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【ego:pression】2022/8/13ソワレに参加した「RANDOM18」の感想【アーカイブ】

※ふせったーに投稿した過去記事を、アーカイブとしてnoteに投稿しています。

ego:pression「RANDOM18」
8月13日(土)ソワレ 台風


※ネタバレがあります。







スケジュール上一回しかチケットが取れず、その一回は直感でカメラマンの赤梨さんの物語を追いかけることに決めた。
途中一瞬見失う時間はあったものの100分間追い続けた結果、もう赤梨さんのことが大好きになってしまった。
もう公演を見に行くことはできないし、配信もアーカイブもきっとないし、ということは動いている赤梨さん、そしてあの表情を見ることはもう永遠にない。
大げさかもしれないけれど、いや実際大げさなんだけど、世界はなんて残酷なのか、と思ってしまう。

実在の人を好きになったなら、会いに行けばいいし、会いに行けはしなくても、なんらかの動向を追えたり、写真や動画で元気な姿を見られたりする機会はある。
フィクションの登場人物を好きになったなら、まだ何か続きがあれば僥倖、続きがなくても登場回を繰り返し見るとか読むとか、そういう方法でフィクションの中のその人に会いに行くことができる。
そもそも大抵の場合、紙面だとか、映像だとか、舞台だとか、そういう区切りがその世界にはあって、その区切りの中にしかその人はいないし、そこでしか会えないのだということは半ば了解済みで、だから割り切りやすい(もちろん二次創作で世界は無限に広がるけれども、それでも現実世界との区切り自体ははっきりしていることが多い)。

そこへいくとイマーシブシアター、あれほどリアルな時間を生身の状態で共有して、間近で息づいていた人たちに、会場を出たらもう二度と会えない。
ということがわかってしまっているのに、一方であの人は間違いなく今もこの世界のどこかに生きている、と思っている自分がいる。
だってあんなに近くで、あの表情を、その眼のわずかな潤みまでも、目撃してしまったんだから。香水の匂いを感じてしまったんだから。
存在を全身で感じ取ってしまったんだから。

AR鑑賞会を終えた赤梨さんは今もこの世界に生きていて、おじいちゃんとたくさんたくさん話をしただろうし、あそこで撮った写真たちを度々眺めているのだろうし、一青さんとも時々会っているのだろう、と半分確信しているのに、存在を確認することは絶対にできないとわかっている。

本当に、なんて残酷なんだイマーシブシアター……。

このやり場のない気持ちは言語化で解消するしかない。ということで、

・赤梨さんという存在がいかに魅力的だった(刺さった)のか
・特に印象深かったシーン(ダンスと曲)
・全体を通して感じたこと諸々

あたりを熱いうちに書き留めておきたい。

●赤梨さん


赤梨さんは、寄り添う人。

寄り添うというのは、問題を抱えた人に対して元気付けるということとも、解決策を与えるということとも違う。そもそも問題を抱えていない人にも、寄り添うことはできる。
喜んでいる人がいたらその喜びに寄り添い、悩んでいる人がいたらその悩みに寄り添い、超えたい壁がある人がいたらその不安と勇気に寄り添う。

赤梨さんはずっとそうやって、あの100分間を過ごしていた。
彼女がコールドスリープのメンバーの一人だったとしても、やっぱりそうやって過ごしていたのだと思うけれど、「AR体験会の参加者の一人」という設定が、寄り添う赤梨さんという存在を際立たせていた。

誰の喜びにも、悩みにも、苦しみにも、決して干渉することはできない。
その葛藤はもちろんありながら、それでも、横で寄り添うことはできる。

赤梨さんが相手の人の呼吸に周波数を合わせていって、2人や3人の全体で美しく成立しているダンスが本当に素敵で、赤梨さん(pinkeさん)の限りなく繊細な表情と合わさって心を深く貫かれた。

他の人たちには赤梨さんが見えていないはずなのに、時に見えない何かに背中を押されていくような繊細な演出にも、切なすぎて涙腺がやられた。

ARの映像に対して言葉をかけたり肩を叩いたりするーー現実世界の自分と他人との境界も、実はそれくらいまでに隔たっているものなのかもしれない。と、色々な経験から最近特に思う。
自分が「本当の意味で」他人にしてあげられることなんてたかが知れていて、究極的にはその人に寄り添うことしかできないのではないか。

でもそれは、寄り添うこと「しか」なのではなくて、寄り添うこと「こそ」なのだ、それこそ、自分ができることなのではないか。
もしかしたら相手には自分の姿が見えていないこともあるかもしれないけれども、それでも一瞬でも、何か寄り添う者の存在を感じ取ってくれたら。

そしてそれがもしかしたら「人を愛する」ということなのかもしれない、と臆面もなく言いたい自分がいる。

赤梨さんはあの100分間で、いろんな人に心の底から寄り添い、きっとその人たちを愛していた。
だからこそその姿は尊くて、輝いていた。

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赤梨さん(pinkeさん)の表情のことは、言葉でなんと表現しても足りないのだけれど、常に何というか、演技とは到底思えない深いもので、赤梨さんが自身の曽祖父母の存在に気づいてからはそれがさらに切実になっていって、本当に魅力的で感動した。
言葉なく、表情とダンスだけであそこまで赤梨さんという人の人柄を表現できるのは、きっとpinkeさんご本人が彼女のように人の気持ちに寄り添える方だからなのだろうな、と思います。

