「イマーシブシアター」、その深い深い魅力を語るnote
はじめに~文化芸術/ライブエンタメは不要不急か
コロナ禍と呼ばれる数年間、文化芸術やライブエンターテイメントが「不要不急」の括りに入れられたことは、記憶に新しいと思います。
文化芸術やライブエンタメは果たして「不要不急」なのか?
突如として突きつけられたこの問いに、得体の知れない感染症の拡大という大きな混乱の中で様々な反応がありました。
このような文化庁長官のメッセージも出された一方、好きで勝手にやっていること、役に立たない娯楽に税金を使うなんてとんでもない、という声も多く聞かれました。
いろいろな考え方があっていいのだと思います。
ただ自分の考えを言うならば、やはり断じて「不要不急」だとは思わない。
むしろ文化芸術やライブエンタメは、「人を生かし、人を救う」ものだと強く思っています。命を救い守り続けていくために、絶やしてはいけないものだと。それはまさに、医療や福祉がそうであるようにです。
「人を救うだなんて、そんな大げさな」と思うかもしれません。
ですがもし、
好きなアーティストのライブを見に行って、一フレーズでも心が震えた瞬間があったとしたら、
美術館で見た一枚の絵に視線が吸い込まれて離れられない体験があったとしたら、
舞台の上の登場人物に寄り添って流れた一筋の涙、こぼれたわずかな笑みがあったとしたら、
その音楽は、芸術は、演劇は、その人を救っている。その人のほんの一部であっても、紛れもなく救っているのだと、勝手ながら思うのです。
そういうものに自分の一部を少しずつ救われ続けながら、けっして楽ではない生を一日一日生きていくのではないかと。
自分は基本受け手側の人間ですが、作る側もきっと同じです。
作品を作ることで少しでも生きることを続けられる人、作品を作ることで少しでも心の重みが軽くなる人がいるとしたら、その創作活動はその人自身を救っている。
そんなふうに、文化芸術、ライブエンタメに救われ、生かされている人たちが、けっして大多数ではないかもしれませんが、確実にいると思っています。そのジャンルにどれだけ詳しいか、とか、どれだけ熱中しているか、といったこととは関係無しに。
ほんの少しであっても「そうだ」と思える人たちに向けて、この記事を書きます。
そういうあなたに、令和6年を迎えた今、どうしても出会ってほしいものがあるからです。
その名は「イマーシブシアター」。
コロナ禍の前から国内でもひっそりと芽吹き、一部界隈でじわじわと広がりつつあったイマーシブシアター。お台場に世界初の「イマーシブテーマパーク」がオープン予定というニュースもあり、2024年は「イマーシブ元年」になるのでは、という声もあります。
このイマーシブシアターが、演劇やダンスのようなライブエンタメであると同時に芸術であり、芸術やエンタメの一ジャンルという枠を超えて、未来の人間を救い生かす一つの文化にさえなりうる、と、一観客である私にらは思っています。
だいぶ風呂敷を広げましたが、大袈裟ではなくそう思っていまして、
じゃあイマーシブシアターとは何なのか、どうしてそう思うのかについて、この記事ではじっくりと説明していきます。
2022年初頭にイマーシブシアターに出会って頭をぶん殴られたような衝撃を受けて以来、寝ても覚めてもイマーシブシアターのことを考えてきた私の2年間の思考と体験のまとめでもあります。
このすっっっごいものに一人でも多くの人が出会ってほしい、という祈りでもあります。
このnoteを見つけてくださったあなたに届くよう、全力で書きますのでどうかお時間をください…!簡潔にと思いつつ長くなってすみません…!
【イマーシブシアターのことをすでに知っている人へ】
イマーシブシアターのことを、何となくであれすでに知っている、興味がある、実際に足を運ぼうか迷っている人、でもどういう場所なのか、よくわからなくて不安なんだよね……という人は、同じように初めて参加した「後輩ちゃん」の話から始まる、ちなみんさんが書かれた以下の記事も是非読んでみてください。
優しく力強く、あなたの背中を押してくれること間違いなしです。
イマーシブシアターとは?
