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Day 9:踊る阿呆に見る阿呆

アスファルト。硬い地面に、寝転がっている。冷たい感触が心地よい。視界はぐるぐると回る。体が思うように動かない。……動かそうともしなくなった。

止まった体を軸に、世界が回り出す。

無数の足が周りを回っている。同じような革靴。スニーカー。ハイヒール。ブーツ。猫。カラス。酒の匂い。食べ物が腐った匂い。胃液がせり上がってくる酸っぱい匂い。

光。電気の光。看板の灯は偽物の火。ネオン。呼ぶ声。笑う声。それらは別の世界でのことだ。

そう、舞は思うことにした。

別の世界?

だったらここはなんの世界なんだ?

別の世界がどこかにあると仮定する。ならば、その「別の世界」を見つめるもう一つの世界が必要になる。

円環するのか、それとも、どこまでも上に登っていくのか。それとも、どこまでも下に落ちていくのか。

たとえば小説を書く場合。

「これは小説です」

黙っていても小説自体がそう語る。明確に「これは小説です」と書かなくてもいい。そんなことをしなくても、読者が勝手に小説だと思うだろう。

しかし、小説を書く私はどうなのだろう。

「私は小説を書いている」という文章を、小説の中に書くとどうなのか。いわゆる、メタ的な記述。それは、「書いている私の世界」と、「書かれている小説世界」を同時に存在させるだろうか。それとも、「私は小説を書いている」という文章すらも、小説の世界に飲み込まれてしまうだろうか。反対に、「書かれている小説世界」など、読むものの思い込みに過ぎず、ただ「書いている私の世界」があるだけだろうか。

小説だけの問題ではない。

わたしたちは、「人それぞれ」と言う。わたしにはわたしの世界があり、心があるという。あなたにはあなたの世界があり、心があるという。「わたしがわたしの世界がある」というとき、それはどの地点から語られるのか?

当然、「わたしの世界」からではないのか? しかし、わたしは「わたしの世界」をどこから見下ろしているのか? 

とはいえ、現実の世界に生きているわたしたちが「わたしの世界」を本棚に並んでいる本のように外側から手に取ることは不可能である。

それでも、わたしは「わたしの世界がある」と言う。

それはなぜだろう。

それは、どうにも「わたしの世界」が本当のように思えるからだ。よくわからないけど、本当のように思える。考えてみれば、人生というものも、心というものも、よくわからない。けれど、確かに「本当」のように思える。

「本当のように思う」
この感覚さえあれば、今までの議論を忘れてもいい。

わたしたちはよくわからないのに、この世界を「本当」のように思う。

夢は本当か?

冷静に考えれば、夢はフィクションだ。

しかし、夢の中のわたしは、確かにそれが本当だと思って行動している。

夢は夢を見ているわたしにとっては……「本当」。

フィクションは本当か?

正常な思考を持っているならば、フィクションは嘘だ。

しかし、物語に没入しているときは「これは物語だ」とも考えない。

フィクションもその時のわたしにとっては……「本当」。


ここに、路上に寝転んでいる津込舞がいる。

「ここ」とはどこか? 

それは読者諸兄が各々「本当」だと思うところに設定して頂こうと思う。しかし、今までの記述で物語の世界から引き剥がされてしまった人もいるかもしれない。
この物語は少し変だ。物語の中で、物語について語る物語だ。それは物語なのか? それはわたしにはわからない。

何よりもまず、ここに言葉がある。書くわたしがいる。そして、読むあなたがいる。「本当」を作り出すために必要なのはそれだけである。何が書かれるのか、どんな世界なのか、内容は一切関係がない。その上でここに、もう一度書いてみる。

路上に寝転んでいる津込舞がいる。

売れ残ったチケットを、配り残ったチケットを片手に持って、うつ伏せに寝転んでいる。

手の力は抜けて、目には生気が宿っていない。彼女の視界は地面すれすれに打ち付けられ、アルコールが脳を揺らす。

風が吹いて、チラシを吹き飛ばす。青い紙が地面に撒き散らされる。人々は散らばった紙を踏みつけ、踏み越えて、それぞれの場所に行く。

「ひとそれぞれ」と、「ひと」は言う。

舞が初めて、東京に来たとき。初めてスクランブル交差点の信号の前で立ち止まったとき。初めて、誰かと話したとき。初めて、電車に乗ったとき。初めて、ファストフードで昼食を食べたとき。初めて、コンビニで風邪薬を買ったとき。初めて、自分の部屋を借りたとき。初めて、帰りたいと思ったとき。初めて、お酒を飲んだとき。初めて、大人になったと思ったとき。

