天岩戸神社に舞を奉納して 酒井はな氏(舞踊家) 島地保武氏(舞踊家・振付家)【インタビュー】(「日本の息吹」令和6年2月号より)
能とダンス
― 島地さんは世界的芸術監督で振付家のウィリアム・フォーサイスが主宰するフォーサイスカンパニー(ドイツ・フランクフルト)で活躍され、酒井さんは新国立劇場バレエ団のプリンシパルとして世界の巨匠たちと共演、平成29年には紫綬褒章を受章されました。そんな日本を代表するダンサーのお二人ですが、日本の伝統芸能である「能」とも接点があられるとか。
酒井はな 私は、シテ方 観世流の能楽師、津村禮次郎(つむられいじろう)先生と渋谷の能楽堂で10年にわたって共演させていただいています。
― バレエと能とは一見、異色のコラボのようですが、酒井さんは、アメリカの公演で観客から「あなたは能の香りがする」と言われたとか。
島地保武 津村先生は、「溜めることができる珍しいバレエダンサーだ」と、はなさんにかねてから注目しておられたらしいんですね。「間」を共有できるということかなと。
酒井 津村先生の所作に合わせていくんですけど、例えば、顔の角度を少し変えるだけで、悲しいとかの表情を演じ分けられるんですね。
島地 バレエも能も型を大事にしています。僕も津村先生に教わったことがあるんです。ヨーロッパに渡る前に日本的なものを習っておきたいと思って。三歩で何千里を思わせるような能の所作に魅かれていました。実際にヨーロッパでそれが活かされたかはわかりませんが、最小で最大を表現する日本的なものは大切にしたいなと。
酒井 繊細なんですね、日本のダンサーって。
島地 外を察知するだけでなく、内側に深く思いを落とす。そういう内に落とす力、内観する力が日本人は強いのかなと。
憧れだった天鈿女命
― さて、天岩戸神社での奉納演舞ですが、そもそもどのようなきっかけで?
島地 注連縄張神事のスタッフの一人、登山家・山岳ガイドの広田勇介さんが学生時代のサークルの仲間で、彼から「芸能発祥の地で踊りませんか」とお誘いを受けました。突然のことで最初は「えっ、何?」という感じだったのですが、詳しく説明を聞いているうちに「やるでしょう、はい」と決めました。
酒井 すごく、うれしかったの、私。実は、お話を頂く前から、折に触れて二人で「日本で踊りをやっているからには天鈿女様に踊らせていただいているという心持ちが大切だよね」と話していたんです。そうしたら本家本元にお呼ばれされて、びっくり!行かせてもらえるまでになったのかしらと、とても光栄に思いました。
― 下見のとき天鈿女命と猿田彦神の夫婦神を祀っている荒立神社にも参拝されたとか?
島地 あそこはいいですねえ。素朴でぎらぎらしたところが全くなくて、気づくと長い時間そこにいたというくらいエネルギーをチャージできました。大好きになりました。
ここ(聖地)にいることを許していただけるように
― 芸能の神、縁結びの神ですから、まさにお二人にぴったりの場所ですね。そこも含めて改めて高千穂の印象は?
島地 音の振動が強くてびんびん響いてきましたね。風で木々が揺れる音、鳥の鳴き声、川のせせらぎ、参道の砂利の音…僕がやっているコンテンポラリーダンスは「場踊り」ともいわれるように即興性を大事にする。場の力を全神経で感じ取って踊りに表現していく。その意味でも格好の舞台でした。
酒井 私は母と旅行に来て以来二回目でしたが、清浄な空気感がいいですね。
― 奉納演舞の構成は?
島地 一緒に下見に行ったドラムの梶原徹也氏と篠笛の阿部一成氏と話していくうちに、宇宙創成からだよね、と。ビッグバンで宇宙が誕生して天地と四方の六方の空間の広がりが生まれていく。ドラムと笛の音に合わせて「六方」の踊りをまず僕がして、その後、イザナミ役のはなさんが登場して、イザナギ役の僕と国づくりを始める…というのが前半。後半は僕が猿田彦神、はなさんが天鈿女命で夫婦神を演じていく。
― 迎えた本番はいかがでしたか?