まずはイマーシブシアターがどういうものなのかについて。
「イマーシブ」(没入)という言葉は最近いろいろなところで聞かれるようになりました。最新の技術を駆使して「没入感」を得られるようにするというコンテンツも多く出てきていますが、イマーシブシアターはVRゴーグルを装着するとか、画面の向こうの仮想世界の何か、というわけではありません。生身の身体ごと没入します。「没入感」ではなく「没入」です。
イマーシブシアターのアウトラインとしては、その歴史も含めて2021年11月に書かれた以下の記事がわかりやすいです。冒頭部分を引用します。
ドラマ鑑賞も演劇鑑賞も映画鑑賞も、「見ている私は現実世界にいる」という意味では同じものです。
汗ばむ手にチケットを握りしめて客席の最前列で見ていたとしても、ポップコーン片手に自宅のソファでくつろぎながら見ていたとしても、そこはどちらも現実世界。ステージの上だけが、モニターの中だけが、スクリーンの中だけが、フィクションの世界であって、観客の我々がその壁を越えることはどう足掻いてもできません(だからこそ、テレビから這い出てくる貞子は恐怖を倍増させるのでしょう)。
しかし、この壁を盛大に破壊して、「役者たちのいる世界に、自ら飛び込んで“没入”していく」ということが、起きてしまう場所がある。逆貞子です。貞子レベルでありえないことが、現実に起きてしまう。
それが、イマーシブシアターです。
では、フィクションの世界に飛び込んだ先では何が起こるのか?
もしかすると、舞台作品よりもRPGゲームの方がイメージしやすいかもしれません。ワールド内にいるキャラクターを自由に操作するような感覚。周りには色々な人たちがいて、色々なことが起こる。その中を生きる。
でもその世界に存在するのは、キャラクターではなく自分自身です。
生身の自分自身がフィクションの世界の一部となり、周りで同時多発的に起こる様々な出来事を目撃したりしなかったりする。時に自分自身も物語に参加しながら、自分だけの物語を紡いでいく。
本当にざっくりと言えばこれが、フィクションの世界の中で起きることです。詳しくは後で少しずつ触れていきます。
そして、私の思うイマーシブシアターの根源は、ここにあります。
「現実世界を飛び出して、物語世界の一部になる」。
これが、豊かで楽しく奥深い、イマーシブシアターの世界を覗くための第一歩、いわば切符のようなものです。
ここからすべてが始まり、ここからたくさんの可能性、魅力が、爆発的に花開いていきます。
準備はよろしいでしょうか。
それでは、この切符を手に、イマーシブシアターの深みへと一段ずつ降りていきましょう。
イマーシブシアターの深みを辿って地下7層まで下りて行く
【第1層】世界の一部になるということ
世界の入口で、切符の券面をもう一度よく見直してみます。
「現実世界を飛び出して、物語世界の一部になる」
簡単に書いてあるけれど、これってどういうことでしょうか。
普段生きている中で、我々は「現実」という世界の一部ですよね。
世界の中には、学校だとか会社だとか家族だとか、宇宙から個人の内面まで、いろいろなコミュニティやレイヤーがあるけれども、現実という世界は一応、ただ一つ。
そこから抜け出す、とは。
たとえば世界観の作り込まれたテーマパークに行くと、違う世界に入り込んだような感覚になるかもしれません。あの感覚、自分も大好きです。
ただ、現実世界から完全に遮断されてはいない。
一緒に行った人同士では「名前」を呼び合うかもしれません。名前は現実世界のものです。
スマホを開いて連絡を取り合うかもしれません。電波は世界の境界を飛び越えます。
イマーシブシアターでは、あなたの本名が呼ばれることはありません。役としての会話を除き、私語自体が禁止されていることが多いです。
通常スマホでネットワークに接続することはありません。世界の中にいる誰もが、現実という世界と切り離された状態で、立ち、歩き、話します。
その中にあなたが、現実世界のあなたとは隔てられた状態で、存在しているのです。
たとえば、ファンタジー小説を読んでいたらいつのまにか没頭していて、我に返ってここが現実世界だったと気づく。
あるいは夢の中で自分が架空の世界に生きている時、現実世界から抜け出していると言えるかもしれない。
イマーシブシアターにおける「没入」の感覚は、どちらかというとこういった体験に近いかもしれません。
では、飛び込んだ先の世界はどういう空間なのか。
周りを見渡してみましょう。
■イマーシブシアターの空間
イマーシブシアターの舞台となるのは、テーマパークのように広大な空間ではなく、通常建物1棟分、またはワンフロアといったところです。
その中は、これでもかというくらいにその世界のものとして作り込まれています。
雰囲気をお伝えするため、いくつかの写真で紹介します。
