病気は恩人

沖縄に住んで4ヶ月が経った。
沖縄在住の早稲田大学出身者の会や、ぼくが作ったトンボ玉のキャラクター・ニラカナちゃんのコミュニティができ、毎日を楽しく過ごしていた。ニラカナちゃんは、芸能界でも浸透しはじめ、またニラカナちゃんにまつわるハッピーな話題も増えた。

昨年の夏、父は聴力を失った。突発性難聴という病による。原因不明の病気で特効性のある治療法もないといわれている。「耳が聞こえない」ということがどれほどのことなのか、ぼくには想像することができない。東京を離れる直前まで、父のそばで「耳代わり」をしていてさえ、そうだ。

だが、病気や障害を得たときに、失ってしまった、あるいは失うであろうことどもに目を向けるよりも、病んでこそ知った多くの人の親切、人と人としてのつながり、苦境に立っているときだからこそ働く「生きる知恵」など、多くの得てきたものに目を向け、感謝していくべきじゃないだろうか? とぼくは思っている。父は再び耳が聞こえることを目指すと常々メールに書いてよこすけれども、ぼくはその度に、「いまが一番幸せなんだよ。聞こえなくなってこそ得られた多くのことに感謝しよう」と返事を書いている。耳が聞こえないから不幸なのか? といえば、否だと思う。父は家族に愛され、また家族を愛している。静かな、こんな幸せを味わえる晩年を過ごせることそのものがぼくにはとても羨ましいことのように映る。


「病気」というのは、誰かが決めた「病気」という枠に敢えてそれを入れるから「病気」というのであって、それを「幸せの種」といえば、その日からそれは「幸せの種」になる。


特に目に見えない病というのは、周囲の理解を得ることが難しい。それはぼく自身、うんざりするほど経験してきたことでもある。

去年の今頃だったろうか、ある編集者とこんなやりとりをしたことがある。

「ニラカナさん、調子はいかがですか?」
「うん、だんだん良い方にいっているよ」
「は? ニラカナさん、ぼくその台詞、もう何回となく聞いてますよ。本当に治す気あるんですか?」
「はー、治す気あるとかないとか言われてもね、いまの自分を大切に生きていくしかないんだよ。頑張るとかぼく、嫌いだし」
「あー、やっぱり治す気ないんだ。ずっと病気のままでいいんですね?」
ここまで「わからない」人を相手にすると、本当に滅入ってくる。わからないことをわからないと言ってくれる人の方が何百倍もぼくにとっては助かる。一番困る存在は、わからないこと自体をわからず、しかも本人にとっては親切心で、知らず知らずのうちに、ずたずたに人を傷つける人だ。彼もそうだった。
「わからないなら、この件に立ち入らないでくれない? 正直言ってかなり不愉快だ」
「いや、ぼくはニラカナさんの根性を叩きなおそうとしているだけですよ」
「君に何がわかる? 今すぐ出て行け!」
そのときが最後だったけれども、この「温厚なぼく」でも、さすがにキレた。何年かに1回あるかないかの「ニラカナの激怒」を誘った希少な存在である。


そんな経験もあるので、父を取りまく誰かのなかには、本人にとって親切心のようでいて、かなり父の心を傷つけている人がいるかもしれない、ということは想像に難くない。それでもなお、このことに感謝すべきだとぼくは思っている。ぼくの病は父の病の「先遣隊」だったんじゃないか? と思うこともある。ともに「障害を持つもの」として支えあい生きてきた父は「戦友」のようでもある。


その「先遣隊」のぼくはたまたま沖縄が大好きで、その沖縄でもまた屋我とガラス工房の皆との「運命的な出会い」があって、首尾一貫して「出来ようができまいがニラカナはニラカナ」というスタンスで皆が接してきてくれたおかげで、ここまで健康を取り戻してきていると思っている。もし、「病気です!」と手をあげず、東京での生活をつづけていたら、間違いなくぼくは過労死か自殺をしていただろう。そうでなかったとしても、何のために生きているのか? 生きている実感もなく、毎日を過ごしていたに違いない。ぼくにとって沖縄は恩人の国であるし、屋我や工場長、フトシさんは文字通り「命の恩人」だ。ときどき喧嘩をすることもあるけれども、ぼくにはかけがえのない仲間だ。


父からの返事で初めて「沖縄に遊びに行きたい」という言葉があった。家族で暮らせる日が来たらいいなと思っている。

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