理路整然とした魔法
私は大学生だが、ランドセルで登校している。
ランドセルを大人が背負うと、足が長く見える。普通ランドセルを背負っているのは小学生とかの子どもなので、みんなにそのイメージが染みついていて等身が多く見えるのだと思う。ただ、ランドセルを大人が背負う利点は正直それくらいしかなく、ふつうに肩紐が短くて痛いし、重心が高くてたくさん荷物を入れるとふらふらするし、荷物を取り出しにくく、たくさんモノが入るというわけでもないのに重い。機能性はぜんぜんだめである。大学生はパソコンやたくさんの本を持って移動するので、ふつうのリュックのほうがいいと思う。
しかし、それでもランドセルを背負って登校するのは、なぜか。前使ってたリュックがボロボロになって捨てたから、他にパソコンが入るカバンがないのである。ランドセルやカバーを購入したら新しいリュックを買うお金がなくなってしまった。そこそこあほだ。
しかし、もう一つリュックがあったところで、私はランドセルを背負って登校するだろう。ロリータファッションがときに戦闘服と呼ばれるように、私にとってランドセルは、強く賢く美しくなるための理路整然とした魔法なのである。
過度な幼児性や過去への憧憬を文脈に持ってしまう、かわいく不便な箱に、私が今の時間を使うメルロ=ポンティや美学や芸術に関する抽象的でとても難しい本たちと、めっちゃシール貼ったパソコン、あと口紅やピルなどを詰め、背負って生活すること。これはわたしの日々や思考をまるで具象化している。私はそこそこ賢く、難しいことも勉強しているし、自分で何かを作り出したりもするけれど、そのような私は、いまだに私の身体に追い付けない少女のわたしのなかにしか存在しないのだ。
かわいさやキャチーさでパッケージしなければ、その少女の居場所がなくなり、その中にしかない私も、いなくなってしまいそうだと、どこかで思う。ただ、賢く、強くありたいだけなのに、頭悪そうな服や弱そうな服装を好んでしまうのは、少女が私を操るからだろう。少女のわたしを満足させることで、私はきっともっと賢くなり、強くなる。魔法とはそういうことである。
私はこのような自分の構造をランドセルの中に見出しているから、ランドセルが好きだ。好きというか、どうしても気になってしまう。私はランドセルで登校しなければならない、というような気がするのだ。
追伸
ミニストップ付近で「背中にぴったりフィットちゃん♪」と言ってからかってきた筑波大生の男子2名いましたらDMで連絡ください。
謝罪してください。あなた方ってどうせとても陳腐でつまんないので周りにいなくてよかったけど💦💦あんまり知らない人を怒らせない方がいいですよ!
フィットちゃんは今どきない💦
書いたの:にらせかんな