会場の中を撮影することができる作品はなかなかないので(現実世界ではないからです)、期間限定の「フォトスポット」として開場時間中の撮影が許されていた、ダンスカンパニー・DAZZLEによる『Venus of TOKYO』(2021-22)という作品を例にしますと、
登場人物「医師」が拠点とする診察室は、こんな感じ。
ここにはある隠された秘密がありました。
キッチン。登場人物の一人である「シェフ」がここで実際に本物の肉料理を作って提供するというシーンもありました。
本物のキッチンのようでいて、よく見るとキッチンにはそぐわないような物もあり、不穏な想像が掻き立てられます。
バーカウンター。ここでも様々な物語やパフォーマンスが繰り広げられていました。機会を窺い、こっそりと取引を行うこともできました。
DAZZLEはこのように内装をかなり大胆かつ緻密に作り込んでいますが、元々ある建物の雰囲気や設備を生かして世界観が作られることも多くあります。
例えばムケイチョウコクの『漂流する万華鏡』(2023)という作品では、実際に古民家カフェとして営業されている家屋を貸し切って、ある「万華鏡作家」の所有する古民家カフェとして、物語の舞台にしていました。
この形式だと、お店に置いてある置物や貼り紙がそのまま物語の小道具や舞台美術になってしまう!という魔法のようなことが起こります。
ただ場所を使うというだけではなく、その場所に降り積もった時間や、その場所に根付いた物語までをも作品世界に取り込んでしまうような凄みがあります。
ダンスパフォーマンスによるイマーシブシアターを作るego:pressionの『RANDOM18』(2022)という作品は、廃業したカプセルホテル一棟を丸ごと使って上演されました。
「目覚めたら数百年先のカプセルの中だった」
という設定なのですが、観客は実際にかつて使われていたカプセルの中に一人ずつ入って公演が始まるのを待ちます。合図によってカプセルから出るとそこは数百年先の世界。風化した廃ホテルの醸し出す終末感が、世界観と絶妙にマッチしていました。
予告動画でその一端を感じ取ってもらえると思いますので、是非再生ボタンを押してみてください。
そうそう、建物をそのまま生かすと言えば「泊まれる演劇」はまさに典型的な例です。
泊まれる演劇とは、普段はホテルとして営業しているホテルの建物を丸々使って、ロビーや各部屋で様々な物語が展開し、そのままホテルの部屋に泊まることができる、というもの。
基本的には登場人物も客もそれぞれ何らかの理由でホテルに泊まりに来ている、という設定で物語が進行します。
人が泊まっている部屋の中にお邪魔して本人とお話しすることができたり、本人がいなければ部屋を探索して、時にその人の物語や秘密を知ることもできたりします。
人の泊まっている部屋に入るということは現実ではなかなかないですから、独特の緊張感や背徳感があります。
下の写真は、実際に登場人物が泊まっていたホテルの部屋です。
※泊まれる演劇では、終演後に写真撮影が許されます。
現実世界と地続きでありながら、現実とは異なる世界。まるで異世界のように作り込まれた世界もあれば、現実の空間とほとんど変わらないのに、実は物語世界に侵食されているという世界もある。
訪れた誰もがその世界に没して世界の一部となることから、イマーシブシアターは始まります。
【第2層】ものすごく生で、ありえないほど近い
切符を手に飛び込んだこの世界は、当たり前ですが、画面越しではなく、脳内にバーチャルな何かが投影されているわけでもなく、徹頭徹尾生身の世界です。
部屋に居ながらにして世界と繋がることができ、どこへでも行けるような気がしてしまう昨今、生身で知らないどこかへ飛び込むという体験はますます貴重なものになりつつあるように思います。
またリアルタイムという意味での「生」でもあるため、その場に満ちるライブの緊張感は他のライブエンタメと同じように強くあります。
さらに演者以外の観客も世界の中に同居しているということで、参加者が異なれば世界に満ちる空気感も大きく異なる、というのはイマーシブならではの特徴かもしれません。一回きりの緊張感。回ごとに異なる空気感がダイレクトに伝わってきます。
そして近いです。ありえないほどに。
「S席なのにこんな後ろ……」とか、「手すりで視界が……」とか、そういうことを言うまでもなく、基本いつでも最前列。最前のドセンです。
表情の一つ一つ、瞳に映る光まで、はっきりと見えます。バチバチに目が合います。演者が動けば風を感じ、その息遣いまでが聞こえてきます。
一度演者のお腹の鳴る音が微かに聞こえたことがあって、なんてリアルなんだ…!本当に同じ世界にいるんだ…と思いました。フィクションの中の登場人物だって時にはお腹もなりますよね。にんげんだもの。
