Day 10:淡
酔いが回ってきた。
舞の体はコンクリートに打ち付けられたまま動かない。かわりに、世界が回り出す。それでいい。体を投げ出して思う。それでよかった。はじめから、そう音楽が示していたのだ。足音の騒きが、目線のランダムなタイミングが、ネオンが点き、ビルの窓の明かりが消える。電車が重低音を奏でる。笑い声のようなボーカル。
そして沈黙という音。
人が集まるともうそれは、祭りで。人がひしめくこの場所は舞の体も現実も全てを淡く淡く溶かした。
そういえば、阿波踊りについて書いていた。昨日は。
阿保の波。私は阿波の国の踊りについてそう連想する。踊る阿呆にみる阿呆。連なって、町中を練り歩く。誰一人として、酔いを覚ますものはいない。老いも若いも、男も女も、血も目の色も関係ない。下手も上手も、国も信念も、関係ない。踊れば、ただ一つ、「阿保」に帰ってくる。
だから、死んだものと生きているものの境界が揺らぐ盆の日に踊る。そこには、「生きていること」という最も確からしいものさえ、揺らぐ。生きているものは死んだものの世界に想いを馳せ、死んだものは生きているものの世界に現れ、踊る。
「同じリズムでええで。余計なこと考えるな。たんたん、たんたんと足踏んで。気持ちようなってくるで、あとは自然と考える暇もなく踊ってる。気がついたら足が上がっとる。気がついたら、手が踊っとる。気がついたら、心がどこかに……」
淡々……淡淡……。
そういえば、「淡い」も「あわい」と読む。不思議な字。水を表すサンズイに、炎。熱いのか冷たいのか。それに、「あわい」とはものとものが境界線を持たずに同居する場所を指す。意味のあわい。現実のあわい。生と死のあわい。心と心のあわい。
あわい、あわい、あわい。あわい、あわい、あわい、あわい……
「父ちゃんアンタ何しにきとんの?!」
舞は叫ぶ。
「愚問や。踊りに来たに決まってるやろ!」
舞の父が叫ぶと、「連」と呼ばれる踊りのグループも声を上げる。彼らが着ているはっぴには、「津込連」と書かれている。
「津込連の一夜限りの復活や!」母が叫ぶ。女たちが声を上げる。太鼓と鐘の音が、ぞめき出す。音色が混じり合う有機的なリズム。
大人たちが手を振って踊り出す。他の連中も狂ったように踊り出す。見ていた阿呆もついには踊る阿呆になる。先生も手をあげて不器用に踊っている。委員長も踊っている。男子も、体を揺らして笑いながら踊っている。女子も真面目に踊りの型を真似るように踊っている。そして、舞も踊っている。
「なんやあいつらは?!」
「いいからいいから、踊れや!」大通りの真ん中に出て、踊る。観光客も混じってくる。蹴散らすのではなく、絡め取るように。道を通ってはそこにいる人が踊り出す。店の前を通っては、客を引き連れて踊る。わけがわからず突っ立っていれば、わけがわからないまま、踊らせる。
セーラー服も学ランも、スーツもTシャツも、着物も浴衣も、ドレスもワンピースも、メガネも帽子も、下駄もサンダルも草履も、スニーカーも。混じり合う。
ただ、踊る。
祭りの喧騒も、パトカーのサイレンも、怒号も笑い声も、太鼓も鐘も、全てが音楽になる。
ただ、踊る。
夏の風も、夜の闇も、汗の匂いも、鼻水も涙も、血も、髪も。体も。
「踊れや!」
ただ踊ることは、虚無ではない。淡いことは、虚無ではない。意味がないから踊るのではない。意味が生まれる前からもう踊っている。全てが無意味で、無分別で混じり合いながら、決してニヒリズムには陥らない。混沌にも飲み込まれない。ただ、踊っている。ただ、踊っている。
全てが淡く、あわく、底をつくまで淡くなったとき、全てが鮮やかに甦る。
死も生も、夢も現実も、男も女も、今日も明日も、過去も未来も、わたしもあなたも、心も体も、あわい。そのまま、そのまま、あわいのだから。
「踊れや!」
目を開ける。
痛み。温度。喧騒。臭い。絶望。頭痛。目眩。懐かしさ。恋しさ。青さ。まぶしさ。寒い。痛い。だるい。ゆるい。トイレに、行きたい。
その感覚のどれにも応える訳でもなく、舞は目を開けて立ち上がった。アスファルトを踏むスニーカーが、気だるい音を立てる。絡まって口に入った髪を指で掻き出す。酒の匂い。口の中で繁茂する雑菌の臭い。欠伸。目をこすると、目ヤニがぼろりと落ちた。
とりあえず歩いて、スーツを着た黒い人混みに逆らって駅から遠ざかる。車が走る音が聞こえる。足音がそれぞれの勝手なリズムで地面から跳ね返ってくる。とりあえず歩き続けた。何も持たずに。足が行きたいところに。足が疲れたら地面に座って、回復を待った。心が疲れて、どこにも行きたくなくなったら、それを無視してとりあえず歩くと決めた。
看板に駅のアナウンスに、ディスプレイにあふれる文字と言葉。意味をなして体の中に入ってくる言葉。
歩き続け、歩き続けたところに、一枚紙が風に乗って舞の目の前に落ちた。なぜ、彼女の前だったか? それは彼女がこの物語の主人公だからだ。
舞はそれを拾う。
「世界を変えたい奴募集。」
その文字を見て笑う。なぜか、笑いが込み上げてきた。
『踊れや!』
記憶の底から響く叫び。
「……どこやここ。いっぺんツッコんだろ。」
続く。