殺され、犯人がいまだ逮捕されていないことから、自らの手でその犯人を逮捕するため刑事になったという若者だ。#1「あの街この街」では「そうでなくて刑事なんてカッコ悪い仕事できるか」「(父の件に比べたら)こんなくだらない事件」など当時の若者の気分を代弁するように警察組織を否定、#2「秋のあしあと」では証拠品の製造元を足で調べるという地味な捜査の挙げ句、それが全くの無駄骨に終わるという現実の厳しさ、#3「初恋、戦場ヶ原」では刑事とは知らない容疑者の娘に淡い恋心を抱かれ、#4「東京の青い砂漠」では目の前で被害者が加害者に変わることを阻止できない。佐々木は意図的に「刑事」という職責の中で生きる主人公に「人間」という問題意識を突き付けるドラマを繰り返し描く。もし作品がこの路線を貫けば作品は大人気とはならなかっただろう。だがそこに加わった市川森一と長坂秀佳という若い才能が佐々木の作った基本路線を発展飛躍させる。市川は主人公が事件を通して自分の中にある犯罪性を認めてしまうという青春の痛みを描き、長坂は父を憧憬しながらその父すらも完璧な存在ではないことに気づいていくという成長を描く。事件や犯罪者ではなく刑事自身の青春性をテーマとするこれらの技法はそのまま『太陽にほえろ!』に流用され、以後刑事ドラマの姿を一変させていくこととなる。
 シリーズが一旦終了することになり、第二シリーズ最終回は久しぶりに佐々木が脚本を担当。この「人間たちの祭り」は掛値なしの傑作である。ついに父を射殺した犯人がわかり、三神は犯人の恋人に接近する。事情を知った恋人は「あなたが(犯人)を逮捕したいのはお父さんへの愛情からでしょ。だったらあたしがあの人への愛情から逃がそうとする気持ちもわかってくれる筈よ」と、これまで三神の支えであった「個人的な動機から刑事になった」という根本に挑戦してくる。私情で動くならそれは刑事ではなく一人の人間だ、なら同じ人間の愛情を否定できるのか、と。三神は犯人を追いつめるが、それは犯人が恋人への愛を優先したためだった。そのとき三神は「すまんが一発だけ殴らせてくれ」と犯人を殴打、手錠をかける役は別の刑事に譲りそのまま辞職願を出す。
「オレの目的は終わったんだ、それと一緒にオレの一つの青春も終わった」
「(これからどうすると問われ)人間の中で考えてみる。平凡な、人間たちの中でな」
 そして新宿の歩行者天国の雑踏に一人消えていくというそのラストは、近くは「ウルトラマンT」最終回に、そして無数の作品に影響を与えたと個人的には思っている。