DAZZLEやdaisydoze、ego:pressionなど、ダンスパフォーマンスと組み合わさったイマーシブシアターも多いのですが、本当にありえないほど至近距離、鼻先スレスレで激しいダンスが踊られるのはゾクゾクするような体験です。
演技にしてもダンスにしても、イマーシブシアターでもなければこんなに近くでプロのパフォーマンスを見るなんて体験はできないでしょう。しかもそれが物語世界の中で行われるのですから、ちょっととんでもないことが起きていると思いませんか。
演出によっては、物語の中で演者から触れられることもあります。
肩を叩かれた時の感触、たしかに感じられる人の体温は、自分はたしかにこの人と同じ世界で生きているのだ、ということをはっきりと思い出させてくれます。
■五感をフル稼働
生、のつながりで言うと、五感、特に触覚、嗅覚に味覚までもが刺激されることもイマーシブシアターの特徴です。
肩を叩かれた時の感触もそうですし、
とりわけ印象的な「香り」は作品世界を構築するためによく使われます。
写真では残せない、伝えられないのがもどかしいのですが、たとえば先ほど写真を貼った「泊まれる演劇」のホテルの各部屋では、それぞれ違った香りがしていました。それぞれの宿泊者が身に纏った香りと共に、記憶に強く残ります。
『Venus of TOKYO』でも、日本の香水ブランド「çanoma(サノマ)」とコラボして、作品世界に深みが与えられていました。
余談ですが私は『Venus of TOKYO』に初めて参加した帰り道、今しがたの体験の衝撃と相まって診察室の香りが好きになりすぎてしまい、「診察室の香り」だと噂されていたçanomaの香水を衝動買いした思い出があります。今でもあの香りを嗅ぐとあの部屋にいるような感覚に襲われます。それほどまでに香りの記憶というのは強いものです。
食べ物や飲み物も、世界の一部として提供されることがあります。
先述の「泊まれる演劇」では、公演ごとに世界観に合わせたオリジナルメニューが作られ、注文することができます。
「深層世界」への没入、「一級品のまどろみ」の提供を掲げるdaisydozeのイマーシブシアター『Anima』では、作中で「薬草師」が振る舞う「薬草酒」を、開場時間中に飲むことができました。これを飲んでから物語に入って行くことで、より深く、まさにまどろむように世界に沈み込んでいく感覚がありました。
ジブリ映画の『千と千尋の神隠し』では、向こう側の世界で消えかけた千尋が、ハクが手渡す「こちらの世界のもの」を食することで、存在として世界に馴染み、実体を保つことができました。
「その世界のものを体内に入れる」という行為には、「世界の一部になる」ためのある種儀式めいた強い効果があるのかもしれません。
イマーシブシアターは、そうした行為さえも自然に含み込んでいるのです。
五感に働きかけてくる世界で、ありえないほど近く、圧倒的な生(ライブ)の時間。
生身で飛び込むことのハードルは、たしかにあると思います。
でもハードルを越えた先に、その勇気に見合うだけの豊穣な世界が待っています。
五感をオープンにして、飛び込んでみることをおすすめしたいです。
【第3層】自分の選択で、自分だけの物語を紡ぎ出す
生身で飛び込みフィクションの世界の一部となったあなたは、今や自由です。
注意事項を守る限りにおいて、この世界の中を自由に動くことができます。
ビデオカメラによって切り取られた演出的な視点がすべてではありませんし、【5列21番】の座席から見える視界だけがすべてではありません。
どの部屋に入るか、どの登場人物を追いかけるか、その人をどの角度から見るか、近くで見るのか、遠くで見るのか。あなた次第です。
視点というのはとっても重要ですよね。決定的に重要、と言ってもいいかもしれません。
たとえば、こちら側から見ると悲しそうに見えるあの人の横顔も、反対側から見たら口元がニヤリと笑っているかもしれません。
あの人の表情をずっと近くで観察していたら、後ろで何か重大な出来事が起こっていることに気が付かないかもしれません。
逆に少し引いて全体を見ていたら、出来事を追いかけることはできますが、あの人の表情の微妙な変化に気が付かないかもしれません。
同じ出来事を見るにしても、この人の視点で見るのとあの人の視点で見るのでは意味合いや感じることが大きく変わってくるかもしれません。
人だけではなく、美術や小道具をじっくり堪能するという手もあります。
上で紹介した写真からも伝わると思いますが、イマーシブシアターの美術は本当に美しく、細部まで見ていたら一回の公演時間が簡単に溶けてしまうでしょう。小道具類も物語に合わせて細部まで作り込まれているので、ゆっくり探索してみるのも楽しみの一つです。
