雲の形なんて覚えていないけれど
ナオさんと出会ったのは、ちょうどメタセコイアが紅葉する頃だった。だから、最初の方の記憶は秋晴れの記憶が多い。ふたりとも晴れを呼び寄せるのか、出かける日はたいてい晴れていた。
自分は晴れ男なのだとだんだん思うようになった。まあ、こういうのは、幸運な体験を積み重ねた結果生まれてきた感覚なんだろう。
幸運といえば、誰かを愛することについても、僕が今まで読んできた物語からすれば困難ばかり感じていた。が、それはドラマの演出だとわかった。愛することはもっと淡々としていて、泣いたり、感動したりといった感情からは切り離されている。
だから僕には言葉もない植物に水をあげるのが、愛の一番わかりやすい形だと思う。植物は雨にも風にもさらされているが、太陽の日差しを受ける日もある。どの瞬間も淡々と呼吸をして動かない。
気分によって変わる僕らの中の軸として持てるのは、ただ呼吸するとか座っているとか、社会から関係のない、意味のないことだけなんじゃないのか。そう思うと身の重みがとれたように、毎日よく眠ることができるような気がする。
まあ、話がそれたが空が晴れたときには、それを自分を祝福する光だと思っても構わないだろうということだ。
僕の思い出では、ナオさんは空が晴れると良かったねぇと笑いながら空を見て、きれいな雲を探す。雲の形がきれいかどうかだなんて、他人と共有できるのか最初は分からなかったが、ナオさんとはよくできた。同じ空を見ていて、同じ雲をきれいだと思うことができるなんて、なんて幸せなんだろう。
雲の形なんて覚えていないけれど、ただ積み重ねた時間が、体に染み付いていくのを覚えている。いくつものナオさんの表情と、いくつものナオさんの複雑な気持ちのゆらぎが、時間をかけることで染み付いている。
そうすると、ナオさんが「きれい」と言ったときに、どれがどういうふうにきれいなのか、なんとなく分かるような気がしてくるのだ。
そもそも心は複雑で分かるなんてものではないのだが、関わっていくうちに複雑なものを複雑なまいきいきとナオさんが表現してくれるのが嬉しいのだ。
空が晴れるのは、たまたま空が晴れるということだ。だから、自分のおかげでもあるし、そのたまたまを作り出したなにか大きなもののおかげであるような気がする。偶然にでも、起こったことは起こったことで、必然になる。それは、本当に不思議なことだ。
ナオさんとハグをすると、そばにいることがわかる。洗剤の匂いとシャンプーの匂いの奥に、ナオさんの匂いがある。体も温かい。息もしている。それが本当のことなのだと、本当に起こってしまったことなのだと、未だに驚いている。