精神のドキュメント
私が、思い浮かべる理想的な文章のあり方はドキュメンタリーのようなものかもしれない。面白い何かを作るのではなく、その時々に文章が捉えるものをそのまま書く。うつるものがそのまま作品である。そんなふうに書けたらいい。それが、楽だからだ。
ありのままの姿を、カメラで写すことは難しい。カメラを向けることで現実が変わってしまう。それと同じで、ありのままの姿を文章が捉えることは難しい。書くことが、特殊な道具と精神状態を求める行為である。だから、ありのままの自分を文章の上に置いて表すことはほとんど不可能だ。
かと言って、私は私生活や個人的な深い出来事を書こうとしない。なぜなら、それは自分に最も近いようでいて遠い存在であるように思えるからだ。自分で体験したことや、自分で思っている自分、つまりアイデンティティをあえて自分で書くこと。それ自体が、自分を歪めてしまっている感じがする。また、自分が一番自分をわかっているという慢心もあって、歪めて飾り付けてしまう。
むしろ、ありのままの姿というものは私から最も遠いところに現れるのではないだろうか。面白いことを書こうとか、毎日頑張って投稿しようとか、何かいいことを書こうとか。それらを全て忘れて書いたところにそれは現れる。
書くことの肉感を私は強く求めている。いかにもこれは書かれたものだ。そして、何の意義も意味もなくただ書かれるために存在しているものだ。そのような感覚を求めている。書くことで何かをするのではなく、ただ書くこと。
精神のドキュメンタリーを作りたい。
台本も、編集も、ナレーションもない。ただ純粋な精神の働きを描き出したい。
毎日書いてしまっている、書こうと頑張ってしまっている私はまだまだ修行が足りない。いくら頑張っても無理かもしれない。
無修正の文章。生身の文章。そこに、生き生きとした言葉がある。と私は思う。言葉が駆動する感覚、心をそのまま動かす感覚が欲しい。
「詩人は言葉を磨く」というが、私は「書くこと」を磨きたい。純粋な書くことを書きたい。だから、忘れるために書いている。