それから、自分で視点を選び取ることができるということは、逆に自分が「見ることのできなかったもの」が確実に存在するということでもあります。
存在するどころか、世界で起きていることの多くは目撃することができない、と考えた方がいいかもしれません。
映画では「大事な」部分をクローズアップして自動的に見せてくれますが(もちろんそれによる良い面もあります)、イマーシブシアターではそういうわけにはいかない。自分で選び取るしかありません。選ぶことは往々にして痛みを伴いますが、その痛みは自分だけのものです。
もちろん見られなかったものを見るために、(諸条件が許せば)同じ公演に複数回参加することもできます。
ただ、仮に同じシーンを見たとしても前の回とは違って見えると思います。それは一回一回で世界を構成する人々やその動きが大きく変わっているからであり、空気や温度感も一定ではないからです。
その意味で、まったく同じもの、というのはその時一度しか見ることができません。これも、見るたびに全く同じものが見られる映画とは違う部分でしょう。
そうやって切り取ったあなただけの光景、その積み重ねが、あなただけの物語を作っていきます。
【第4層】100人いれば、100人分の物語
今度は、自分と同じようにこの世界に飛び込んできた周りの人たちに目を向けてみましょう。
皆、「世界の一部となる」という例の切符を手にしています。
それぞれが「自分だけの物語」を切り取るならば、同じ公演に参加していたはずの他の人との間でも、見た光景、紡いだ物語は大きく違ってきます。まるきり違うと言ってもいいかもしれません。
終演後に誰かと見たものを共有すれば、こんな驚きの声がきっと上がります。
「そんなことが起こってたの!?」
「あの人、そんなことしてたの!?」
「そんな部屋があったの!?」
「だから最後ああ言ってたのか!!」
そうやって自分が切り取った物語を互いに共有するというのも、イマーシブシアターの大きな楽しみの一つです。
ムケイチョウコクや泊まれる演劇のイマーシブシアターでは、終演後に参加者同士が、見たものや感じたことの共有、いわゆる「感想戦」をする時間が設けられています。
そこで初めて会った人でも、その人が何を見たのか、どう感じたのか、自然と気になってきますし、同じ世界の中で生きたその人のことをどこか赤の他人とは思えないような感覚も残るかもしれません。
それはやはり、座席ごとに遮断された別々の現実世界から物語を見るのではなく、ともに世界の一部としてその物語を生きたからこそ生まれる感覚なのではないかと思います。
この感覚は今の分断の社会に何か希望をもたらすものであると、個人的には感じています。
そもそも一人一人見るものが違う、というのは、現実世界では至極当たり前のことです。
さっきのセリフを現実世界に置き換えることは簡単です。
「子どもの頃そんなことがあったの!?」
「○○さん、いつのまに転職してたの!?」
「駅裏にそんないいカフェがあったの!?」
「だからあの日嬉しそうだったのか!!」
そもそも見ているものが違うし、同じものを見ていても、感じることが違う。
視点の違いや、これまで見てきたものによって、世界の切り取り方や意味付けの仕方は大きく変わってきます。
そのどうしようもない違いを想像力でどう補い、どう対話していくかが、現実世界では問われます。
イマーシブシアターは様々な点で、このような現実世界と同じ構造を持った、現実の写し鏡だと言うこともできると思います。
【第5層】裏側のない、すべてが等価な世界
だいぶ深いところまで来ました。
世界に飛び込んで、生と近さに圧倒されながら自分の選択で自分だけの物語を紡いできました。
ところでお気づきでしょうか。先ほどからずっと追っているこの人物、一度も我々の目の前からいなくなっていないということに。
そう、イマーシブシアターには、「舞台袖」や「はける」という概念がありません。
「舞台袖」や「はける」という概念は、現実世界の中に物語世界が作られているからこそ成立するものです。
演者(登場人物)が物語世界(舞台)と現実世界(袖)を出入りすることで、各シーンの構成が作られます。
現実世界がなく物語世界がすべてを占めているイマーシブシアターでは、この出入りが発生し得ません。
公演が続いている限り、出口のない物語世界の中を、演者も参加者も、漂うことしかできません。
するとどうなるかと言うと、スポットの当たっていない時間、カメラに映っていない時間、文章に書かれていない時間のその人の姿を、ずっと追い続けることができる、ということになります。
さっきみんなのいる所ではああ言っていたけれど、あれは本心だったのだろうか……?自室に戻った彼女の表情を見ると、そうはとても思えない。
自室に戻った彼は、1枚の写真をじっと眺めた後、誰かに電話をかけ始めた。電話の相手は、そして写真に写っているのは……?
