映画「ジョーカー」をみる
先日、映画「ジョーカー」を観ましたので、かんそうぶんを書きたいと思います。エモいです。殴り書きです。
あらすじ
ゴッサムシティで母と暮らす青年アー「うるせえ!そんな事知るか!そんな奴等のことなんか知るか!
そんなことよりももっと俺たち・私たちに金とリソースをよこせ!」
結果…
…というお話です。
心えぐられながら
隣の席の方のスナック臭を感じつつも、観ながら「何だこの時事映画。今を切り取りすぎだろ」 と思いました。全体的に洒落になっていない、"それ以上いけない"に充ち満ちた映画とも感じました。
もしこの映画をみた人々の感想が、ある二つの傾向に大きく分かれてしまうならば、それはつまり…ということを考えさせられました。
「正しさ」は人を救うのか?
「正しさ」は人を救うのか?
棄てられた者たちはそれでも自分たちを棄てた世界の規範を守る必要があるのか?
棄てていいのか? 劣っているから、できないから、気持ち悪いから、病気だから、汚いから、諸々…それは棄てる理由になるのか?
今の世で許されている形だからと言って、他者を貶め、正論棒・正しさ棒で殴り続けて良いのか? 笑いものにしていいのか?
それらが招くものが何であるのか、わかっているのか?
個人には起因しないけれども、確かにあるアンフェアさ。
生み出しておきながらもどこまでも背負わないということ。
そういったことを感じました。
一方で、「お前は自分のために何人死のうが知ったことじゃないんだろう。何故なら、自分が世界中から傷つけられ、酷い目に遭わされ続けたからだ。それで全てが正当化できると思ってる」という言葉も思い浮かべました。
人を狂わせるのは絶望ではなくて希望
そんな言葉がありますが、望みが絶たれ、心身ともに笑うしかないとなったアーサーは、狂ってしまったわけではない。終盤の彼はむしろ自覚して己の行為を為していたように感じられました。
ある種の行為を踏み止めてくれる何かは、まだ、大抵の人にはあるかと思います。
家族、親しい人、大切なもの、大切なこと、ちょっとした「ああ世の中はそんなに悪いことばかりではない」と思えること…。
クソみたいな世の中にクソをぶちまけるのを止めてくれる何かが。
しかし、それらがことごとく手のひらを返してきたら。
そういうのは総じて全体的に意味が無い、と強く感じてしまったら。
”どうせあんたたちには理解できないジョーク”として、「人生とはままならないものだけど、まあやっていこうよ」ということを述べたアーサーの心境は…。
それをみたら、終わり
自分も、作品の物語の構造であったり見立てについて考えたり、「そうかそういうことだったのかリリン」のように裏読み考察することが好きなタイプです。(また、「ジョーカー」は、そういった遊び・含みを持たせたエンターテインメント映画としても面白さがある映画であることは感じているのですが…)
けれども、ジョーカーは個々のネタがある種の見立てであっても、あまりに切実というかシャレになってない感が強くて、なかなか一つ上のレイヤから見ることができませんでした。
貧困・孤立・病気・障害・失業・介護・虐待等々、一人の人間にこれでもかと詰め込むのはその詰め込み具合自体が”その種の人々”を示す見立てとなっているのでしょうが…。(その詰め込み具合には、さすがに「これ以上いけない」と言いたくなってしまいます)
”笑わせたのではなく、笑われた”ことは、作中の重要なシーンの一つかと思います。
その拙さ故やむを得ないのかもしれませんが、観ていてやるせない、いたたまれない気持ちにさせられました。あれは辛いだろ…。
「自分が作ったモノ、自分の表現」が拙いから笑われる、というのはよくあることでしょうし、それを乗り越え、自分を鍛え、先に進む方も沢山いると思いますが、それでも、辛いよなと思います…。
作中の様々な虚々実々の描写も、全くの主観ですが、「※ツイート内容は基本的に創作です」とか「…というフィクション」などというのと同じ用途の、何かあったときのえくすきゅーずなんじゃないのか、と感じてしまっていたりします。
自分の場合は、人生どん詰まりの実体験があり(基本的に就職に失敗+怪我により失業期間が長かっただけ、ですが)、その時に感じたことや考えたこと、体験したことが、ジョーカーを観ていて喚起される部分もありました。
この映画にあまり共感できない、ということはある種良いことなのだと思います。
いくつかの幸運と巡り合わせにより、自分のような落伍者でもまた就職することができました。その時に、当然ながらどんな環境でも人は悩んだり苦しんだりしている、しかしそれまでの私とは全く違うレイヤーに生きている人々たちだ、といったことを感じました…。
無職や怪我人が抱える悩み、苦悩と、そうではない人々の悩みは違っていて当たり前であり、その辛さは比べられるものではありません。しかし、「ああ世界が違うんだな」と私が感じたことは確かでした。
生み出したのは何か
人の良心の度合い、人の在り方を試すような策を講じ、メサイアコンプレックスの怪物バットマンさえ翻弄する悪魔のようなジョーカー、「バットマンのような存在がいるから俺のような者も現れる」といったジョーカーはそこ(映画「ジョーカー」)にはいませんでした…。
ジョーカーを生み出したのはバットマンではありませんでした…。
作中の出来事が妄想にせよ虚構にせよ、貴方たちが続けているのはこういうことだ、このままぶっ叩いていたらどうなるか、続けているとこういうことになる(かもしれないのだ)ということを、映像で示してしまったこと、映画という形で皆の目に触れるように世に出したこと、そのことが自分は強く印象に残りました。
強烈な映画でした。
その他
「ジョーカー」、IMAX版で観てきたのですが、非常に素晴らしい画質でした。
プラス500円くらいしてしまうのですが、映画鑑賞自体、自分にとっては特別なイベントなので、500円で更に特別感がプラスされるならば、今後もIMAX版で映画を観ていこうかなと思いました。