その時には、いつも聞こえなかったけれど、「ひとそれぞれ」と言う声があった。

「ひとそれぞれ」なのだから、わたしが売れない芸人をやっていたっていいだろう。ダサい真っ黄色のジャージを着ていてもいいだろう。茶色に髪を染めてもいいだろう。捨てる場所がなかったゴミを道端に捨てていいだろう。下手くそな関西弁で愚痴を吐いてもいいだろう。今度は自分がそのゴミのように、酒を飲んで地面に打ち捨てられていてもいいだろう。「ひとそれぞれ」なのだから、考えなくてもいいのだろう。「ひとそれぞれ」なのだから。

まえにも、こんなことあったなぁ……

ぐるぐると回る視界で、世界で、舞はそう思う。雑踏の音。統制は取れていないけれど、どこかで見た祭りに似ている。

「あたしたちはみな、アホウや」

祖母の声。年中、踊っていた祖母。来る日も来る日も踊っていた。晴れた日は庭で。仲間に誘われれば一緒に夜まで公園で、体育館で。雨の日は廊下で。祖母の家の廊下には、白く床が削れた跡が残っている。

「おばあちゃん。なんでいつも踊ってるの。」

舞はそう聞いたことがある。

「知らんな。アホやから。」

と祖母は笑って答える。

「そうか、おばあちゃんアホなんか。」

「舞、あんたもアホや。見るアホや。」

「あんまりアホって言うとお母さん怒るよ。」

「いいや、母さんもアホや。大アホや。」

「アホ」という言葉が面白くて、舞は大笑いして、喜ぶ。

「じゃあ、お父さんは?」

「父さんもアホや! 大アホや!」

祖母の声が、廊下に響く。雨の日だった。舞は、洗濯カゴの中に入って遊んでいた。今日は乾かんなぁとか言いながら、祖母は舞をカゴの中に入れて揺らして遊んでくれたのだった。

「おじいちゃんは?」

「おじいちゃんは……死んどったけど。大アホや!」

舞は、「大アホや!」と繰り返して、笑う。カゴから飛び出して「大アホや!」と連呼する。

「舞、踊れや。舞ちゅう名前はあたしが付けたんや。どんなアホでも踊れば関係あらへん。むしろ、踊らなにゃ損、言うんや。踊れ。ほら、ほら、手ェあげて。ほら、手ェあげたら足出してな、踵あげて、こう。ほれ、その時に、手もひらって返すのじゃ。そしたら、もう反対の足でおんなじ事してな。で、手を返す。そうそうそうそう。うまいうまいうまい。大アホや! さすが、父ちゃん母ちゃんの血ぃ引いとる大アホや。もう一回やんで、ほら、ほら、ほら、ほら……」

「阿波踊り見学だって。」

田中委員長の指が、修学旅行の最終行程を指さす。

「踊るだけやで。」

高校生の舞は、そう言う。その時の舞は、祭りの喧騒も踊りの高揚も忘れていた。ただ、雨の日に縁側で祖母と練習していたことだけを、覚えていた。

バスを降りて旅館に辿り着き、夕方に祭りの会場に向かう。街の様子は思っていたのと全く違っていた。
その時の阿波の国は踊りの国だった。どこもかしこも、踊る準備をしている。男は提灯や旗を持ってクルクルと回したり、女は色鮮やかな着物に頭に傘を被って足と手の動きを練習していた。その頭の上で振りかざされる手の動きを見ると、舞の指が記憶を探るように、ピクリと動く。

一人や二人ではない。老いも若いも、国も関係なかった。どこにもかしこにも踊ろう踊ろうと足が浮き立っている輩がいる。

先生の先導で、大通りの両脇に設営されたスタジアムの席に座る。階段上に席が何台も並んでいる。

「なんやこれ、野球でも見るんか?」
舞は大通りを見下ろす。

「違うよ。これから阿波踊りなの。カーニバルよ!」

委員長の形容は的を射ていた。スタジアムは人がひしめき合い、席は次々と埋まっていった。

アナウンスが入る。スタジアムの真ん中に市長が何か言うらしい。偉い人も参列しているようだ。開会の合図がなされると、大勢の人が待ちきれないと言うように声を上げた。

そして、踊りが始まる。

不思議な音楽が耳に入ってくる。太鼓と鐘の低い音と高い音が入り混じる独特なリズム。生命が蠢くような有機的なリズム。

男たちが乱舞し、巨大な山車が大通りに入ってくる。声援が起こる。一見、乱舞に思えたそれは、華麗な隊列を組むフォーメーションダンスだった。上から見ると、目を奪われるような鮮やかさで陣形が変化する。

