書き重ねる:2020/11/12

散歩に行きたい気分だ。何かを書こうとしているそばからそんなことを思ってしまう。書き始めてしまったから途中で投げ出すのも気持ちが悪い。少なくとも書き終わるまで待ってほしいと自分をなだめる。

さっきまで、書きたいと思っていたのに書き始めようとした時に出た気持ちが「散歩に行きたい」だった。何を書こうかよくわからなかったのである。だから、とりあえず書くことから距離をとって、書けるようになるまで待つ。そんな時によくするのが、散歩に行くことだ。

よく考えたら、もっとおかしい。そもそもこの記事は「書き重ねる」というタイトルの通り、書き重ねることについて説明するということは決まっていたはずなのだ。それなのに、なぜ何を書こうかよくわからなくなってしまったのだろう。

心がそこに向いていなかった。むしろ離れようとした。テーマではなく別のことを書こうとしたのかもしれない。毎日同じことを考えるのは不可能だ。考えようとして、することはできるかもしれないが、放っておいたらきっと別の文章ができたはずだ。もし私が、そのまま散歩に行っていたら、もし散歩から帰ってきてまた書き始めたら、ここに現れている文章と全く違う文章が書かれていただろう。

文章とは、その時々に合わせた唯一無二の形をしている。書く人の考えたこと、その時の気分、季節、健康状態、どんな道具で書いたのか。全てが文章に影響する。むしろ、頭の中で起こっていることはよくわからないので、考え方や思想よりもそうした物理的な影響の方が大きい。

書きたい何かがあればいいが、明確な物を持っていない場合、書き手の周りにあるそうした影響が文章に入り込んでくる。その力がないと書ききれない。言葉の流れに身を任せていれば必ず文章は書ける。流れは淀みのないさらさらとしていることもあるし、ゆっくりと流れ出るもの、氷河のように巨大で動いていないように見えるものもある。いずれは、言葉が出るまで待つしかない。言葉のない真空状態で待つしかない。

言葉が出る前は、散歩などに出かけない方が良い。真空状態が別のものに形を変えてしまうからだ。書きたいとき、書けなくてもやもやしていてもそれを言葉に置き換えるように集中した方がいい。最低でも、「散歩に行きたい」と別の欲望自体も言葉に書き表してしまう。

書きたくなくなったらやめる。そうして書かれたなら、どんな文章でもそれなりに存在価値を持っている。書くことは、表現手段と言うよりも自然現象に近いと思っている。下手な文章や、悪い文章と呼ばれるのは読む側にとって都合が悪いだけで、書いた側からすれば何か理由がある。長くてわかりづらい文章を書いているときは、何かを思い詰めていたり、さらには思ったことをそのまま書き連ねているのに面白くないとか、感情的になりすぎるなど言われることもある。しかし、書いたのならばそれで良いはずだ。思ったことをそのまま書けるなんて、私にとってはむしろうらやましい。

書き重ねることも、根底にはそうした文章の唯一無二の価値が流れている。基本的に書かれた文章は直さない。直す代わりに次の日に新しい物を書く。そうして一つのテーマについて説明を重ねていく。書き続けているうちに、説明などどうでも良くなってきた。もしかしたら、最後までわかりやすいものなんて書けないかもしれない。それよりも、わからないものに向き合った時間がそのまま滲み出てくるような文章であればいい。

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たくみん
最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!