彼女は一瞬の間に、ある物をポケットに滑り込ませた。みんな向こうで行われている話し合いに気を取られていて気づいていない……
いわゆる「行間」までをも垣間見続けることができれば、点と点に過ぎなかった物語が切れ目のない線で繋がります。それによって浮かび上がる物語、深まる物語があるかもしれません。
人だけではなく、空間的にも裏側はありません。
どんなに暗い部屋の片隅も、意味のなさそうなデッドスペースも、引き出しの中であっても、そこは常に世界の「表側」です。
作品によっては、注意書きのない限り引き出しを開けたり小道具類に触れたりすることが許されている場合もあります。自分は世界の一部であり、その引き出しも小道具も同じ世界の一部だからです。
さっきまで閉まっていた扉が今は開いていて、中に入ったら新しい空間が……というようなことも。なんだかワクワクしませんか。
裏側のない世界が持つ可能性について、もう少し深めてみたいと思います。
先ほど、「意味のなさそうなデッドスペース」という言葉をポロッと使いました。
そのスペースに、本当に意味はないのでしょうか?
しゃがみ込んでよく見たら、そこにあるはずのない何かが落ちているかもしれません。
自分がそこに来る3分前まではそのスペースに何かが置いてあり、登場人物の誰かが持ち去ったのかもしれません。
この家で昨年まで飼われていた猫の、そこはお気に入りのスペースだったかもしれません。
裏側のない、スポットライトのないイマーシブシアターでは、目に映るものすべてに意味があり得ます。
ただし「これにはこういう意味がある」という正解があるわけではありません。
ただそれを目撃したあなたが、あなただけの意味を見出し、与えるのです。それまでに見てきたもの、紡いできた物語がその手助けをしてくれるかもしれません。現実世界であなた自身が経験したことが、その手助けをしてくれるかもしれません。
逆に意味がありそうなものに意味を与えない、ということもあり得ます。
それもすべてあなた次第。あなただからこそ見出せる意味がある。あなただからこそ見出さなくてもいい意味がある。
どんな解釈にも開かれた世界がイマーシブシアターなのです。
【第6層】主人公のいない、究極の群像劇
世界の裏側=舞台袖やフレームアウトがない、スポットライトがない、ということは、自動的に、その世界にいる誰も「主人公」にはなり得ない、ということにつながります。
どんなに一人の人物中心に作られた物語であっても、それぞれの人物がそれぞれずっと舞台に立ち続けます。見る人がいる限り、視線のスポットライトが当たり続けます。その人にはその人の物語が、たしかにあるのです。
強いて言うならば、観客目線では「自分が追いかけた人物、自分が関わりを深めた人物が、自分にとっての主人公」ということになるかもしれません。
ただ忘れてはならないのは、観客自身も世界の一部であるということです。
世界の一部である以上、観客もまた、登場人物であり、主人公です。
観客も含めた一人一人が主人公で、それぞれの時間、それぞれの物語を持っている(特に「出演時間」という意味では、基本的には全員が同じだけの時間=公演時間を生きることができる)。
イマーシブシアターはこの意味で、究極の群像劇と言えると思います。
他にそう言えるのは、現実世界、ただそれだけかもしれません。
群像劇の良さの一つは、自分に近い人や、自分が共感したり好きになったりする人が一人くらいはいるかもしれない、ということだと思います。
主人公がいる作品ではその主人公や主要人物数名のことを好きになれなければ、もしかしたら作品自体を好きになれないかもしれません。
でも群像劇では、一人くらいは好意を抱ける人がいるかもしれません。もちろん登場人物に好意を抱くことがすべてではないですけれども、物語がより「複雑」で「多様」になるというのは少なくとも利点なのではないでしょうか。
一人一人との複数の関係性が濃く描かれることで、一概に「こういう人物」と言いにくくなり、多面性を持った人間が立ち上がってくるという効果もあると思います。
イマーシブシアターは、まさにこういった特徴を持っていると感じます。
先に動画を貼った、カプセルホテルのイマーシブシアター『RANDOM18』は、タイトル通り18人(!)もの登場人物がいて、ホテルの中を動き回っていました。一人一人に物語があって、それが閉鎖された空間の中で度々交錯していく様は美しくさえありました。
ムケイチョウコクの『漂流する万華鏡』では、演者8人に加えて、「客が演じる登場人物」が13人、計21人(!)が古民家の中で生きていました。
「客が演じる」というのは文字通りで、当日最初に一人ずつ役(名前と設定が書かれたハンドアウト)を渡されて、公演中はその人物として演者と様々に関わり合いながら生きることになります。
こちらも一人一人に物語があり(しかし台本は存在せず)、公演中、互いの関係性によって物語がその時限りの方向へ深まりを見せる、いわば1秒ごとの化学反応が大きな魅力でした。
