ストロベリーフィールド:第十八幕 むかし昔のお話
五歳の誕生日を迎えた日、ハンナは家の中で唯一入ることを許されていなかった部屋、《祈りの間》に入ることを初めて許された。
そしてその部屋が、あまりにも期待外れな普通の部屋だったことに少なからず落胆したことを覚えている。
落胆した理由は、明らかだった。もっと何か謎めいた不思議なものや、魔法の道具、祈りの道具や古文書が山のようにある部屋を想像していたからだ。
その部屋は、二階にあるハンナの部屋と同じような造りで、違うことと言えば、その部屋の窓が全てステンドグラスになっていて、外からは中が覗けないようになっていることくらいだった。
窓の下に長いベンチがひとつと、部屋の真ん中には丸テーブルと椅子が二脚あるだけの殺風景な部屋で、テーブルの横には小さな造り付けの暖炉があり、その暖炉の上には小さな写真立てが置いてあった。
パトラからのお祝いの指輪を貰った誕生日の日に、ハンナはその部屋で自分の母親から大切なお話があると言われ、この部屋に入った。
そして『むかし昔、あるところに……』という言葉から始まる話を聞いた。
今、ハンナの目の前に広がっている映像は、どうやらその時のもののようだ。
あの頃まだ幼かった自分が、指輪を見つめて座っている。自分のはずなのだが、手も足も何もかもが、今の自分と比べるとずいぶん小さく短かい。
ハンナのママは微笑んでいた。小さなハンナは、眠い目をこすりながら一生懸命にその話を聞いている。それは確かに自分なのだけれど、やはり数年前の自分の身体だった。ハンナは混乱した。
……確か、さっきまでニーナの家にいたはずなんだけど。レオの誕生会に行って、ああ、それから気分が悪くなって、パトラに帰るように言われて、急いで家まで戻って……来た。
それから……ママに話を聞いてもらって……。
これは……夢? これは、私?
ハンナはその時に聞いた話を、今でもなんとなく覚えている。その時、とても眠かったことも。
再び目にしたその光景は、うろ覚えではあるが、やはりハンナがあの時見た景色のようだ。
静かに語る母の声に、ハンナは耳を傾けた。
きっと夢を見ているのだろうと、思いながら。
ハンナのママの話は、ゆったりと始まった。
小さな子供に分かるように、少しずつ、穏やかな声で。
「むかし昔、あるところに、ウエストエンドという小さな国がありました。その国の小さな村にひとりの女の子が産まれました。
女の子の家は、昔から、未来を見ることのできる不思議な力を持つ子どもが生まれていて、その村ではユラ神様と呼ばれ、国民からとても大切にされていました。
なぜならその未来の予言、ユラ神様の未来のお話は必ず当たるからです。その女の子も次のユラ神様になると信じられていました。
けれど、甘やかされて育った女の子は、いつまで待ってもユラ神になれませんでした。
そんなある日、ユラ神様は、恐ろしい予言をしたのです。
『遠くない未来に、この村を滅ぼす子供がやって来る。その子は、遠い東の果ての国からやって来るだろう』
気の弱い村人たちは、この予言に震え上がり、それを防げる手立てはないのかと、ユラ神様に尋ねました。
するとユラ神様は、ひとつだけ方法があるといいこう皆に告げました。
『その東の果ての国からやってくる子を、できるだけ早く亡き者にする事。さもなければ、この国はユラ神を失い、世界から消えてなくなるだろう』
戦いとは無縁の穏やかな村人たちは、子供を葬るなんてとても恐ろしくて考えられず、その子を国に入れないようにするためには東との交流を全て止めるしかないと考えました。
そして村の長は、国王の所へ出向き、ユラ神様の予言と、それを防ぐことができる唯一の方法を王に伝えました。
ウエストエンドの国王は、このユラ神様の予言にいつも助けられていたので、この話を聞くとすぐ、東の国からやって来る人を国から残らず追い出すように国民に命じました。
命じられた大人しいウエストエンドの人たちは、決して誰も傷つけたりはせずに、理由も言わず、言われた通りに、ただ無言で彼らを追い返しました。
追い返されたことに腹を立てた東の果ての国の人々は、怒って国に戻り、酷い目にあったと国民に話し、それがとうとう東の国の王の耳にも届くようになりました。
東の国の王は、たかが小さな西の国に入れなくても大して困らないと思っていたのですが、数々の美味しい物や美しい布が、ぴたりと手に入らなくなると次第に焦り始め、品物だけでもウエストエンドから東の国へ送らせようと様々な方法を試しました。
が、もうどうやっても、ウエストエンドの商人に連絡をとることは出来ませんでした。
そして、東の果ての国の王は、何とかしてウエストエンドとのやり取りを復活させようと、力も知恵も知識も勇気もある、戦いに最も秀でていた信頼できる男を、ウエストエンドへ使いとして送るよう命じました。