●特に好きだったシーン(ダンスと曲)

赤梨さんを追う中で、特に強烈に印象に残っているのが、洗面台で飛鳥さんと2人で踊るシーン。
飛鳥さん(pirori-noさん)も底知れぬ魅力を感じた人で、もう一度参加できるならこの人を追いたかった。

日本語詞のある曲に、歌詞と絶妙に合っていて鋭い緩急のついた激しいダンス、鏡の存在、そういうものが合わさってなのか、強く印象に残った。

ダンスど素人なので「ここの振付が」みたいなことは全く言えないし、夢中で見すぎて正直細部の動きは思い出せないのだけれど、とにかく数分間があっという間に過ぎて雷に打たれたように感動した。

ここで流れていた曲が、後で歌詞を頼りに調べたら日食なつこさんの『エピゴウネ』。
帰りの電車で約2時間、ずっとこの曲を聴いていた。
初めて歌詞をしっかり見ながら、これをあのシーンで使っていたということに対しても、後からじわじわと込み上げるものがあった。

この曲は一見すると、何か大きな「夢」を持って目指している人に宛てられたもののように思える。実際、常に自分のことを歌っているという日食さんが、やはり歌手としての自分のことを書いた曲らしい。

でもあの洗面台のシーンは、彼が何か昔からの大きな夢を追っていたという話ではない(飛鳥さんを追っていないので不確実だけれど…)。
そうではなくて飛鳥さんが完璧主義(潔癖)の克服へ向かうという場面、自分の中の壁に向き合って、戦いを挑む勇気を奮い立たせるという場面(と自分は理解した)。

自分の中の壁を壊すことが、このシェルターの中で、新しい世界で、他の人たちとともに生きていくことにつながる。

「情熱だけで生き残れたらどいつもこいつもヒーローだよ」

という印象的な歌詞の「生き残る」を文字通りの生存に掛け、
ロケットに乗せているのははたから見て壮大な夢でなくてもいい、自分の中の自分にしかわからない壁と向き合うようなことでもいい、いやむしろそこから生存への道が開ける。
「背伸び程度」では届かない空に、「飛ぶ鳥」のように飛翔できる。

そういう勇気の唄としてこの曲が使われていて、その小さく巨大な飛鳥さんの勇気に見えない赤梨さんが寄り添っていたのだということに思いを致した時、あそこで感じた大きな感動の意味が少しわかったような気がした。

歌詞の内容からは完璧主義者としての飛鳥さんを表す歌として解釈することもできて、その二重性がまた深みをもたらしてくれているように思う。

叶うならばあのダンスだけでも、ダンスだけでももう一度見られたら…。
そう思いながら今日もエピゴウネを聴いて2人に思いを馳せている。

●イマーシブシアター「RANDOM18」全体を通して


・没入への入り口

中に受付があるので「建物に足を踏み入れた瞬間から」の没入体験ではなかった代わりに、一人一人に「カプセルにinする」という境界線が引かれて、「カプセルから出た瞬間から」物語が始まる演出が最高に好きだった。
まるでカプセルの中で待機している間に時空を超えて異世界に飛んでしまったような。

ディズニーシーのアトラクション「センターオブ・ジ・アース」で数十秒間のエレベーターがゲストを地中深くまで運んだように錯覚させる演出が昔から好きで、あれを思い出してワクワクが止まらなかった。小さなテレビ画面から最初の指示が流れてくる演出もたまらなかった。
開演前からクライマックス。

そういえばほぼ最初に入場したのにカーテンが閉まっているカプセルがあって、今思うとあそこには一青さんか赤梨さんのどちらかが眠っていたということなのだろうか。

それから「2222年の現在にAR映像で2122年当時の出来事を追体験する」という設定は、「イマーシブシアターRANDOM18の客」としては「2222年のAR体験会参加者」でありつつ「2122年の目覚めの現場に立ち会っている」という重層的な役割を与えられることになったために、全く違和感なく深く没入していた。
会場も所々天井が破れて雨漏りをしているところがあったり、剥き出しでボロボロの非常階段があったりして、2122年当時のまま残されたシェルターの半分廃墟と化した姿としてのリアリティが凄かった。

ムケイチョウコクさんとのスペースで代表の秋吉さんが「場所との出会い」のことを強調されていたけれど、まさにあの場所あってこそのあの物語世界。そう考えると、一回きりでも奇跡のような体験をもらったのだなあと改めて思う。

・ダンス、かっこよすぎる

改めて、ダンスってなんてかっこいいんだろう、と思った。

身体一つから、あんなにも生が満ち溢れていて、苦しみも喜びも、人間の全部が痛いほど伝わってくる。
そんなダンスを間近で浴びられる幸せを感じ続けた。

100分間、想像以上に踊り続けていて(もっと演劇的なパートも多いのだと思っていた)、建物は想像以上に熱気に満ちていて、本当に人間離れしたパフォーマンスだった。
皆さん疲れ切っているはずのエンディングのダンスにはもう圧倒された。

