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競走馬

競馬が残酷だという考えがあるのは既に色々書かれているので割愛しますが、ここでは、同じ屠畜として殺処分するのでも他の畜産や魚と何が違うかというのと、殺処分の肯定できる点について書きます。

今日4/18、帯広のばんえい競馬場では約170頭が、レースに使える馬が見極めるテストがされて、そのうち100頭以外は、ほぼ、、間違いでなければ、全て、食肉業者に売られます。落ちた馬を買いに、既に食肉業者が九州から来てテストを見ているというシュールな光景。そこに映るのは、半端な成金たちのお金に対する貪欲さと、そんな人間の欲望で翻弄される馬たちのひたむきさ、そして、生計の為にそうせざるを得なかった厳しい北海道の開拓時代を懸命に生きてきた農耕者の、僅かながらの名残。

調教で馬は少なからず人間との信頼関係を築きます。人間を信じて言うことを聞こうとし、信じてついて行きます。鶏や牛には調教はありません。追ってトラックに積めて、屠畜場に運びます。でも調教された馬は、人間を信じています。そこが他の畜産と違うところです。人間にトラックに誘導されて、なんとなく自分の運命を知って涙を流す馬もいます。そうじゃない場合は、無邪気に人間を信じて寄ってきて、安楽殺の注射で最後を迎えることもあります。

次は、むしろ殺されるほうが良いと肯定できる点について書いていきます。きちんと飼育する事ができなければ、無闇に、殺されるのがかわいそうだからとごっちゃに多頭飼いするのが生き物にとって幸せとは限らないです。一頭でも救おうと一生懸命にやってる方の熱意には敬意を払いますが、例えば目が行き届かなかったり、場所が一杯で混みすぎな為に、餌がちゃんとあたらなかったり、相性の悪い馬同士が衝突して死んだり、そういう、聞こえは保護施設だけど、実質は子供に見せられないような施設も見てきました。引退後も本当に馬に適した環境で養う事ができないならば、私は殺処分も肯定できると、そのような無闇に引き取る場にいる馬たちを見ていて思いました。ただ苦しみの中で生かされているより、死ぬほうがマシだからです。

学生時代に読んだ本、動物学者のテンプルグランディン氏の「動物が幸せを感じるとき」にも、アーミッシュ(殺さない信条のなんでも自然がいいと思ってる人たちの集まり)が馬耕などで使い終わった老馬を殺さずに引き取りや再販に出しすぎるために、結局、馬を殺すなというので殺すのが合法なメキシコまで炎天下の中を歩かせて、そこで一生こき使われ、馬にとっては死ぬより過酷な人生が待つ事になる、ということが書かれていました。

不要な生き物が生まれる以上、殺処分は、*「最大限に配慮された形」で必要だと思います。しかしそれ以前に、不要な生き物を生産しない、というのが理に適っているのであれば、やはり現状の日本の競馬に関わる人たちには残念なことが多いと思わざるを得ません。でも私の知ってる多くの馬主は最後まで馬を大事にする方が多いです。それが少数派だと改めて感じた今日でした。私も縁があった子は最後まで面倒をみますが個人資本とエネルギーには限界があって多くは難しいので、とやかく口出しできる立場にありませんが、競馬テストの日にモヤモヤした心の内を綴ったこの記事が、少しでもどなたかの胸の中で考えるきっかけになっていただけますように。


*興味がある方はこちらの本をお勧めします。https://www.amazon.co.jp/動物が幸せを感じるとき-新しい動物行動学でわかるアニマル・マインド-テンプル・グランディン/dp/4140815159


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