「わたしではないわたし」制作日記2021/01/10
書くことはここから始まる気がする。何か新しい文章を書くたびに、書き足りない気持ちが強くなる。書き尽くすためではなくて、書くことを終わらせないために中途半端に書いている。
ネタが切れるというか、ネタがなくなった時点から始まっているから、「ネタって何だろう」と探している時間も、多分書いている時間なんだろうな。と思う。
明日の自分は書いていると思うか。イエス。
10年後の自分は書いていると思うか。多分、イエス。
30年後、50年後、100年後。多分、多分、イエス。
信じられるのは、明日だけで十分。今日書き尽くせないなら、明日もまたいつか書くことができる。それだけで気休めになる。毎日書き続けるプロジェクトで心が安心するのは、今日完成させなくてもいいこと。いい加減になった代わりに、明日を強く信じられるようになった。そのスタンスで書くと、夜、いい気持ちで眠れるようになった。わたしにとって一番の幸せは、「明日がある」と思って、眠ることができることかもしれない。
わたし自身は終わりがあるのに、わたしは終わらない何かに関わっている気がする。どうしょうもなくある「言葉」。わたしが生まれる前から、ある言葉。いくら書いても、ここにある言葉。切り取ること、切り取って一部分しか取り出せない言葉。全てを手に入れて、わたしのものにはできない言葉。
だから、そこに対話がある。今日はどこを切り取ろう。何も考えていなくても、切り取ってしまうのだから、わたしはわたしに気がつく。紛れもなくわたしが書いてしまったものだと。書き続けることは誰にでもできる。でも、その人の書く文章は、絶対にその人にしか書けないもの。その特別性が、「わたし」というものを形作っているのだと思う。
確固たるものを、世界から切り取って、守り切ることが「わたし」なのではなくて、世界とのそれぞれの接点が「わたし」。だから、ぶつからなければ、話し合わなければ、傷つかなければ、触れなければ、転ばなければ、歩かなければ、わたしも、世界も見えてこない。
書き続けることは、「わたし」を作ることだと思っていた。けれど逆だ。どうしても書き続けようとするならば、「わたし」を緩く、柔らかくしなければいけない。書き続けるために設けた「わたしらしさ」もいつかは捨て去らなければいけない。わたしが、わたしではないものに変わっていくにつれ、気持ちがいいのはなぜだろう。これが自由なのかな、と思ってみる。自由とは、わたしがわたしらしくいることではなく、わたしがわたし自身をも捨て去ることができること。それこそ、自由だ。自由さえ、自由は捨てようとするだろう。
こんなことを考えていたわけではない気がするけど。いや、もはや何を考えてもいいきがするけど。わざわざ、一ヶ月間区切りをつけても最後はどうでもいいないように展開していってしまうのだなあ。としみじみ思っております。
「わたしではないわたし」テーマの言葉に戻ってみる。
毎日、書いている時の感触に戻ってみる。世界とわたしが生まれる前の。書き始める、その瞬間の感覚を。それは、わたしを産んでいるものだけれども、それ以前には多分わたしはいない。朝布団の中でする妄想のように、わたしではあるけど、自分がない感じ。それが醒める瞬間。目が覚める瞬間。そのことを書くのは難しい。
書くということが、もうすでにわたしである視点から語ることならば、書く以前のことを書かないと。それって一体何なのか。と呆然としている。本当によくわからん。
ひたすら書いているだけじゃダメなのはわかっている。でもひたすら書くしか見えてこないもの事実。振り返ったら、こんな悩みも小さいのも事実。しかし、今書いている瞬間は、確かによくわからないと思っているのも事実。今日はわからないのかもなぁ。でも明日になったらわかっているのかもしれない。