【ストップ!選択的夫婦別姓】子供からの視点 ―「親子別姓」という問題/池谷和子(長崎大学准教授)【「日本の息吹」令和6年11月号掲載】
「夫婦別姓」は必ず「親子別姓」、時には「兄弟別姓」に
「夫婦別姓」という主張がなされるようになって久しいが、一部の働く女性が不便だからという視点ばかりで、子供からの視点が全くないのは、とても残念である。何故なら、「夫婦別姓」は必ず「親子別姓」、時には「兄弟別姓」にもなってしまうからである。「夫婦別姓」「親子別姓」「兄弟別姓」として親子や兄弟の絆が一目で分からなくなることは、「婚姻している夫婦か」「実の親子か」「実の兄弟か」ということが、姓によっては識別が不可能となり、学校、地域活動等、すべてに渡って、実は家族ですという何らかの証明をしなければならず、さまざまな場面で、トラブルを誘発しやすくなる。
「姓」は「単なる個人の呼称」か「共同体としてのチーム名」か
夫婦別姓賛成派は「婚姻の当事者は夫婦自身なので、夫婦の希望通りに」と考える。結婚も離婚も、民法上は婚姻当事者の自由であるから、「姓が違うくらい、大したことはない」というのであろう。しかし、「姓とはいかなるものなのか」「家族であっても姓が異なる場合、子供達にどのような影響をもたらすのか」ということを、今、しっかりと考えていくべき時に来ている。「夫婦別姓」という考え方をさらに深く突き詰めて行けば、「家族は個人の単なる集合体」と捉えていることとなるが、この家族の構成員の個々の権利や自由を絶対視し過ぎることが、実は大きな問題を生じさせてしまうからである。
夫婦別姓を主張する人々は、「姓は名と組み合わせての単なる個人の呼称」と捉えている節がある。しかし、民法第七百五十条は「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。」としており、「夫か妻」の姓を選べるだけで、「夫や妻」の姓に全く関係ない、好きな姓を付けることが出来るわけではない。そして、戸籍においても、夫婦と未婚の子から編纂されており、家族が同一の氏となっている以上、姓は単なる個人の呼称ではなく、夫婦と未婚の子を対象とした家族としての呼称である。その上で、家族とは何かということから考えると、家族とは「夫婦の間の助け合い」「子供を育てること」を根本とした生活共同体であって、そこに属するメンバーに共通の姓を設けることは、共同体としてのチーム名であり、団体としての性格を強固にするものなのである。
平成27年最高裁大法廷判決の多数意見においても、「家族は社会の自然かつ基礎的な集団単位として捉えられ、その呼称を1つに定めることには合理性が認められ」るとし、夫婦が同一の氏を称することは「1つの集団を構成する一員」であることを、対外的に公示し、「識別する機能」があり、「子の立場として、いずれの親とも等しく氏を同じくすることによる利益を享受しやすい」としている。
家庭こそが子供の健全な成長の基盤
結婚の当事者は、確かに夫婦のみである。しかし婚姻後に成立する家庭では、夫婦がお互いに助け合うのみならず、多くの夫婦はその後に子供が生まれ、両親の下で社会の常識から様々な価値観、他人を思いやることの重要性まで、学び成長していく場でもある。子供にとっては夫婦のように自ら望んでその家庭に生まれてくる訳ではないがゆえに、未成熟の子が一人前の社会人として巣立っていくまでの間、「子供にとって」良い環境は必要不可欠である。
家庭こそが次世代の人材を育てるのに最も適した場所であり、それは単に衣食住の提供に留まらない。子供は家庭を基盤としながら、精神的にも大人へと成長していく存在であり、子供時代には家庭がしっかりと支えてあげることこそ、成熟した大人へと健全育成を遂げていくことになるのである。子供にとって何より重要なのは、共に生活する中で精神的な成長を促してくれる家族の存在である。こればかりは、国や法律が簡単に代替することが出来ない事柄でもある。
「家族の一体性」こそ「子供の利益(法益)」である
子供が成長する家族において、大切な鍵概念として「家族の一体性」というものがある。子供にとって、父親も母親も同じ位大切な存在であるが、父親と母親は一体でなければならないのである。子供は親の離婚や再婚でさえ、心理的なダメージを受ける。そして、「家族の一体性」とは、家庭には法の概念(権利、自由)や損得勘定を持ち込むべきではなく、家族を単なる個人の集まりと捉えるべきではないことも示している。父親が稼いだお金を家族が生活費として使う事は、父親の財産権の侵害だという感覚があるだろうか。また母親が子供を産むことは母親にとって犠牲なのだろうか。家族の一体性よりも構成員一人一人の自由や権利を重視しすぎることは、個人の自由が優先される代わりに、支え合いが弱くなり、結果として家族がバラバラ
になりやすくなるのである。そのときに不利益を被るのは、家族(特に両親)からの支えが必要な子供達なのである。
それゆえ、個人主義、自由主に合致しているかのような夫婦別姓は、残念ながら意図せずに家庭崩壊を促進させ、ひいては多くの子供達への不利益へと繋がってしまう。論点は「女性の自由(便利さ)」だけではない。反対側の法益として「子供の利益」(家族の一体性)があるのである。
「家族」は単なる「個人の集団」ではない
婚姻制度の定義や存在意義について、子供の観点から検討されてきた論文は日本ではあまり見受けられないが、アメリカにおいては同性婚に関連して次のように2つの考え方として整理されている。(1)「個人の自由」を推し進め、家族を単なる「個人の集団」と見る人々は、婚姻を「本質的には自らの幸福のためになされる私的で親密で情緒的な関係であり、カップル自身によって、カップル自身の為になされるものである」とする。