その男には、『万が一の時に使うように』と瓶に入った《何か》が手渡されていました。その瓶はとても大きな重い箱に入れられ、その上から木箱で覆われていました。
その箱の外側と蓋はモザイク柄で、東の果ての国の紋章が描かれている、それはそれはとても美しい箱でした。
その箱を使いの男に手渡した青白い痩せた男は、薄い唇で微笑み、こう言いました。
『くれぐれも、単なる好奇心でその蓋を開くことの無いように。この箱は、一旦閉じると、次に開くときには瓶の中のモノが流出するようになっているのです。万が一の場合にだけ、その箱を開けばいいのです。まぁ、その時は、あの国もあなたも存在することは出来なくなるでしょうが……。
それがあなたのような、王から遠く低い身分の者に有難くも与えられた任務です』
選ばれた使いの男は、青白い痩せた男から恭しくそれを受けとり、その重さに驚きながらも、万が一の場合などあるわけがないと考えていました。
その使いの男は、最初、不思議な力を持つ人々が住むという西の小さな国の噂など信じていませんでした。
妖力や魔力も、まやかしに過ぎない。自分たちの持つ技術でどうにでもなる。その魔力を操る者を切り捨てればよいだけのこと。戦いの苦手な国民など、少し脅せば、すぐに国王の望むものを差し出すだろう。
と、その男は、わずかなお付きの者たちだけを連れて、意気込んでウエストエンドへ向かいました。
ところが、やはりどうやってもウエストエンドの中には一歩も入ることはできなかったのです。
ウエストエンドの隣の村までは行けるのですが、そこから先は、どこまで行っても広い畑が広がるばかりで、馬車を引き連れて違う道を何度通っても、男が畑をどれほど歩き回っても、また国境の村に戻って来るだけでした。
国境の隣の村人たちは、『あの国は国民もろとも突然消えた、きっと何かの恐ろしい疫病か、呪いを受けたに違いない』と恐れていました。
それを聞いたお付きの者たちは、恐れおののいて、使いの男を置いてさっさと諦めて東の国へと戻ってしまいました。
実際には、ウエストエンドは、強い祈りの魔力で守られていて見えず、中に入れなくされていただけでした。
村に繋がる道は、その不思議な魔力で、ひとつ残らず見えなくなっていたのです。
使いの男は、『あの国は消えた』と言われれば言われるほど、それまであまり興味のなかった国をどうしても再びその目で見てみたくなりました。
ついこの前まであった国が、普通に行き来で来ていたはずの国が、戦争も災も何もないのに消えてしまうなど、考えられないことだったからです。
『本当に何かの魔力が使われたのならば、必ずそれを手伝うものたちがいるはずだ。不思議な力を持つ者たちが精霊を操るという噂がもし事実ならば、その精霊たちを囮にして動かすことができれば、もしかすると、その魔力も封じ込められるかもしれない。
このまま国へ戻るなど、一族の恥だ。もしできなければ最後の手段、この箱を開けるまでだ』
そう考えた使いの男は、一度国境の村を離れて、精霊が住むという噂の東の国との国境にある精霊の谷へと向かいました。
その頃、ユラ神の娘は別の深い山の中で数多くの試練を受けていました。そこは多くの修行者が、様々な国からやって来ていて、皆がそれぞれの不思議な力を精霊から授かろうと集っている場所でした。
ユラ神様は恐ろしい予言の後、娘を一刻も早く次のユラ神にするためにその山に送っていたのです。何年かかるかわからない修行でした。けれどユラ神には、その子が必ずいつか帰ってくるということが分かっていました。
殆どの修行者たちはその山に来て一週間以内に、辛さに耐えられず、『不思議な力など得られない、霊力を得られるなんてまやかしだ』と文句を言いながら山を下りて行きましたが、そんな中でその女の子は、半年近くその山にいて数々の術を身に着けました。その殆どが、精霊たちから授けられたものでした。
けれど、春や夏には沢山手に入れることが出来ていた果物や木の実は、寒い季節がやって来ると、たちまち無くなってしまい、たまに見つけても、その女の子は谷に住むお腹を空かせた生き物たちに食料を分け与えてしまい、自分のことを後回しにしていました。
そのうち高い山に時折冷たい風が吹くようになると、虫たちも凍え始め、食べるものも底をつき、耐えられなくなった女の子は、ユラ神になることを諦め、とうとう山を下りる決心をしました。
山の中を歩き続けた女の子は、真夜中になってようやく麓の丘までたどり着いたのですが、それは女の子の国から反対側の《精霊の谷》でした。
そして山を下りた女の子は、山の麓で、とうとう意識を失って倒れてしまいました。