一人一人が輝いていて、生きていた。
今思い出しても、神々しいまでの光景。

・ノンバーバルのイマーシブ

イマーシブシアターを好きになるきっかけとなったDAZZLE「Venus of TOKYO」では、演者が声をほぼ発さず私語厳禁ではあるものの、録音の音声がたくさん流れるという形式だった。その後に参加した「泊まれる演劇」は登場人物との会話が可能だった。
文字通りのノンバーバルのイマーシブシアターというのははじめてだったのだけれど、やっぱり自分にはノンバーバルが合っていそう、と感じた。

表情とマイムとダンス(と小道具類)だけで物語が進むから、見ている側はとても集中していなければならない。

あの動きは、あの表情はどういうことなのか、あの振付にはどういう感情が込められているのか。
その手紙、何て書いてあるんですか…!見に行かなきゃ…見えない…!(ここはちょっと難点でもある)

めちゃくちゃに集中するしたくさんのことを考えるので、足や目だけでなく頭も心も足りない。
その「足りなさ」が、これぞイマーシブシアターという感じがしてとても良い。

VoTでイマーシブシアターというものを初体験して受けた大衝撃を、当時、と言っても半年前、こう言語化していた(長文)。

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映画や漫画や小説、通常の演劇でも、作者が意図する演出のために物事はある視点から、ある範囲を切り取られて提示される。見る側はそこに込められた意図を解釈して物語を読み取っていく。何気ない物でも、アップで大写しになれば、見る側はこれに何か意味があるのだと思う。

登場人物の意味ありげな表情が描写されれば、読み手はそれに意味があるのだと思う。しかしイマーシブシアターの特に自由行動部分では、観客が手がかりにできるのは自分で能動的に得た情報だけ。どの角度から見るのか、どこをどこまで見るべきなのか、誰も教えてはくれない。世界は平面に無限に広がる。

その制約の中で謎めいた物語が展開されるという落差が、狂おしいほどたまらない。
自分で動いて謎を解く形式には脱出ゲームもあるけれど、圧倒的な「物語」がノンストップで進行しているという点が異なる。その意味ではあくまで「演劇」なのだし、もっと言えばリアルな現実世界だとも言える。

現実にも様々な出来事が同時多発的かつノンストップに進行していて、視点は切り取られずすべての情報が等価に浮遊しているから視点を選び取らないといけない。選び取った瞬間にその他の情報は遮断される。結果として自分と他者の認識には大きな差が生じる。

すべての出来事を体験できないvotはまさにこのもどかしく不完全な現実の写し鏡で、だからこそ怖いほどリアル。
そして想像力という今の社会において最重要と言っても過言ではない力が、ここで脚光を浴びることになる。謎解きをしない人にとっても、目の前で起きていないことへの想像力、過去への未来への想像力が不可欠になる。

(2022.1.17)
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一方的に与えられた情報や一般的なステレオタイプを万能物差しとして携えているだけでは単色の人間や社会にしかならないし、そういう人間や社会は必ず人を傷つけてしまう。
現実世界をたくさんの人と一緒に生きていくためには、一人一人の想像力というものが必要不可欠だと思う。

すべてが充足された現代社会でますます軽視されているその想像力というものが、イマーシブシアターでは主役になる。

だからこそ個人的にイマーシブシアターは未来そのものだと思っていて、ノンバーバルのイマーシブシアターはその特徴が最大限に発揮される形式なのだと今回参加して感じた。

全部を体験することは不可能だから、いくら想像してもし足りない、足りなさを自分なりに埋めようとしてまた想像する。
それでも足りないものは足りないままに抱き締めるしかない。

エンディングで全員が集合した時、赤梨さん以外の17人のことは、どんな人なのか、どんな背景があるのか、なぜ選ばれたのか、ほとんどわからないままの状態だった。
自分の視界が舞台やスクリーンだとすれば、その演劇や映画にほんの数分ずつしか登場しなかった人たち、ということになる。

それでも不思議と一人一人のことをよく知っている気がしたし、愛おしく思ったし、全員に拍手を送りたい気持ちに自然となった。
これは本当に不思議なことで、でも現実世界も実はそういうものかもしれない。

目の前の人の過去や内面のすべてを知ることは絶対になくて、それでも、その状態で抱き締めたり抱き締められたりする。

今回の公演に一回きりしか参加できなかったことで、そのことを教えてもらった気がした。


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赤梨さんの物語にお邪魔した100分間は本当に尊く、忘れがたい体験になった。

自分が自分の選択で見たものしか、感じたものしか、手元には残らない。でもだからこそ、手元に残ったもの、知り得たことが愛おしく、手元に残らなかったもの、永遠に知り得ないものも同じくらいに愛おしい。

知り得なかった物語への愛おしい切望、あの人たちにもう会うことができない事実への愛おしい痛みを抱えながら、また次の物語を待ちたい。

(2022年8月15日投稿 元記事@ふせったー

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