わかりかたをかえればわかるかもしれない
わかり方はみんなそれぞれちがう。ここにリンゴがある。ということが「わかる」。そのわかり方はそれぞれである。そんなあたりまえなことであっても。
あるひとは目で見てわかる。あるひとは触ってわかる。あるひとは匂いでわかる。あるひとは、音で。あるひとはあるひとが言った言葉で。
わかることは不思議だ。その不思議にはすぐに立ち入れない。けれど、すくなくとも、わかり方がみんな違っていいのだということは、ちょっと考えたらわかる。
いつの間にか、わかり方の癖をつけてしまっている。
論理で言われないとわからない。体験しないとわからない。みんながやっていないとわからない。そもそも、わかるということがわからない。ただ考えずにやればいいじゃん。
どうしてわかってくれないの。という言葉でけんかになる。自分の中にあるものが、あなたにわかるようなやり方で説明できない。あなたのことがどうしても、自分の中で納得できない。だから、やりようがなくて、仕方なくて、どうしょうもない。「ここにリンゴがある」そんな当たり前なことでさえも、あなたと私でわかり方が違うのだ。
わかり方を変えれば、わかるようになるかもしれない。と希望を抱いてみる。
それは、自分が今までわかってきたやり方をちょっと外すことになる。目でリンゴを見てきたひとは、目を閉じてみなくてはならない。いつもは当たり前だと思っていたことを、今日は初めて見たように、おどおどしなくてはならない。
けれどその暗闇の先に、わかりあえる光があるかもしれない。今まで自分が見てきた世界とは違う世界が広がっているかもしれない。そこに、あなたがいるかもしれない。
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最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!