観客自身も主人公の一人、ということのわかりやすい形が、ムケイチョウコクの登場人物チケットであると言えるかもしれません。
【第7層】世界に干渉するということ
第7層まで来ました。ここがいよいよ最後の階層です。
ここまでは半ば影のように、世界の中で動いたり目撃したりしてきました。
しかし世界の一部であるということは、世界から何かを受け取るだけでなく、世界に何かを与えることができる、ということでもあります。
それはたとえば発話によって、行動によって、あるいは目線によって。
■発話
上にも書いたムケイチョウコクのイマーシブシアター、登場人物チケットで参加すると、配役が与えられ、その人物として生きることになります。
その人物として誰かと話せば、自分が発した言葉が誰かに届き、反応が返ってくる。自分の発する言葉が、目の前の人に何らかの感情を生むかもしれない。目の前の人の物語を変えるかもしれない。台本のない言葉のやりとりの中に、そういう重みがあります。
■行動
DAZZLEのイマーシブシアターでは、観客の行動が物語の結末を左右します。それは何かの鍵を開けたり、手がかりを辿って何かを見つけたりと、有り体に言えば「謎解き」なのですが、その設計はしっかりと物語に組み込まれていて、謎解きというよりも物語の一パーツと言った方が近いものです。
そのうちの一つ『百物語』(2022-23)では、観客は公演の後半部分で登場人物たちの「手助け」をして、彼らを導くことになります。後半部分はこの「手助け」の状況によって様々に分岐する物語こそが大きなウエイトを占めていました。
ただの傍観者ではない、その世界に確かに存在している我々が、登場人物の物語に寄り添う中で、「どうにかしたい」と思うほど強い気持ちが生まれる。その時に、「どうにかできるかもしれない」可能性として、そこに開かれているのが「謎を解いて世界に干渉する」という道です。自分の行動によって、物語を書き換えられるかもしれない、その可能性に開かれている世界。
■目線
およそどのイマーシブシアターでも、目線は常に重要な役割を果たします。
目は想像以上に雄弁で、いろいろなことを語りかけてきます。マスクを着用したまま行われたコロナ禍のイマーシブシアターを通して、個人的にもそのことを思い知りました。
そしてそれは演者から観客への一方的なものではなく、観客から演者へのベクトルも含んだ双方向のものでもあります。
【第2層】でも見たように、イマーシブシアターはとても距離が近いです。互いの目尻の皺まで見えるくらい近い。ので、演者と「目が合う」ということが度々起こります。目で語りかけてくる相手に、こちらも目で応える。言葉なき会話をしているように感じることもあります。
普段は他人同士で、何なら直接話したこともなく、声も聞いたことさえないかもしれない相手と、至近距離で目を合わせて、無言でやりとりをする。それだけで心の奥の方に触れられたような気持ちになります。
もっと個人的な感覚を言うと、目が合うだけで、自分という存在が確かに認識されているとわかり、自分を肯定されているような気持ちにもなります。不思議なのですが、心が満たされるのです。
もちろん個人差もあると思いますが、とにかく実際に体験してみてほしいです。
自分がそこにいなければ、目の前の人は自分に目線を合わせないわけですから、これもある意味で「世界に干渉している」と言えると思います。
もちろん自分が相手を見つめ返すことで、相手の存在をこちらが肯定していることになる。相手にもそれがわかる。これも干渉です。
発話や行動のような大きな動きをしなかったとしても、目を合わせるだけで、自分が世界の一部であることを強く実感することになります。
発話や行動や目線を通じて世界に干渉する時、あなたは世界から一人の存在として認識されています。そこでは、今まで「見る」だけの存在だったあなたは「見られる」存在にもなっていて、「見る」と「見られる」がフラットになります。
世界の一部であるあなたは、今や世界から認識され、世界に影響を与えることができる。その時、他の誰でもない「あなただから」世界はこう変わった、他の誰でもない「あなたにこそ」呼びかけている、ということが起こります。
あなただけが見た景色から紡ぎ出されたあなただけの物語は、世界の側からの「あなただから」「あなたにこそ」という呼びかけにも彩られるのです。
「あなただけの」「あなただから」「あなたにこそ」という個別性は、どうしようもなく本名のあなた、生身のあなたと結びついていて、現実世界に戻ってからも胸の奥でじんわりと脈打ち続けるでしょう。
「あなたじゃなくてもいい」「代わりはいくらでもいる」、労働者、母親、客、国民……記号や数字として否応なく消費される現実世界に戻ってからも、あなたという個人に呼びかけ続けるでしょう。
現実世界から離れて飛び込んだはずのフィクションの世界、その深層で、本名の自分に巡り合う。
不思議なようで必然な、イマーシブシアター世界の唯一無二の醍醐味です。
---
長くなりました。
本名のあなたと手を携えて、そろそろ地上に戻ることにしましょう。
おわりに〜どうしてわざわざそんなことを?