助けを求めることもできず、力尽きて倒れてしまったその女の子の周りには、すっかりその子と仲良くなっていた精霊たちが心配して飛び続け、何日も女の子を見守り続けました。
術を教えたり、見守ることはできても、人間を運ぶには精霊たちは小さすぎました。それには精霊たちの力を受け継ぐものが必要でした。
女の子といつも一緒に遊んでいた虫たちは、昼には枯葉に貯めた水を運び、蜂たちは蜜を女の子にあげました。山の生き物たちは、夜の寒さから女の子を守るため、沢山の落ち葉を集めて運んできました。
女の子は薄れる意識の中でその様子を枯葉の下から見ていました。けれど、もうどうやっても起き上がる力は出なくなってしまいました。ただ、枯葉の下になってからは、寒さだけはしのげるようになりました。
国に帰って、ユラ神になって、きっと、あなたたちに御礼をするからね……。
女の子は毎日そう思いながら、枯葉の下でどんどんと動けなくなっていき、ついに水を飲む力も失ってしまいました。
そんな女の子の目の前に、精霊たちをなんとかして捕まえてウエストエンドの入り口をその魔力でこじ開けようと考えている、東の国の使いの男がやって来たのです。
特別に用意された新種の牛馬に乗り、奇妙な形の時計を身につけ、背中に大きな箱を背負った男は、深い谷へと辿り着きました。
そして男は見事なピンク色に染まった広大な丘に辿り着き、初めて見たピンク色のパンパスグラスの大草原に感嘆の声をあげました。
牛馬を降りて下を見下ろし、強い風が吹きつけてくる方角に男が目をやると、丘を下って途切れるところ、森との境が谷になっていて一か所に固まっている場所に何かが無数に飛んでいる姿が目に留まりました。
男は奇妙な形の腕時計から丸い蓋の部品を立ち上げると、それを目の前に水平に掲げました。
その部品を通して男が見たものは、とても小さな見たことのない生き物が飛んでいる姿でした。男が手首を少し揺らすと、焦点が代わり、その姿は更に拡大されて見えました。
人の背中に羽が生えたように見えますが、蝶々のようにも見えるその生き物の大きさは、どうやら男の手のひらよりも小さいもののようでした。
男が目の前に掲げていた腕時計の丸い部品には、その生き物の種別と大きさが、男の国の言語で書かれていました。
《分類 : 前期精霊亜種の可能性あり、種別 : タイプB 、 絶滅危惧種II-z1、国内未確認、危険度不明、未分析、捕獲最重要対象α…》
ピンク色に染まる丘に来たのも、精霊を見たのも使いの男には初めてのことでした。
男が思っていたよりもずっと小さい精霊たちは、四枚の羽根で不規則に飛び回っています。
自分が精霊たちに招き入れられたことに気づいてはいない男は、これが精霊なのか?と、あまりに簡単に見つけられた事に、有頂天になりました。
精霊を目にすることができるもの、精霊の力で結界が張り巡らされた山に入って来られるものは、限られています。
《魔力があるもの》か、《魔力があるものに導かれたもの》の、どちらかだけです。
男は急いでその側まで駆け寄り、腕時計の脇から今度は細いピンを抜くと、それを一振りしました。ピンは見る間に長さを男の身体の半分の長さまで伸ばすと、目に見えないほどの蜘蛛の糸のような細い糸でできた網に姿を変えました。
男はその網を四方八方へとやたらめったらと振り回したのですが、全く精霊を捕まえることなど出来ません。
自らに腹を立てた男は、今度はその奇妙な形の腕時計を先程と同じように目の前に水平に構えて焦点を合わせ狙いをつけると、拳を一瞬、軽く握りました。すると精霊に向かって一発、腕時計の反対側から何かが発射されました。
時計の丸い表示板には、目標に誘導するように引かれた赤い色の軌道が示され、それを追うように精霊に向かって発射された物体は進むのですが、何故か途中でその方向を変えてしまいます。
想像以上の速さで飛び回る精霊を捕らえることなど無理なのかと、男は焦りました。
何かに追いかけられ、驚いた精霊たちは、あっという間に飛び去ってしまったのですが、普通ならそれでいなくなりそうな精霊たちは、また舞い戻り、枯葉の山の上で、再びぐるぐると回り始めるのです。
男の腕時計から発射されたものは小さな針で、毛虫の毛ほどの小さなものでした。そしてその全てが男の意思通りに動くのです。
その先端には、どんな強い動物も倒せるほどの麻酔が塗ってありました。
ほんの少しかすればいいだけだと、男は自分に言い聞かせ、心を落ち着けて再び狙いを定め、拳をゆっくり動かして再びそれを撃ちました。
が、やはり今度も精霊には当たらず、枯葉の山に麻酔の針は沈んで消えました。
そして男が何故か再び舞い戻ってきた精霊に再び狙いをつけた時、枯葉の山が微かに動いたのです。
男はぎくりとして動きを止めました。
野獣か? 精霊を操るものか?