女たちの踊りは、ひたすらに手と足がシンクロして波を作る。祖母が一人で踊っているだけだと思っていた舞は、大人数が同時に踊っている様子を見て、衝撃を受けた。会場全体が、祭りの騒ぎに包まれているようだった。普段ははしゃいでいる男子たちも、ただ打ちのめされて踊りに釘付けになっている。

何千人もの列が、波を打ちながら押し寄せてくる。

あっという間に時間が過ぎた。

(筆者の阿波踊りのパレードを記述する筆力が尽きたゆえ時間が過ぎたことにする。)

パレードが終わると、席を立って一旦クラスで集合する。スタジアム脇には、踊りおわったダンサーたちが群れをなして涼んでいる。

先生が説明する。

「では、これから皆さんも踊ります。」

クラスはパレードの迫力にいまだに打ちのめされているのか、反応は薄い。男子はぶつぶつと文句を言い、女子からは「えー」とブーイングが起こる。

「そう言うと思ったので、阿波踊りの先生を呼んでおります。教えてもらいましょう。」

先生が、誰かを手招きして呼び寄せる。

スタジアム脇の踊り終わった人たちの間から、傘をかぶった女がそろそろと、舞たちのクラスの列の前に歩み出る。ピンク色の着物に、草鞋を履いている。顔は傘に隠れていてよく見えない。

「津込先生です。」

「は?」舞が声を上げる。

「え、ツコミって、副委員長の?」

「そうよ、アタシが……!」

女が突然声をあげる。顔を隠したまま傘を手で押さえて、斜めに立つ。そして、傘を少し上にあげて、片目だけ出す。

「津込あやと申します。娘の舞がお世話になっとりますで。」

「母ちゃんやん! あんた踊れるん?と言うか先生できるん?」

舞は、人前でカッコつける母が恥ずかしくなって、赤面する。

「大丈夫だ。あや先生は伝説の舞子としてこの辺では有名らしい。踊りが盛り上がりすぎて、警察を出動させたことがあるらしい。」

「それ、あかんヤツやん! 踊り過ぎて警察が出動するってどないやねん!」

「では、皆さん踊りますよー!手ェあげてぇ!」

舞のツッコミをよそに、津込母が号令をかける。クラスメイトがそれに従う。最前列の舞が従わないで、ボケッと立っていると、「手ェあげ!コラァ」と足で軽く蹴られた。仕方なく、舞も両手を頭の上に構える。

「手を翻します。ほら、ほら。ほら、ほら。」

まずは、手だけで踊る。ひらひらと右と左を入れ替えて、交互に前に出す。

「で、ステップを踏みます。こう。」

見やすいように体を斜めにして、津込母がステップを踏む。クラスのみんなも、チグハグにそれを真似する。舞はなんとなく祖母に教わった通り動いてみる。

「はい、でぇ、この子みたいに……今度は足と手を同時にやるのや。」

ものすごい腕力で脇を掴まれ、舞は母の隣に引きずり出された。

「踊ってみい。」

「クソババア! やったらあああ!」

舞は羞恥と怒りで顔を赤くしながら、手を翻し足をパタパタしながらクラスのみんなの前で踊る。母は、横から「もっとしっかり踵上げえ」といちゃもんを付けつつ、舞を使って動きを解説する。舞は、俯きながら淡々と踊る。クラスもだんだん動きに慣れてきて、息が揃ってくる。

「そうそう! うまいうまい!」津込母は拍手してレクチャーを終えた。

「では、早速……」先生が言う。「町を練り歩きましょう! あや先生お願いします。」

「まっかせときぃー! カモン!」

津込母が手を振ると、後ろからわらわらと着物を着た男女が踊りながらなだれ込んできた。パレード後の熱がまだ冷めないのか、異常なテンションである。

「では、この人たちについて踊っていきましょう!」
先生がなぜか一番盛り上がっている。

「お母さん、面白い人ね。」と委員長が舞の隣から屈辱的なことを言う。

「マイィィィィィーーーー!」

追い討ちのように、なだれ込んできた男女の中から声がする。父だった。舞は、必死に聞こえないふりをして、委員長に話しかける。

「委員長、踊り楽しいん?」

「うん楽しい……」

「マーーーーーーイーーーー!」

「どんなところが?」

「なんか、踊ってるだけで……」

舞ィィィィィーーーー!

「う、うるせえ!」

振り向くと父が、娘の名前を絶叫しながら手を振っていた。なぜか母同様に踊りの衣装をバッチリと決めていた。

「もしかしてお父さん?」

「……別人や。」

舞は目を背けて、委員長があまり父を見ないように背中で隠す。「アホや」と思った。おばあちゃんが「大アホ」と言ったのは冗談じゃなかったのかも、と今さら思う。
早く終わってくれ……と舞は修学旅行最後の難関の中にあって、祈る。


続く。

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たくみん
最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!