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『ごっくん馬路村の男。ないないづくしからの逆転劇』を読んで

【本書概要】
馬路村のユズを全国へ届けた男の物語
諦めない精神が生んだ奇跡

高知県の山間に位置する、人口800人程の小さな馬路村。
この地でユズに命を懸け、村を一変させた男、馬路村農協前組合長 東谷望史。
全国にその名を広めたユズ飲料「ごっくん馬路村」やぽん酢しょうゆ「ゆずの村」の生みの親、東谷望史。彼はユズの商品化に絶え間ない挑戦と創意工夫を注ぎ込み、地域資源を最大限に活かすことで、多くの人に愛される高知が誇る代表的なユズ製品を生み出しました。
本書は、東谷さんが歩んだ道のりと、その背後にある情熱や創意工夫の数々を鮮明に描きます。彼の試行錯誤や経験から紡がれる言葉は、ビジネスや地域振興のヒントに満ち、多くの人にとって刺激となる内容です。
この物語を通じて、地域を愛し、挑戦し続けることの大切さを感じ、多くのインスピレーションを受け取ることができる一冊。 ぜひ、東谷氏の情熱と奇跡に触れてください。

Amazon商品紹介より引用 (2024年9月26日閲覧).

先日、『ごっくん馬路村の男。ないないづくしからの逆転劇』という書籍を読ませて頂きました。筆者の依光隆明さんは何度かお世話になった方で、このような形で書籍が出版されたこと、また読む機会を頂けたことについて嬉しく感じております。頂いた方から、ぜひ感想を聞かせてほしいと言われてしまい、こういったかたちで感想文を書くのは小学校以来ですが、一個人として読んでみての感想や感じたことを書いてみたいと思います。

地域づくりに活かせるポイント

本書を受け取った際に期待したこととして、地域おこしの方法として重要な観点や要素は何かということを知れるのではないかということです。

より良い関係性=年齢や学歴を越えた、正直になれる関係

まず、「先行きが不透明となる持続させられない資源は使わない」ということです。これは当たり前なことであり、書くまでもないことではあります。ただ、本書を読んで思ったことは、「その資源の危なさを理解できているか、それを言える環境や関係があるのか」ということでした。

村の多くが森林資源は無尽蔵で、営林署は永遠にあると信じていた。東谷さんはそこに反発した。「無尽蔵なわけないやないか」と。(中略)気が付くと森林資源は枯渇していた。のちに営林署も消えたが(馬路は79年に、魚梁瀬は99年に廃止)、70年代半ばは永遠に営林署の時代が続くと思う人も少なくなかった。

p.56

そこから、村長や営林署長を前に正直な考えを話し、その反応は賛否が分かれるものとなったようですが、この話せるか話せないかというのは重要かなと思います。例えば、地域おこしは古くから住んでいる人や役場の人に加えて、移住者や若者などが混ざり合って行うことになると思いますが、やはり発言権は常に均等なわけはないなとも思います。そのなかで、地域に関わる人間の意識や考えが大きく偏るのは1つの危機ではないかと感じます。これは、地域に限らずワークショップに参加する際にも思いますが、年齢や学歴による個々人のギャップが最終的な意思決定や発話量に影響することはよくあることだと思います。年上だから間違えやすい、学歴が上の人の意見は聞くべきではないとは思いませんが、それぞれの考えが上手く対話されるか否かというのは、他者との関わりのなかで生きる我々にとって重要なポイントになるかと思います。また、少し話を戻しますと、本書にありましたような「鶴の一声」を出せる人というのも貴重ではないかなと考えます。やはり、こういうことは思っていても言えない、もし言えば何かしら異質者扱いや理解していない人と思われる可能性があります。「間違ったことを言いたくない・思われたくない」と思うことは仕方ないと思います。ただ、そこで言うことによって、全体のなかでの思い込みが崩されることもあるかと思います。

地域に夢や希望を与える

次に、「地域目線の重要性」かなと感じています。これも当然のことではありますが、本書を読んでいると「いかに農家を守るか」「いかに全体を巻き込むか」ということが重視されているなと感じています。その中でも、特に印象深い部分を引用します。

「農家の組合員に『いまからユズを植えたいと思いゆうけんど、どうやろ』と言われたら『植えてや、責任もって全部売るき』と答えて。組合員には夢を与えんと。『やめちょき』ゆうたら成長もないわねぇ。その代わり、言うた以上は死に物狂いで、責任もって売らないといかん」

p.99

私も大学生時代に地域活動に少し参加させていただいたからこそ思いますが、どうしても活動は前途多難ですし、思った以上の結果や反応がないことはあります。そのなかでも、活動する人や地域に「夢」や「希望」があるというのは大事かなと思います。少しでも成功経験や失敗経験をすることも大切ですが、結局「自分がやることで何か変わるかもしれない」と思って活動できることは重要かなと感じました。そこから、信頼関係も生まれると考えても、捨てきれない要素だと思います。

思考以上に必要となる実践

先ほどの「夢を与える」に関係した話ですが、これはどうしたら見せることが出来るのでしょうか。特に、東谷さんはある一定の立場(社会的・地域的にも)に立ち活動している点で理解はできます。ただ、例えば高校生や大学生、移住して活動する人といった人たちはどうでしょうか。ソト者扱いをされるなど、どうしても信頼関係づくり困難しやすい立場の人たちはどうすればいいのか。これについては、本書にもありましたが「実践すること」が重要になるのではないかと思います。東谷さんも自身を「実践者」と感じていたようですが(p.221)、とにかく動くしかないのだと思います。これは、自身が大学生時代に地域で活動していた際にも基本としていましたが、「自分たちの出来る範囲で、出来ることからスタートするやってみるしかない」と思っています。

