「伝える」とはどういうことか
悲しいことがあったり、嬉しいことがあったりする。その気持ちを誰かに伝えたいと思う。それは私たちの根っこの部分にある思いで、我慢するのは難しい。何も伝えることができなくなってしまったら、私たちは誰かと一緒にいたとしても、ひとりぼっちだろう。伝え合うことは心にとって、息を吸って吐くことと同じで、その営みが絶えてしまったとたんに心は命を失う。
心、という見えない何かが「ここにある」というためにはどうしても、何か別のものの力を借りなくてはならない。それは言葉だったり、行動だったりする。ちょうど伝えるとは、「人」に「云う」と書く。言葉は、心がここにあることを示すのにこれ以上ない道具なのだろう。
伝えるとはどういうことか。その前に、私たちは伝えなくてはならないと言ってもいいほど、伝えたい思いに晒されている。伝えなくては生きていられない。
「心はここにある」と一人で信じることができたとして、それはどれほどの強さを持つ確信なのだろう。おそらく、しばらくして脆く崩れ去ってしまうはずである。ひとりだけでは心は見えてこない。人と語らい、こうだよね、と確かめ合うことで心が見えてくる。心は自分の体の中にあると感じられるが、こういう面から言えば心は体の外にある何かに頼り切って、そこにあることを認められるものだということもできる。他の人に心を見出せる人は、おそらく自分自身の心についても深い感性をもっている。いっぽう、孤独になればなるほど心が見えなくなり、自分にも他人にも心を見出せなくなる。
確かめ合うことで、心という見えないものが形作られていく。伝え合うことで私たちが求めているのはそうした確信であると思われる。
嬉しいときの嬉しさには、自分の嬉しさを認める安らぎも含まれている。あの、心が弾むような気持ちだけを味わうだけなら、一人でじっとしているだけでもいいし、言葉もいらない。しかし、「うれしい」と言葉にすること、言葉にできるというだけで、自分の嬉しさは、誰かに伝えることができるものになる。そして、その誰かが自分の言葉に頷いてくれると、嬉しくてもいいのだと安心できる。自分の嬉しさをちゃんと自分のものとして、味わえるようになる。
反対に、嬉しいのにそうした安らぎがないときもある。そうしたときは、大抵「うれしい」と言葉にすることが、はばかられるときだったり、うまく嬉しさを表すことができないときだったりする。それだけで、元々抱いていた嬉しさまで消えてしまうことがある。心が弾めばそれでいいのか、と聞かれるとそうではなく、気持ちよく心を弾ませたい思いが私たちの中にある。ただ嬉しくなりたいのではなく、嬉しくなってもいい場所に行きたいと思う。嬉しい気持ちを認めてくれる人たちに囲まれて嬉しくなりたいと思う。
言葉にすることはそれだけでもう、共感することであり、共感されることでもある。自分の心がピタリとはまる言葉を見つけたとき、それは心が誰かに共感できる形を得たときである。また、誰か昔にその言葉を発した気持ちに自分が共感したということである。「うれしい」という言葉を使うことは、誰か別の人が使った「うれしい」という言葉に共感することであり、また他の人にもそれは通じるようになる。
誰かの言葉や表現に、自分が言ったわけではないのに胸がすく。それは自分の気持ちが形になっていることと同じであるからだ。共感されたいとともに、共感したいとも思っている。言った方も誰かの共感を得られるかどうかを確かめるために言っている。
伝えるということを、まじまじと眺めてみると、だんだん慎ましくおとなしい営みに思えてくる。何も、斬新な何かを打ち立てて、誰かを驚かす必要はないのである。また、自分と全く同じ気持ちにさせるようと相手を意のままに操ることでもない。
「この表現がすごい」というが、「すごい」などと言われたその表現はいかほどだろう。それは、表現が自然に受け入れてもらえなかったことの裏返しではないだろうか。「すごい」ものに振り回されてしまうのもなぜだろう。それを受け止める場所を見失っているのだろうか。
日常の伝え合う営みは、大してすごくもないし、感動的ではない。ただ、「そうだよね」と言ってもらえば良い。いや、ただ聞いてもらうだけでもよい。伝えることの元々のところは、そこである。聞いてもらうその人はそのままで、伝える自分もそのままで。
そこに凄さや驚きが必要なのは、日常を超える何かを伝えなくてはならないときだろう。自分も相手も、その場から動かなくては理解できない何かがあるとき、表現の手段として使われる。驚きそのものが目的ではないように思われる。
伝えることを、伝えたい分だけ、と考えると力んでいた肩が軽くなる。相手をどうして欲しいなどと考えすぎる必要はない。自分の心を見つめ、淡々と言葉を当てはめていくだけでよい。