男は神経を集中させて、うごめいている枯葉の山にめがけてもう一発、麻酔銃を発射しました。
すると、うごめいていた枯葉の山は、完全に沈んで動かなくなりました。
精霊たちは、逃げるようにそこから天高く昇って行ったのですが、遠く離れる気配はありません。
それを見た男は、一体どんな動物が潜んでいたのか、それこそが精霊を操っていたものだろうと思い、恐る恐る近づいて枯葉の山を網で払いのけたのです。
そして男は、その山のような枯葉の下から出て来たものを見て息を呑み、震えながら後ずさりしました。そこにいたのは、見事なブルーに光る長い髪を持った、まだ幼い、痩せ細った女の子だったからです。
自分がしてしまったことに慄いた男は、息もせずぐったりしている女の子を抱きかかえ、とにかく何とかしなければ、と焦りました。
こんなところに子供が? 道に迷ったのか?
いや、今、そんなことはどうでもいい。
ああ、どうすればいいんだ。
あの針は動かない標的を捉えたら最後、必ずそこに到達する。少なくとも二発は命中している。
この子を死なせてしまうかもしれない……。
男は女の子を抱き上げ、持っていた水筒から水を飲ませようとしたのですが、力尽きていた女の子は、それを飲むこともできませんでした。
万が一、麻酔で落ちてしまっている喉に水を入れれば、肺に入ってしまうかもしれない。
そうなれば、女の子は助からない。
男は、自分が麻酔銃を撃ったそのずっと前から、すでに女の子が瀕死の状態であったことなど全く知らなかったので、すべてが自分の責任だと思い込みました。
実際、麻酔銃の針は、女の子には当たってなどいなかったのです。女の子を心配して飛び回る精霊たちが、魔力で麻酔銃の針の方向を変えていたからです。
そんなことも知らない男は、空を見上げ、空高く飛んでいる精霊たちに懇願しました。
『頼む。この子を何とかしてくれ。私のせいで死んでしまうかもしれない。だから、どうか、私の自分勝手な過ちを許してくれないか。
君たちには不思議な力があるのだろう?