島地 実は、第一回目は直前の怪我で僕は出演できませんでした。第二回目も怪我を抱えた状態でしたので、第三回めこそはと、と思っています。ただ、第二回目で万全ではないながらも踊ったなかで感じたことはありました。場の力を感じつつ踊っていくと、それに合わせてドラムと笛もリハーサルとは違う即興的な演奏をしてくれました。何よりも、はなさんがそこに居ることを意識して、僕もここに居させていただくという感覚を大事にしてい
ました。
酒井(*) 私も同じです。「ここに居させていただく」ということを一番にしていた気がします。こうやって踊ろうというのではなく、ここに居ることを許していただけるように、という気持ちで舞いました。自分の意思で、という感覚がまるでありませんでした。私は普段から踊っているときは、自分の身体はその時の役柄の器となっていると思ってきました。新国立劇場でプリンシパルとして踊っていた20代の頃から徐々にそのような感覚は始まっていた気がします。奉納演舞ではいつにも増して、己を消していたと思います。今まで踊ってきたのは、ここに立たせていただくためだったのではないかとさえ思うほど充実感がありました。
島地 もうひとつ心に留めていたのが、「おかしみ」です。普段は二人とも西洋の踊りをメインにやっているので、何か崇高な感じの方へ寄りすぎていたというか…。ここでは天岩戸を開くために神々を笑わさなければならないので、どことなくおどけたり、ふざけたり、といったところがなければと。
酒井 ただ美しいという踊りではなく、神々が「わーっ」と笑い合うエネルギーを誘発するような。ですから私自身も楽しみたいと。
島地 観客を神々と見立てて、その人たちが自然と体が動き出すような感じになればいいなと。「さあ一緒に踊りましょう」というのではなく、内面から動き出すような。実はそのようなことは普段の舞台でも意識していて、誤解を恐れずに言うと、僕の体とあなたの体とはひとつですよ、あなたのご先祖様も含めて踊り出しますよと。
― 時空を超えてつながっていく…。実際に一人のお子さんが踊り出したのが印象的でした。
酒井 そうそう、視界に入ってきました。あ、踊っているなと(笑)。
お捧げする踊りとは
酒井 私は今回のご縁をいただいて、改めて古事記を読み直しました。そこにはさまざまな神様が登場する。日本人って大自然のすべてのものを神様として祀り感謝しながら生きてきた民族なんだなあと思い出すことができました。すべてのもの、ことに感謝する―そんな気持ちで一日一日を丁寧に生きていくことが、舞台でのパフォーマンスにつながると、より思うようになりました。
― 酒井さんは、紫綬褒章受章のとき、「一つ一つの舞台を、これで最後だという気持ちで踊っている」とおっしゃっていましたが、それは日常生活に直結するのですね。
酒井 バレエダンサーは過酷なトレーニングを積み重ねます。アスリートのごとく練習量がものすごいんです。それで日々摩耗しています。身を削るほど体を酷使することがいい舞台につながると思い込むことでそれを乗り越えようとしていた時期もありました。でも、そもそもこの体も自分の所有物ではなく大自然の一部であり、この与えられた体に感謝してケアして大切にしなければという気持ちが強くなりました。
島地 日々いろんなことに気が付いてそれが楽しみとなるような…つまるところ飾らないで、素の自分でいることが大切なのかなと。
酒井 そう、神様の前で踊るときに、素の自分でいられたらよろこんでいただけるのではと。
― 別のインタビューでは奉納演舞について「お捧げするような踊りとは、どういうものなのか」と考えたともおっしゃっていましたが、それがその答えのひとつだったのですね。
酒井 憧れだった天鈿女様がそれを教えてくださったのだとしたら素敵ですね。
― 踊りの原点に帰るようなご体験だった…
酒井 元々どこの国でも踊りの発祥は神事からだと言われています。祈りですね。神様によろこんでいただけるように舞を捧げた。
― そういえば、第一回の奉納演舞のときは、新型コロナウイルス感染症の蔓延で世は自粛ムードでした。お二人は「芸術に自粛はない」とコロナ禍のなかでも動画配信などさまざまな工夫で活動を続けられたとお聞きしましたが、その確信は踊りの本質―芸術芸能が神事に由来するということを直感されていたのかもしれませんね。
島地 そこまでの意識はなかったかもしれませんが、芸能に携わる者としてやめるのはおかしい、ということは直観的に感じていました。
酒井 芸術芸能は衣食住とは違い、なくてはならないもの、とは言い切れませんが、しかし、精神的なところではとても大きなものを与えることができると思います。作品を鑑賞し心が動く、すると奮い立つ力が湧いてくるというような。
― 日本の舞とは、「魂鎮」の舞だとどこかで聞いたことがあります。魂を振り起こし、呼び覚ましていくのだそうですが、コロナで委縮した魂を振り起こすためにも芸術芸能は大切なのだと改めて思いました。奉納演舞の今後は?
酒井 私は10年は続けたいと思っているんです。試行錯誤しながら、より納得できる舞に近づけたい。
島地 どのように発展していくか、これからが楽しみです。また、どうやって継承させていくか、ということも念頭にはあります。
酒井 10年で次代につなげるものに高めていかねばと思います。
― ますますのご活躍を祈念申し上げます。本日は貴重なお話、まことにありがとうございました。
(令和5年10月25日インタビュー)