建設
凍えるような寒さの中で手を重ねながら、「今回お前を沖縄に呼んだのは……」と屋我がぼくに言った。
「一つはお前のためだ。ここで再起しなかったらあとはないと思っていた。もう一つは職人皆のためだ。お前がいると皆心をひとつにしてがんばれる」。以前ぼくが住んでいた小屋にはヒッピーみたいな人が本格的に住まいを立派な家に改良し住んでいた。もう、ぼくには引きこもる場所もない。12月の沖縄の気温は大体16℃くらいだが、風が吹くので体感温度はずっと低い。1200℃でガラスを焚いている窯だけが暖を取る手段だった。屋我は毎晩飲み歩いているので、誰もいない工房で一人になることも多かった。職人の一人は、「ここは出るよ」とよく言っていた。「ほら、いま聞こえた」と幽霊の声が聞こえるのだという。
ぼくは暗闇に向かって、
「山栗! 死ぬのが早すぎるだろ! 沖縄に来たいって言ってたじゃないか! 出てくるなら出てこい。話をしよう!」
と叫んだ。返ってくるのは潮風に吹かれるサトウキビのざわめきだけだった。
人の死とは何だろう?--。いま生きながらえているぼくはいかにしてこの後の生をまっとうすればいいのだろう? 流れる涙を拭いもせずに、ぼくは冬の海風に吹かれていた。何度も書くが、沖縄は島民の4人に1人を戦争で亡くした島だ。同じように、ぼくがうつだとカミングアウトした後、実はぼくもわたしもと、カミングアウトした友だちが多かった。そのうちのけっこうな割合が、この「うつ」という爆撃を受けて亡くなっている。ぼくは沖縄を生きよう、と思った。わずかな滞在期間の内にもすでにたくさんの恩を沖縄から受けていた。「東京の自分」を捨てて「沖縄の魂」を自らに取り込むようにした。
職人の一人がこんなことを言っていたのを思い出した。「オバァはオジィの仏壇に向かってずっとおしゃべりをしているのよ。いまそこにいるように」。死と生を分かつものは何もないのかもしれないと思うようになった。そしていつか聞いた草刈りのオジィの言葉を思い出した。
「海の向こうにあるニライカナイ。死んだ命が帰るところ。生まれ来る命が宿っているところ」
命は彼岸此岸の別なく遍満しているんだ! ぼくは大きなヒミツを見つけた気がした。沖縄に生きるということは、遍満した命の中で生きることだとぼくは感じた。
夜が明けると、また職人たちがやってくる。
「ニラカナさん、新しい工房行かないね?」
と声をかけられた。恥ずかしがり屋の職人だ。彼が新しい工房の工場長になるという。とはいえ、新しい方の工房の職人は全員あわせて3名だけだった。そこにぼくがあてられたわけだ。職人になる気力も根性もないぼくは持ち込んだPCで新しい工房のホームページを作っていた。「ニラカナさんはニラカナさんでいてくれればいいわけさー」と新しい工房の工場長になる彼は言った。ぼくはホームページ制作の手を休め、工房にくるお客さん向けのテーブルやら椅子やらを作っていた。3人のうちの一人は女の子で、東京からホームページをみて就職を決めたという職人さんだった。ぼくはSNSを利用し集客を始めた。
「12月、読谷村に新たな名所が生まれます!」
東シナ海の海を一望でき、夕日がみごとなその景色は、瞬く間に評判を得るようになった。また、屋我と相談し、首都圏の主要TV局宛にロケの誘致を行った。近所の人が覗きに来ることが増えた。山栗さんの死から始まった沖縄生活だったが、毎日工房建設のために汗を流すうち、希望という二字が膨らんできた。
工房で使う何もかもが手作りで、溶解炉もグローリーホールも、徐冷炉も自分たちで作り上げた。またショップも素人ながら作り上げた。ぼくが作った椅子は職人たちに散々笑われたが、「これでこそニラカナさんだよ」と嬉しい言葉をかけてくれた。東京ではキレモノで過ごしていたのが、沖縄では「何もできない人」で通っていた。「何もできない」という前提でいることの快適さはこの上ないものだった。東京で気張って潰れてしまったことを考えると、もっと早くこの立ち位置を知るべきだったとさえ思う。
ガラス工房を立ち上げるためには儀式がある。満潮時に溶解炉に火を入れるのだ。この日はたくさんのガラス工房関係者が集まり、オードブルを囲んで宴会になった。下戸はぼくくらいなもので、酒の飲める人ばかりであった。いよいよ2つ目の工房が立ち上がる。ぼくは一人トイレの中で泣いた。寝たきりのうつの状態から、こんな歓びを感じるところまでこれたことに感謝した。屋我や二人の工場長、職人さんたちに心からありがとう、と言いたかった。そしていよいよ本当に帰れないと思った。立ち上げの楽しみを味わったら、今度は軌道に乗せるまでの楽しみが待っている。東京に残したクルマを沖縄に送るよう手配した。
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