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三猿ベイベー:Day 27
「なんやこのチラシ。」
舞はローテーブルの上に丸めた紙を投げ捨てた。石田は何も言わない。ハルも何も言わない。ボクはゲームをしている。いつもの三猿。いつもの『三猿ベイベー』
文体というものが、文章を特徴付ける何かであるならばいつも通り繰り返そう。ともかく、彼らが「踊る」様子を書くしかない。それをもって、この小説は小説であることを忘れられる。
散らかった事務所は一向に片付けられることはない。いくつものガラクタたちが事務所について深く考えることをやめさせる。壁の色はどうとか、窓の配置はどうとか、見る気がなくなる。事務所の広さという空間感覚も乱れてくる。
「はいはい。」
石田はローテーブルに投げ捨てられたチラシを掴むと、背後のガラクタの山に投げ捨てた。それからドスンと腰を下ろしてソファーに座り直す。座った勢いでサングラスがずれたので、中指でちょいと修正する。
舞は自分だけ立っているのが居心地悪くなってきた。いつもの癖で座ってしまう。そして、いつもの流れでポケットからスマホを取り出して眺めたくなってしまう。本当は長居するつもりはなかったのだが。しかし、石田と向かい合って座っていると何もしないのは耐えられない。目線のやり場に困る。ついに舞はスマホに逃げてしまった。すると、沈黙が円になって4人のくだらない空間が完成する。
静かになるとボクのゲーム機の音が響き出す。ハルは膝の上に手を置いて、座ったまま動かない。今日の格好は、赤い帽子にジーンズのオーバーオールと赤いシャツだ。
彼女以外のファッションはいつもと変わらない。石田はサングラスにスーツ。スーツはヨレヨレだ。会う人に対して失礼というより、スーツに対して失礼な感じがする。ボクは短パンにTシャツ。青いヘッドホン。
舞は黄色いジャージの上下。キャラを作ろうと必死な感じがする。今更引っ込めるわけにもいかないので、このままでいる。芸人事務所に登録するときに、気合を入れて三着買ってしまった。
『平穏』
ハルがPパッドに表示した。
その通り平穏である。彼らを脅かす『小説』という変なプレッシャーはもうない。ただ、退屈な日々を退屈に過ごせばいい。時間が過ぎるのを待てばいい。来るのかどうかわからない依頼人を待って、腹が減ったら食べればいい。
ドアが叩かれた。
「すみません」
聞いたことのある声。ボクがゲームの手を止めて振り返る。
ドアが開くと田中恵が立っていた。スーツ姿のOL。第三話ぐらいで三猿の依頼人として登場したが、結局作品の都合で忘れかけられていた存在である。読者もどうでもいいものとして記憶から外していたに違いない。
しかし、舞たちはその顔を見ると瞬時に記憶が呼び覚まされた。
「どうぞどうぞ」
舞はど真ん中に座っていたソファーを詰めて、石田の正面の席に案内する。
「田中さん、でしたっけ。」
「はい。」
彼女がうなずく。
「おーい!」
またドアの向こうから声がする。
「はあ?」
舞は立ち上がって、ドアを開ける。
光乃が、お茶のお盆を持って立っていた。着物姿を見ると一気に場が華やかになる。
「あんたもっと器用になれや」
「しょうがないでしょ。ドア開けてもらうボケもこれで最後になりそうだし。」
てへっ、と笑うとそのままローテーブルの下から座布団を引き出して座る。急須から茶が注がれ、依頼人の正面に置かれる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
恵はソファーに浅く腰掛け、テーブルの湯呑みに一礼する。光乃はそのまま淡々と自分の分まで茶を入れた。「いただきまーす」と一口飲んで美味しそうに目をつぶる。まるで気分は茶会である。
「で、要はなんなんだよ。」
誰もつっこまないので石田が話の糸口を掴み直す。舞は茶を飲むのに夢中である。
「あ……はい。」
恵も湯呑みを置いてうなずく。何かを飲み込む動作と同時に言葉を選んでいる。舞は隣から彼女の喉が動く様子を見ていた。どうしてだろう、と思う。どうしてこの人はこんなに真剣に言葉を選んでいるのだろう。
舞は真面目に言葉を選んで話すということをしたことがない気がする。口から出まかせにつっこみ、ボケる。それだけでここまで話してきた。だから即興で漫才をすることができたし、言葉を発することに戸惑いは一切なかった。むしろ、言葉に詰まるということは、芸人にとって惨めで情けないことだと思っていた。
舞は憐れみの籠った目で、恵と名乗った女性の表情を見た。しかしその目線は、すぐに彼女の不敵な笑みに跳ね返された。
「わたし、世界を変えたいと思います。」
彼女はスーツのポケットからチラシを一枚出した。丁寧に折り畳まれたそれをローテーブルの上に広げた。どぎつい紫色の背景に『世界を変えたい奴募集。』と大きな文字で書いてある。ただチラシに収まる限り大きく文字を配置しただけで、デザインという概念がまるでない。
「これ、見ました。」