今はそれを信じたい。
君たちを傷つけるつもりはなかった。どうしても、ウエストエンドに行きたかっただけなんだ。君たちと一緒ならきっと道が見つかるなどと思って、馬鹿なことをした愚かな私をどうか許してくれ。この子には、罪はないはずだ。すべて私の罪だ。君たちにしたことも、この子にしたことも、生涯をかけて償おう』
女の子の頭上のはるか高いところで渦を巻いて飛んでいた精霊たちは、男の言葉を聞き終えると、何かひそひそ話を始めてから、一斉にどこかへ消えてしまいました。
男は、『許してなどくれるはずはないのだ、浅はかな欲と見栄と自尊心のために、関係のない子を死なせてしまった』と、後悔してもしきれない思いで女の子を抱え呆然としていたのですが、しばらくすると精霊たちが列になって舞い戻ってきました。
それと同時に、暖かい風が男の頭上から吹き込み始めたのです。男は凍える女の子に上着をかけていたのですが、シャツ一枚になってもまだ暑いと思えるような熱気を感じ始めました。
精霊たちは一列になって、草の茎を運んでいました。そして、男の腕の中で後ろにがくりと落ちていた少女の頭のところまで飛んできて、その長い草の茎を女の子の口に入れ始めました。女の子の少し開いた口の唇の端には羽が紅色と赤紫色の2色に分かれた蝶蝶がすっとやってきて止まり、その触覚で、《もうちょっと右、少し左》と、指図をしているように見えます。
そうやっているうちに、その長い茎は少しずつ、女の子の喉の奥へと入っていき、その上に黄色いテントウムシたちが枯葉で作ったじょうろのような形のものを運んできました。
男は、暑いとも思えるほどの日差しの中で、見慣れない種類の違う虫達が意思疎通するかのように動く姿を呆気にとられ見ていました。
やがて茎を無事に女の子の喉の奥に入れ終わった精霊たちは、今度はその男の腰にぶら下がった水筒カプセルと胸ポケットをつつき始めました。
男は、ああと小さな声を上げ、慌てて水筒カプセルにあった水をその枯葉のじょうろにほんの少し入れました。更に胸ポケットに入れていた、東の国の薬も一滴、その中に混ぜたのです。
精霊たちも、虫たちも、輪になってじっと女の子の顔の上をくるくると回って離れません。男は、吹き出す汗を拭いながら、祈るような気持ちで、水と薬を枯葉のじょうろに少しずつ入れていきます。
けれど小さな枯葉のじょうろが空になっても、女の子は、ピクリとも動きませんでした。
腕の中でぐったりした女の子の顔を見つめながら、やはりもう駄目かと男が諦めかけた時、色の異なる七色の蝶がひらひらと大挙して頭上から降りてきて、一斉に男の目の前で輪になって繋がり回り始めました。
七色の蝶たちは、それぞれの色ごとに列を作ると再び頭上高く昇って行き、鮮やかな色の大きな円形の虹を作ったのです。
呆気にとられていた男の視線の先、天高いところの蝶の虹のはるか向こうに白っぽい光が鋭く細く走りました。その光はジグザグに進んでいるようです。
その光が動くたび、強烈な熱波が男の周りに届くようでした。そして、自分たちの周りだけに強い光がさしていることに男はようやく気づきました。
精霊も虫たちも、その光の輪の中にいるのです。
男は女の子を仰向けのまま抱きかかえ、山道を走ろうとしたのですが、けれど背負っていた大きな重い木箱と女の子の両方を抱えては走る事が出来ませんでした。
男はしばらく考えた後、目の前に見えるピンクのパンパスグラスのひと株を、手袋をボロボロにしながら力任せに引き抜いて穴を掘り、背負っていた箱をねじ込みました。
そうしてその上に土を被せ、持っていた網を再び棒状に変えるとそれを地面に突き刺し、深い緑色のスカーフを目印に結んだのです。それを取り戻しに来る為の目印として。
それから男は、木箱を結んでいた紐を女の子の身体に結びなおし、動かない女の子を抱え、止めていた馬に向かって丘を駆けあがりました。
すると男の腕の中で揺れていた女の子は、口に入れた枯葉が落ちた途端に、咳き込みながら突然に目を覚ましたのです。
長い草を喉から吐き出そうと、つらそうな咳を何度も繰り返している息を吹き返した女の子に男は驚き立ち止まりました。その命が助かったことに心から安堵し、女の子を背中から降ろして胸に抱えました。
男が膝をついて女の子の顔を覗き込むと、美しい青い瞳が遠い空を見つめていました。
「大丈夫……かい?」
男が尋ねると、女の子は空を見上げたまま異国の短い言葉を発しました。
「え……?」
男は聞き返したのですが、女の子は、男に視線を移すと、力なく少しだけ微笑みました。
何故ならその男は、頭の上に可愛い虫たちを沢山載せて居たからです。
笑顔のまま再び気を失ってしまった女の子を抱え、男は大急ぎで女の子を担いで再び走り、牛馬の背に乗せ、いくつかの村を走り抜け、船で海のような大きさの川を超え、そうして数日のうちに東の果ての国へと渡りました。