 後番組は『熱血猿飛佐助』、そして半年後再び『刑事くん(第三シリーズ)』が戻って来る。佐々木はここでも第一話を担当するが、その後シリーズに関わることなく、ラジオ以来の盟友であったTBSの橋本洋二プロデューサーとのコンビ作品も『それ行けカッチン』を除き殆ど途絶えてしまう。しかし当時ヒット請負人であった佐々木(昭和四五年には「柔道一直線」「お荷物小荷物」「おくさまは18歳」を並行して書いた)が企画の頭だけに参加要請されることは珍しくない時期でもあった。(これは余談となるが、佐々木の所蔵台本は現在国立国会図書館に寄贈され、誰でも読むことができる。その中に『影同心』も存在するが、放映では第二話となったその脚本には一話、とある。つまりあの作品も佐々木がパイロットのみ手掛けた一作。長く朝日放送作品を支えながら、何故か『必殺』シリーズだけは頑なに参加せず、あまつさえライバル番組『木枯し紋次郎』や『影同心』を執筆した佐々木の真意については後世の研究を待ちたい)
 前述のように筆者の取材の折、話題が『刑事くん』に及ぶと佐々木は突然「あの作品では橋本さんと対立して離れた」という意味のことを漏らした。さらに訊くと「(佐々木は)主人公が罪を見逃すように書こうとしたが、橋本さんはそれを許さなかった」とのみ答え、それ以上詳しいことは記憶にないようだった。このことはそれからずっと気になっていた。というのも第三シリーズでは第二話から第四話を市川が連続して担当、しかも監督も各話異なるという混乱が見受けられる。また市川脚本では第三シリーズ#2では恋人を奪われた元受刑者の怒りの拳を三神が甘んじて受け止めたり(その暴行を罪に問うたりしない)#3でも容疑者の年上の女性をかばう少年を糾弾したりしない態度を示す。市川とそのテーマ性を巡って議論したことを後年語っている橋本が、「主人公が罪を見逃す」佐々木脚本を許容できなかったのか。
 その後「故郷は地球 佐々木守子どもシナリオ集」(三一書房)に所載の「佐々木守全仕事」(加藤義彦)により、第三シリーズ#42も佐々木の脚本であり、しかもこれは制作ナンバー2であると教えられる。つまり#42は当初#1とセットで撮影されたか、少なくとも脚本は用意されたが、一度キャンセルされ、シリーズ終盤で映像化された、と推測できる。
 ここでまず第三シリーズ#1「ぼくたちの春」を見てみると、刑事を辞めた三神が、近所に住むフォークグループの一人が犯罪に加担したことを知り、だが彼の事情を知り自首するまで待ってやろうとする。しかし三神の後に城南署に入った宗方(三浦友和)は刑事という職業に忠実なエリートであり、そんな三神の感傷を無視して犯人を逮捕。三神は「刑事でなければできないことがある」と知って復職する(辞職願は実は受理されてなかった)という流れである。「人間たちの祭り」のあと、父の復讐という個人的な動機を失った三神が、今度はどのような答えを見つけていくのかという始まりであるが、正直筆に冴えはない。ただ宗方という新しいライバルキャラの設定は秀逸で、佐々木がこれまで描いてきた法の番人であり、暴力装置であるという彼を設定することで、三神が彼とは違う何かになれるのか、という展開が期待される。そしてここでも三神が犯罪者を見逃すというモチーフが出ているが、これはあくまで本人の自首を待つ形だし、なにより無事に放送されているのだから、佐々木の云う深刻な対立があったとは思えない。では#2としてはキャンセルされた#42「君の涙は見たくない」はどうだろう。
 このエピソードは一見してチグハグな印象を受ける。やけに長い会話があったり、編集が唐突だったりするのだ。物語はある犯罪を、高校生の少年が目撃するが、彼は犯人の顔は見ていない、という。しかし容疑者が、少年の恋人の兄である可能性が出てきて、そのために彼は偽証しているとわかってくる。別の証拠から恋人の兄が逮捕されるが、恋人は少年が兄を告発したのではないか、と激しく少年を責める、というものだ。この少年と恋人、二人だけのシーンが二回あるのだがそのどちらも脚本にはない会話が多く挿入され水増しされている。またラストの三神と少年の会話も脚本から一部変更され、編集された形跡も露骨だ。総合的に判断して、この回は一度完成させたもののお蔵入りとなり、その後同監督(富田義治)によって一部変更して放映されたものである、と考えられる。その際に少年とその恋人のキャスティング自体変更された可能性があるが、それについては後述する。
 ここで問題となるのはもちろんなぜこれが#2として放送できなかったのか。そこに佐々木が云うような深刻な対立があったのか、ということである。一つの鍵として、ラストの主人公と少年の会話を見てみよう。

(脚本より)
鉄男「そうだ、君が純子さんを裏切らなかったことは俺が一番よく知ってるよ」
健(少年)「すみませんでした。そのかわり刑事さんには迷惑をかけました」
鉄男「もういいさ、そんなことは。さ、純子さんを追っかけて行くんだ」
(放映された#42より)
鉄男「そうだ、君の気持ちは俺にはよくわかる」
健「すみませんでした。でも俺のやったことは間違っていたんでしょうか。純子には本当のことを云うべきだったんでしょうか」
鉄男「(ここに不自然な編集)さ、純子さんを追っかけて行くんだ」

 一見大きな相違はない。だがよく見れば三神の「もういいさ、そんなことは」という台詞が除外されていることがわかる。少年は恋人の兄を目撃しながら、犯人の顔は見ていないと偽証した。そのため警察に迷惑をかけた。脚本ではそのことを三神が「もういいさ」と不問に処する。一方放映版では少年が問うのは、恋人にも嘘をついてしまったということの善悪であり、三神は彼女だってわかってくれるさ、と送り出す。些細な違いではあるが、後者においては少年の罪の意識あくまで恋人に対する倫理意識であって、刑法的な犯意(偽証)についてではないように周到にすり替えられているように見える。つまりこの点が、ときには犯罪を見逃してしまう三神、という佐々木が第三シリーズで導入しようとした要素に、プロデュースサイドが難色を示し、最低限の改変をすることで後に放映した……という証明なのだろうか。
「人間たちの祭り」を経た佐々木脚本はもはや三神を、法の番人と人間的な犯罪者の狭間で悩む存在にはしておけず、より犯罪者の心に寄り添うものへと進化させていく狙いがあったのかも知れない。それが「刑事でなければできないこと」なのだとすれば、それは犯人と同じものが自分の中にあることを意識しつつも刑事であり続ける市川脚本よりもさらに過激で、最終的に三神と宗方が全存在を賭けて対決することも想定されていたのではないか。この少年の(愛ゆえの)偽証を看過するというのはの構想の第一歩であり、だからこそプロデュースサイドが早めにその芽を摘み、より穏やかな青春刑事路線へと転化をはかった。

 と、推測することで佐々木守が目指した幻の刑事くん像に迫ることが本稿の目的だったが、原脚本に当たるため国会図書館を訪れた筆者はそこで、佐々木の第三シリーズ#2の脚本が二冊あることを知る。

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