【Venus of TOKYO】エンディングの、それぞれの眼の美しさ。銀河鉄道、噴水広場、ヴィーナス像。【アーカイブ】
※ふせったーに投稿した過去記事を、アーカイブとしてnoteに投稿しています。
BUMP OF CHICKENという自分の人生のお供のように大好きなバンドに、「銀河鉄道」という大好きな曲がある。
見送る人も出迎える人もいない孤独でくたびれた「僕」が、新しい街へ行くために電車に乗る。『銀河鉄道の夜』のように、乗り合わせた人たちを思う。
こういう歌詞がある。
Venus of TOKYOの物語は、究極的にはここに行き着くんじゃないかと思うことが最近多い。
特にエンディングでそう感じる。
昨日3/23(水)のオンライン、監視者はそれぞれの人物の顔に目線を近づけて、どうにかそこに浮かぶ感情を理解しようとしているように見えた。
とりわけエンディングの、少女が林檎をヴィーナス像に置いた後のシーン。一人一人の眼を見ていた。
何か少しでも、動かされるものはあったのだろうか。
前にも書いたけれど、自分はあのシーンでそれぞれの眼を見て、いつも込み上げるものがある。
それは冒頭の「銀河鉄道」で歌われたようなことを想起するからかもしれない。
様々な思惑や欲望を抱えた登場人物たちが集うVOID。オープニングでは、皆が前を向いたまま、それぞれに交錯する。
過去にもそれぞれの物語があって、皆が切符を買ってVOIDという場所に乗り合って、それぞれの荷物の置き場所を必死で守っている。
エンディングでは、黄金の林檎と、感情を取り戻した少女≒ヴィーナスを媒介にして、皆が同じ一点を見つめる。
贋作家が撃たれ、少女の手によって林檎が左腕に収められる時、その視線の集中は頂点に達する。
彼らの眼は、もはや欲望に駆られてはいないように見える。どこか寂しげで、くたびれていて、それでも何かを見届けたい、というような。
ヴィーナスをめぐって交錯し続けた思惑が、それぞれが鞄に詰めて持ち寄って、ヴィーナスの欠けた腕に投影し続けた欲望や夢が、少女というヴィーナスを介して瞬間、同じ地点を眼差す。その時、そこには何かが生まれるような気がする。
それはもしかしたら『銀河鉄道の夜』のいう「ほんとうのみんなのさいわい」みたいなものかもしれないし、もっと具体的なものかもしれないし、抽象的なものかもしれない。
それでもとにかく、あの瞬間にVOIDの中で何かが生まれる。それを毎回強く感じる。
同じようなことを、VOIDから出るタイミングで必ず出会う、ヴィーナスフォート噴水広場のイルミネーションを見ながらも思う。
それぞれに必死で生きてきて生きていて生きてゆく人たちが、たまたまあの時間あの広場に交錯して、みんなで上を見上げる。誰かに送るのか、自分で見返すのか、SNSに上げるのか、誰かのためにスマートフォンをかざす。22年の幕を閉じようとするヴィーナスフォートの噴水広場を媒介にして、瞬間何かが生まれる。
大好きな木曜日を見届けて涙腺が緩みすぎた今日はなんだか、ここでも涙が滲んでしまった。
3/9のツイートで、清岡卓行「ミロのヴィーナス」の「おびただしい夢をはらんでいる無」について書いた。
VOIDという場所が招待客も含めた様々な思惑の交差点として違和感なく機能するのは、実はヴィーナス像が象徴としてその中心に置かれているからなのかもしれないと。
ヴィーナスの腕が欠けているからこそ、そこに投影される「おびただしい夢」。虚無に投影される無限。
まるであの、入口のプレートのように、虚無を覗き込むと無限の色が見える。それはそれぞれが必死で守ってきた荷物の置き場所であり、彼女らのこれからの物語でもある。
飛び交う無限の色が刹那静止して見つめ合うあのエンディングの一瞬は、本当に美しい。
(2022年3月24日投稿 元記事@ふせったー)