筆者が高知市春野で実施した交流カフェ。
当時は、コロナ禍ということもあり、屋内で密集するのは危ないとなり、青空の下で行いました。
備品も、地域の企業などからお借りしたものや、自分たちで物を持ち寄って開催しました。

というのも、どれだけ考えたり、本を読んでも、やってみないと、出来るか出来ないかわかりません。そして、結果的に実践して良かったことは「地域に自分たちの存在を見せないと、いつまでもソト者としての視線は消えない」ということでした。もちろん、闇雲に動くことは推奨できないことではありますし、地域理解や関係者との対話はおざなりに出来ません。ただ、何か小さなことでもやってみることで、地域からの視線は変わるはずですし、「彼ら彼女らが出来るのなら」と思ってもらえることは、活動の連鎖反応も狙えるのではないかと思います。

地域をそのままに表現する

都会の真似したら田舎の商品は売れんということに気がついたがは、だいぶたってからやった

pp.128-129

発展しなかったことが今のこの時代に少し新鮮なところがあるんじゃないかなあと思うようになってきた

pp.203-204

この2つの文章は「地域が都市の真似をしても意味がない」ことを伝えてくれる文章であり、地域をそのままに見せることも1つの魅せ方なのではないかと思える文章だと思いました。私も都市圏に住んでいた人間なので「都市に住みたい・行きたいと思えば、東京や大阪や福岡に行けば良いだけ」と思います。ただ、東谷さんも指摘されていましたが、都市は東京を除けばだいたい同じだと思っていますし、地方が一種の「都市化」をするために躍起になるのはもったいないなと感じます。正直、地方が都市になることは人口減少した日本において困難ですし、「そのままの状態」の地域は都市には無い資産と思います。この部分は、以降でもう少し話してみたいと思います。

ごっくん馬路村に対する認識の変化

私事ではありますが、私がごっくん馬路村を知ったのは、高知に住み始めてからのことだったので、4年ほど前だったかなと思います。地元のスーパーでも見かけていましたが、高知で生まれたものとは知りませんでした。高知の人は、外の人に贈ったり、お酒で割るのに使用されたりしているようです。私も知り合いに贈ることがあります。人に物を贈る際には、その人が良い物をもらえたと感じてもらえるかを大切にしたいので、くどさの無い甘さとユズの香りが心地いいごっくん馬路村は重宝しやすいものだなと感じています。

本書を読んで大きく認識が変わったことは「馬路村のユズは歴史的に注目されてはいなかったし、豊作する場所でもなかった」ということでした。これまでは、馬路村はユズが有名な地区でそれを全国展開していったと思っていましたが、思った以上にそういう場所ではなかったのだと知りました。むしろ、地域の資源として活かすことが相当大変だったのだと思い知らされました。しかし、ユズを100%余すことなく活かすという姿勢も、そういった背景があるからなのかもしれないと感じました。

また、馬路村の製品を受け取った人のことを考えた商品なのだとも知りました。本書の「数字から『感動』へ」という章で書かれていましたが、お客さんに感動してもらうことをモットーに、ギフトの梱包材や箱などにゴミが出ないような工夫がなされたことを知りました。たしかに、某通販サイトで注文した商品に大量の梱包材が入っており、それを捨てるのに面倒さを感じたことはありました。それが、誰かに贈るギフト商品であればより重要になるかと思います。つまり、その商品が誰かに買われて、別の誰かに届けられて、実際に使われるという一連の流れを意識した商品設計が行われているのだと感じました。

最後に

私が、某大学教員と話している際に気づかされたことなのですが、「なぜ高知は古いものを壊して、まっさらにして、新しいものをつくるのか」と感じることがあります(詳しい話しは控えさせていただきますが…)。個人的な考えなのですが、地方が都市化しても都市流出は防げないだろうと考えています。なぜなら、地方が都市に似た町になったとしても、結局のところ都市の存在感には勝てないからです。もっといえば、都市圏の人が地方に来て「いつもと変わらない雰囲気」だと感じれば、そこに行く理由が無くなるのではないかと感じるわけです。

少し話が変わりますが、兵庫県にある「バイソンギャラリー」という場所にお邪魔したことがありました。アーティストが気軽に展示をできる場所として開放されていまして、私がお邪魔した際にもアーティストの方が創作活動をされていたのですが、この建物自体は廃屋をリノベーションして活用されており、所々に古さを感じました。また、行ってみるとわかるのですが、坂の上にあり、ちょっとした秘境のような場所でした。

立てられていた看板
ギャラリー
周辺の様子

たまに思いますが、こういう場所を都市圏に住んでいる人も求めるところはあるのではないか、そもそもそういう場所が都市の方が多いのではないかと思います。ただ、高知に今のままでいろ、近未来化するなとは思いません。むしろ利便性を向上させたり、新しさを入れることも重要とは思います。ただ、「高知の空気感」を大切にしなければならないとは思います。その捉え方は人によって違うと思いますが、ただ本書を読みながらそのような気になっております。

(文責:にしがみ)


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