恵はそう言って、周囲の面々を見回した。誰も何も言わない。沈黙がしばらく続く。舞はつっこむところを見失った気がした。誰もつっこまないから空気が張り詰めっぱなしになる。しかし、同時にそのままでもいいと感じていた。
誰も何もいわない。そのことに恵は開き直ったのか、さらに唇をニヤリと上げて笑った。舞はその表情に驚く。
「わたし、上司に復讐します」
「いいぜ。」
石田の答えはあっけなかった。
「もう準備は整っている。」
バイクの轟音と晴天。ビルから反射する音。視界を横切る車。スピードは速いはずなのに、いつしかこの状況に慣れて舞は叫ぶ。
「気持ちいいーーーーーーーッ!」
その声に呼応するように、光乃が右手に力を入れる。バイクが代わりにいななき上げ、加速度が強く体を締め上げる。舞は興奮と共に、光乃の帯にしがみつく。もう声は出せない。
六人の大行軍だった。光乃のバイクの後ろに舞がタンデムで乗る。バイクにはサイドカーをつけ、そこに恵が乗る。三猿はPパッドの飛行形態の上に立ったまま乗る。
地面を蹴り上げるバイクの後ろを、音を立てずにPパッドが追従する。街のものは異様な光景に思わず振り返る。しかし、速度が速過ぎるので、二度見した時にはもういない。
サイドカーに座る田中恵は、もう吹っ切れたのか爽やかな顔で風と景色を味わっている。舞はその横顔を見て、いちいち感心してしまう。いつも駅前で見る、ありきたりな社会人の姿にはどうも見えないのだ。このメンバーに紛れているうちに生き生きしてきたのか、それとも、元から彼女の中にそれがあったのか。どちらかは分からない。
駐車場から出ると、目の前には巨大な塔が立っていた。青い空と溶け込む色の電波塔である。東京のシンボルになっているあの塔である。
「さあ、乗り込むか。」
駐車場に入れる必要がないPパッドに乗っていた石田たちが入り口で待ち構えていた。そもそも、Pパッドを持ち込み可能なのかよく分からないが、そこらへんに置いておくのも危険な気がする。
「乗り込むっちゅうか、観光やけどな。」
舞は頭を掻きながら、はしゃいでいる光乃について行く。
「あれ、全然展望台に行けねえんだけど。」
『たこ焼き食べたい』
「水族館いきたーーい!」
「え、チケットこんなに高いんや!……光乃さん」
「このぐらいなら払えるでしょ!」
「じゃあ、私が。」
「いやいや、恵さんは出さんでええ!」
「じゃあ、俺が。」
「お前、金持ってないやろ!」
「仕方ないなぁ……じゃあ私が払っとくよ。」
「どうぞどうぞ」
「お客様、すみません、これなんですか?」
『Pパッド メガクロスマックス 512TBです。』
「え?」
『スマホです。』
「ちょっとこれは……」
『スマホです。』
「ええ、でも……」
「ええからスマホって言っとるやろ! さあ、入ろ!入ろ!」
「お客様アアアアアアアアッ!」
案の定入り口で一悶着ならず、二つも三つも悶着があったが、無事に展望台にたどり着くことができた。
エレベーターのドアが開くと一面に晴れた空からの光と地上の景色が広がっていた。嘆声が上がる。ガラスの近くに張り付いて景色を眺める人が群がっている。
「もっと、高いところあるみたいやけど、どうする?」
「いや、今日はこれぐらいでいい。パンピーが入れるのはここぐらいまでだからな。」
石田は歩き出す。なんとなく確信を持って歩くその後ろ姿に、全員でついていく。なぜだか、人気のある方角と、そうでない方角があるらしい。空いているところを見つけると石田は立ち止まった。
しばらくそのまま動かず、ポケットに手を入れて何かを眺めた。舞も、普段自分がいる街の知らない景色に息を呑む。高いところにいると、見えるものと同時に見えなくなるものがある。
舞は自分がよく街頭漫才をしている駅前を探した。ビルがたくさん並んでいるところだろうと推測するが、うまく見つけられなかった。その代わりに想像した。今日もあそこに何万人もの人がすれ違っている様子を。
「じゃあ、ここで。」
石田は脇によけて、恵に一番前を譲った。
「上司に復讐。」
「はい。」
恵はゆっくりと歩み寄って、手すりを強く握った。そして、街を見下ろす。そして、息を強く、吸う。
「おおおおおおおらああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアッ!」
その細い体から信じられないほどの絶叫が爆発した。展望台の空気が一瞬にして凍りつく。笑い声が聞こえなくなる。人が黙って、こちらに注目する。
「ク○上司いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!
○ねええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええっ!」
怒鳴り終わると、恵は体を捩って咳き込んだ。舞はそのスーツの後ろ姿を見る。石田は軽く周囲を見回して様子を見る。光乃は黙って恵の背中をさする。
「もう一回。いけるぞ。」石田が言う。
恵は頷く。顔は赤くなり、目には涙が浮かんでいた。口はわなないて、体が怒りで震えていた。そして、もう一回息を深く、深く吸った。
その後、彼らが展望台から追い出されたことはいうまでもない。
(続く)