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二重の「書く」

心の中で起こったことを書きたい。いや、心の中で何かが起きている。だからかきたいと思う。純粋な事実だけでは、書くことができないのではないか。

なんでもいいが、電車で誰かに席を譲ったことを書きたいとする。それは、その時に自分の心が動いたからだ。席を譲ったことに対して、何も思わなければ文章が書かれることはないだろう。内容が、淡々とした事実描写だけであっても書かれたからには何か意味があると考えられる。

反対に、心だけが動くこともない。何かが起こって、心がそれに対応するように動く。心だけが先走っているように見える時もあるが、そこには何かしら小さな事実が転がっているはずである。

「意味もなく書く」というようなこともあるが、実はそこには意味がある。わたしは毎日文章を書いている。だから、今日その時々で書く理由が違う。長い目で見ると、「なぜ書くのか」という大きな問いには答えられない。一つ一つの文章に、一つ一つ書かれた意味がある。今日書いている文章だって、昨日書いた文章の影響を受けている。あるいは、noteを読んでくれた人の反応によって書き進めるための指針を得ることもある。

そうした「書く理由」は言葉にできない。体や心で何らかの作用が起こる。それが、わたしが「書く」という行動で反応している。

そこには、二重の「書く」がある。純粋な動作としての「書く」と、内容を考え記述していく「書く」である。

純粋な動作として「書く」のならば、内容はどうだっていい。でたらめで脈絡のない文字列をひたすら打ち込んでもいい。しかし、あまりにも脈絡がないと「反応」はすることができない。でたらめにピアノなどの楽器を演奏してみたことがあることがある人もいるだろう。とにかく音を出すことができるが、すぐにつまらなくなって飽きる。それよりも、リズムやメロディのある音楽を奏でる方が楽しい。それと同じで、上手に物事を受け止め、反応するためには脈絡がないと困る。

それを補完するために、内容がある。話がつながっていくから書き続けられる。書く内容は、心が受け止めた事実にそくしていた方がいいだろう。また、起きた出来事と全く関係のないことを書き進めたい時もある。エッセイの他に、小説や詩のような表現方法もある。それらは、現実の具体的な出来事とかならずしも対応している必要はない。ただ、書き続けることができればいい。

純粋に、心で起こった事実を見つめるためには、内容に囚われすぎてはいけない。自分が考えてもいないようなことを書いてしまうことがある。それは、おそらく内容が持つ力が、自分を運んでくれたのだろう。

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たくみん
最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!