不思議なことに、スポットライトのような暑い光は、その川を越えるまで、雲の隙間から差し込み続けていました。
その後、男はその女の子が健康を取り戻すまで、懸命に介抱を続け、女の子に文字や言葉を教えました。そうしてその数年後には男は成長したその女の子と結婚することになりました。それは精霊たちとの約束でもあったのです。
……と、ここまでが、少し前の昔のお話。
ああ、もうこんな時間。百年前の戦いのお話は、また別の日にね」
ハンナがこれまで聞いたことのあった昔話の終わりは、必ず、《こうして、みんな末永く幸せに暮らしましたとさ》という文章で、締めくくられていたが、最後までその文章が聞こえてくることは無かった。
小さなハンナがぼんやりした眼差しで、母親に尋ねる。
「ママぁ、あの……その女の子、って……」
「そうね、ハンナが思っている通りよ」
ハンナのママは、小さなハンナの目を覗き込むように見つめた。
「あなたはね、ウエストエンドの預言者の血と、グリーングラスの王家の血を受け継いだの。
そんなあなたを、この国の精霊たちが受け入れ、今日、その指輪を与えてくれた。
もう、国々を旅するのはやめましょう。ハンナ、ここの人にできるだけその耳を見せないようにね。可哀そうだけれど」
ハンナのママは立ち上がり、暖炉の上にあった小さな写真を手に取った。
「もう少し大人になってから話そうと思っていたのだけれど。今のお話の大半は、ママがパパから聞いたお話。パパの顔、見たことなかったよね」
小さなハンナの目の前に差し出された写真には、肩に幾つもの勲章を付けて長いローブを肩からかけた体格のいい男性が、赤ちゃんを抱いた若い女性と一緒に写っている。
若い女性の顔は、明らかにハンナの母親だった。その写真に写っている姿は今よりもかなり若くふっくらとしていて、異国の綺麗な緑色のドレスを身にまとっている。ふたりとも、いや三人とも、何の悩みもないような顔をしていて、とても幸せそうだ。
「これが、ハンナよ」
ハンナのママが指さした赤ちゃんは、パパと呼ばれだ男性を見つめていて、その腕を伸ばして微笑んでいる。男性の顔は、今のハンナに似ていた。
いや、実際は、ハンナがパパと呼ばれた男性に似ているのだ。
ふたりがハンナを見つめて笑っている、自然な姿の写真だったが、ハンナはその赤ちゃんの耳の形を見て驚き、動きを止めた。
自分がそこに映っているのだから当たり前の話なのだが、自分が一番コンプレックスに感じている耳、いつも髪で隠しているその耳の形は、赤ちゃんの頃からずっとその形だったのだ。
そして、写真に写っているパパと呼ばれた男性も、また同じ形の耳をしていた。耳の上部だけが少し前に垂れ下がっている。
ハンナの耳は、ハンナの母親や友達が誰も聞くことのできない遥か彼方の音まで聞くことができた。
その時だけ、この耳の上部は必ず立ち上がる。
ずっと立ち上がったままでいれば、妖精やニンフたちのようでかっこいいのに、失敗作の変な耳だとハンナは思っている。
そして、この耳の後ろ側の部分は水中に入ると大きく開き、水中で呼吸ができるようになる。
花の谷に来るまでの国々で、幼かったハンナが、うっかりそのエラの部分を見せてしまった時、人々は、それを見て口々に『気持ち悪い』と言った。
この国に来てから、ハンナはそれを気にしてずっと耳を長い髪や帽子で隠している。というよりも、恐らくこの時に母親から聞いた言葉が、しっかりと脳裏に焼き付けられていたのだろう。
ハンナのママは、動かないで固まったまま写真を見つめている小さなハンナの手から写真を取り上げると暖炉の上に戻し、ポットとティーカップをトレーに置いた。小さなハンナもそれに続いて立ち上がった。
足元をふらつかせながら立ち上がったハンナは、何かが心の中で引っかかっていることに気が付いた。五歳の時、訳も分からず聞いていた話は、まだ分からないところはあるものの、今のハンナには以前よりも深く理解できていた。
グリーングラスの王家?……って言った?
ハンナのママは、もう部屋を出ていて鍵をかけようとしている。幼いハンナは後を追うように慌てて部屋の外に出た。
この小さなハンナの身体は、ハンナが自分で思っている以上に小さくて、なかなか前に進まない。
話の中の精霊の谷は、今も山の中腹にあると言われているあの場所に違いない。そこにたどり着けたという人には、今まで会ったこと無いけれど。北には行ってはいけないってパトラは言ってた。
もっとお話聞きたかったな。
あれ、なんだか急に眠気がして、目が開けていられない……。自分が……ふたり、いるみたい。
やっぱり、これは、夢、なのかな……。
奇妙な感覚が、再び心と身体に広がっていくのを感じたと同時に、ハンナは完全に意識を失った。
(第十九幕へつづく)
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