「フィクションの世界の一部になる」という切符を手に、イマーシブシアターの魅力を7層に分けて紹介してきました。
フィクションの世界の一部になるとこんなに凄いことが色々起きるよ!という進め方をしてきましたが、そもそもの話として、この前提に対する以下のような疑問もあり得ると思います。
「別に現実世界以外を求めていない」
「現実世界の中で、面白いコンテンツ、美しいものはたくさんある。それだけで十分」
「現実から一時的に逃避したってしょうがない」
なぜわざわざそんなことをするのか。
その問いに対する自分なりの考えを述べることで、まとめにしたいと思います。ここからは個人的な考えや感覚です。
問いに答えるなら、「現実世界をより豊かに生きることができるから」です。
現実世界から逃避して、非日常、非現実の世界へ没入することによるワクワク感や心地良さもたしかにあります。
しかしそれと同時に、現実世界に戻った後、現実をより豊かにハッピーに生きるために、イマーシブシアターの体験が強く影響している実感があります。
たとえば別の世界の自分ではない誰かとして、自分ではない誰かの生き様を文字通り同じ目線で追いかけたり目撃したり手助けしたりすること。
それによって、現実でも、少しであってもそういうふうに生きられる。
表には見えない誰かの「行間」を想像することができる。
少しだけ話が逸れますが、表には見えない誰かの「行間」を想像することに関わるものとして、「トリガー警告」の存在があります。
ムケイチョウコクの『漂流する万華鏡』(2023)において、「トリガー警告シート」というものが公開されました。
「この映像には暴力的な描写が含まれています」というような簡単な警告文はよく見ますが、このトリガー警告シートはもっと内容の濃いものです。
中を見ていただければわかる通り、演者が行う行為(パフォーマンス)のことから演出、ストーリーに関することまで、誰かにとって何らかのトリガーになる可能性のある要素が列挙されています。
ここまで解像度の高いシートが作られるというのは、まさに作り手が一人一人の「行間を想像」しているからこそだと、これを見た時に思いました。
イマーシブシアターはこれまで書いてきたように世界の一部としてゼロ距離で物語を体験することになるため、観客に与える影響が特に強い可能性があります。
ムケイチョウコクの取り組みを嚆矢として、こうした配慮が付帯した状態でイマーシブシアターが文化になっていったらいいな、と一観客ながら思っています。
そうなった時、作品が総体として、誰かの「行間」を想像するということを改めて教えてくれる気がします。
イマーシブシアターを通して改めて教えられること、イマーシブシアターが思い出させてくれることは他にもたくさんあります。
人には体温や息遣いがあったこと、
自分にはたくさんのことを読み取り記憶できる五感があったこと、
自分だけの世界を自分で自由に切り取っていいのだということ、
人はそれぞれ違うものを見て、違うものを感じ、違う物語を紡いでいるのだということ、
すべてに意味を見出してもいいし、見出さなくてもいいのだということ、
世界に決まった主人公はいないのだということ、
世界に干渉して「どうにかできることがあるかもしれない」ということ、
自分は確かに現実という世界の一部であり、代わりはいないのだということ。
冒頭で、イマーシブシアターは人間を救い生かす一つの文化になり得る、と書きました。
この記事全体から、その理由の一端を感じ取ってもらえていたら嬉しいです。
そしてもしできることなら、気になる公演に一度足を運んでみてください!
※
いつでも没入できるという意味で、すぐにおすすめできるのは、東京・白金にて1日3回、月曜以外毎日上演中のDAZZLE常設イマーシブシアター『Unseen you』です。
チケットは当日でも大体取れます。U-25チケットもあります!
この記事でご紹介した各団体は、いずれも基本旧Twitterをフォローしておけば最新の情報が入ってきます。
DAZZLE
ムケイチョウコク
泊まれる演劇
ego:pression
daisydoze
その他、東京イマーシブシアター(@nyanyumeka)さんが管理されている「現在開催中・まもなく開幕のイマーシブシアター」というページも便利です。
自分で書いたものですが、こちらももし参考になれば。
長い記事をここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。
(イマーシブシアターに行っても行かずとも)あなたの現実世界が少しでも満ち足りたものであるよう願っています。