この考え方は家族というグループは一時的な物であり、家族という共同体よりも、構成する個人の権利や自由に重きを置く考え方である。夫婦別姓についても、この考え方に近い。しかしそれだと、婚姻当事者がお互いへの思いが覚めれば、それは当然に離婚となり、壊れやすい家族という側面も存する。
それに対し、(2)婚姻当事者ではないけれども、後に家族の構成員となる子供の存在を重視し、「結婚とは子供や社会の利益の為に、カップルによる性行為、出産、子育てが責任をもってなされるように社会が承認する制度として存在してきた」と婚姻制度を捉えている人々も存在する。
その中で、ブリガムヤング大学のリン・ワードル教授は、「婚姻は男女に特有の結合体であり、①安全な性的関係、②責任ある出産、③最善の子育て、④健全な人間関係の発達、⑤妻や母という役割の保護をしつつ、長期的な家族としての関係を保っていく為のものである」と定義している。
世代間の継続 ―子供を中心においた家族の呼称としての名字
ワードル教授の述べる長期的な家族としての関係には、実は世代間の継続も関係している。
日本においても、平成29年度に実施された内閣府の調査において、家族と名字(姓)に対する意識調査が実施されたが、「(ア)他の人と区別して自分を表す名称の一部」と答えた者の割合が13.4%、「(イ)先祖から受け継がれてきた名称」と答えた者の割合が43.3%、「(ウ)夫婦を中心にした家族の名称」と答えた者の割合が13.6%となっている。(イ)(ウ)を含む回答を合わせると84.8%となり、一般の人々の多くは、名字を単なる個人の呼称ではなく家族全体を包む呼称であり先祖から受け継いできたものとして尊重すべきと捉えている。この感覚は、大変重要ではないか。
国家や社会は子供達の養育と監護を家庭に委ねている以上、子供達が子供時代を過ごす家庭を居心地の良い物にする責任がある。その為には、家族について子供を中心とした1つの共同体のようなものと捉える制度が必要であり、親子同姓、兄弟同姓として、子供にとって名字は「先祖から受け継がれてきた名称」であるとともに「両親や兄弟たち」とも一緒の名字ということが自然であり、子供の利益を中心においた制度としては正しい結論なのではないだろうか。
子供の名字で揉める原因となる夫婦別姓の深刻な悪影響
夫婦別姓が導入された場合には、結婚時に夫婦どちらの姓にするかを揉めることはなくなるが、子供が生まれた場合には夫婦どちらの名字にするかを決定しなければならないことに変わりはない。それは多くの夫婦にとって、問題の先送りに過ぎず、むしろ子供が原因で揉めるくらいなら、結婚時にはっきりと決めておいた方が子供にとって間に挟まれる形にならず、子供の為には良いと思えるのである。
また、子供が生まれた時に、どちらの名字にするか決めるとすれば、すでに結婚後、出産後であり、その件で揉めて夫婦間の中が悪くなり、離婚も増えることになるだろう。
先の内閣府の調査において、「夫婦の名字が違うと、夫婦の間の子どもに何か影響が出てくると思いますか」との問いに、「子どもにとって好ましくない影響があると思う」が62.6%、「子どもに影響はないと思う」の32.4%を大きく上回っている。
「夫婦同姓で困っている女性がいるから、選択的夫婦別姓だ」と述べる人々は一部にいるが、多くの一般の人々は、それよりも「子供への影響はどうか」ということを第一に考えているように思う。もちろん、現実に結婚して姓を変えることで不自由をしている人々はいるであろう。その場合の対策を別途考えることはあるとしても、それを理由に夫婦別姓の制度を導入するということは、子供の観点を考えれば絶対に避けなければならない問題なのである。
不便さは「旧姓使用」でほとんど解決される
現在では、経済界からの指摘のほとんどについて、旧姓の使用が可能である。旧姓での論文執筆も出来るし、不動産登記も併記という形ではあるが可能となった。不便ということであれば旧姓使用が出来る事柄をより広げる方向に行くべきであって、家族同姓という家族のあり方を根本から変えるべきではないと考えている。家族同姓というのは家族のあり方の問題であって、不便だから簡単に変更するという問題ではない。
選択的夫婦別姓というと、選択肢が広がったような良いイメージなのかもしれないが、このことは夫婦が出産の時に、争いが今よりも増えることを意味する。子供にとって家族は一丸となって自分をしっかりと支えてくれる存在でなければ、健全に育って行かれないが、夫婦別姓では、子供自身が望んでいなくても、必ず親子別姓、時には兄弟別姓も生じてしまう。姓は単なる個人の符号ではない。家族(時には家系も含む)としてのチーム名なのである。
「家庭の不和」を助長し、少子化をももたらす「別姓」
子供や家族に関する多くの社会問題の背景には、家族のあり方が大きく関わっており、(親の)個人の自由が最優先で、(親の)必要な時だけ支え合う家族では、子供は育たない。
法は「個人」「自由」「権利」を至上のものとしてきた為に、気付かぬうちに家庭内にまで入り込み、家族の一体性の認識を破壊し、家族の弱体化を助長しつつある。
現在の自民党総裁は、夫婦別姓に賛成の立場である。しかし、夫婦別姓は、選択するか、子供はどちらの姓にするかで争いを招き、夫婦の関係も悪化させ、離婚も増加させる。家庭の不和は子供の成長にもマイナスである。悪い意味で、離婚率の増加、少子化、少年問題にも貢献してしまうように思うのである。