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「考えすぎ」という状態について
考えすぎだと言われて我にかえることがよくある。気がついたら、考えすぎているようだ。
いきなり横道に入るが、なぜ他人が考えすぎているのだとわかるのだろうか。早速具体例をこしらえてみよう。
公園にベンチがある。そこにある人が座っている。
私はその人の隣に腰を下ろした。
その途端に、その人が立ち上がって去っていった。
「もしかしたら何か気を害したかな。」私は、友人にその話を言うと、「考えすぎだよ」と言われた。
なぜ友人は私が考えすぎていると思ったのか。おそらく、私が考えることによってありもしない事実を作り出してしまったからである。私が体験したことは、ベンチに座ったら、隣の人が立ち去ったということだけだ。その人が、気分を害したかどうかまではわからない。
友人は、私が考えていることが私が体験した事実を増幅していることに気がついた。考えが、事実をはみ出してしまっている。これは考えすぎている。
また、わからないことについて考えていることも、「考えすぎ」という言葉を導いただろう。考えてわかることなら、考えすぎということはない。しかし、何も言わずに立ち去った人の心などいくら考えてもわかるはずがない。それを考えてしまっているのは考えすぎている。
その例から、考えるときの二つ基準点が得られる。
一つは、考えたことが事実と離れすぎていないこと。
もう一つは、考えるに値することを考えること。
それが、考えすぎないための条件だ。
個人的に疑問になるのは、考えるに値することとは何かということだ。上記の例では人の心について考えるのは「考えすぎ」であった。しかし、人の心に気を配ることが大切な場面もある。
考えすぎ、という状況は事実と考えていることの解離にある。人について考えたいのなら、人についての事実を知らなくてはならない。
つまり、人の心に気を配るということは、その人が実際にどう思っているのか確認しつつ行うべきだ。そうでないと、自分の考えとその人の気持ちはたちまち解離するだろう。
もし、ベンチに座った人について考えたいのなら、「もしかして気分を害しましたか」と聞くべきだ。しかし、もうそのチャンスはない。だから、後からあれこれ考えるのは考え過ぎになる。
その人の実際を知らずに、あれこれ思いをめぐらせて何かをする。自分は思いやったつもりなのだが、お節介になってしまうことがある。
見ず知らずの人の気持ちを理解して、親切にすることは難しい。人の一般的な事実をよく知らないといけない。
本当に、よく考えてあげたいときはその考えるべき事実をよく知ることだ。たくさんの事実を知れば、考えるべきことは多くある。逆に、考えたくないがために事実から目を背けることもあるのだが。
事実の方から、考えることを要請してくることもある。事実と、考えの関係によってそれが考えに値するかどうかが決まる。
考えるに値すること、とは考える人それぞれに異なる。友人は「考え過ぎだ」と言った、人の気持ちについて、どうしても気になるのならまだ一人で考えてもいい。もう声がかけられないのなら、心理学の本で勉強したっていい。考えてみると、人は考えるために事実に出会おうとするのかもしれない。勉強は、考えるためにするのかもしれない。
つまり、答えがわからないから考えに値しないというのは、間違っている。それは考えすぎかもしれないが、その人が考えているのは考えに値すると思っているからだ。そのような考えすぎの状態は、人を事実と向き合わせる力があるのではないか。
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