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葉隠の里から② 沖縄行幸 ―昭和天皇のご無念と共に記録にとどめおくべきこと 彌吉博幸/コラムニスト(「日本の息吹」令和5年1月号掲載)

彌吉 博幸(やよし ひろゆき) コラムニスト (佐賀市在住)
地元FMラジオなどで情報発信しています。葉隠の里から世の中のあれこれについて語りたいと思います。


ハイビスカスと奉迎の提灯 (イラスト/熊谷美加)

◆今上陛下の沖縄行幸

 天皇皇后両陛下は10月22日、沖縄県へ行幸啓あそばされました。両陛下は、糸満市で「国立沖縄戦没者墓苑」に御参拝、宜野湾市で行われた「国民文化祭」と「全国障害者芸術・文化祭」の開会式などに出席されたそうです。

 訪問される先々では、大勢の人々が大歓迎し、那覇市では奉迎の提灯パレードも開催されています。

◆三代にわたる沖縄への思い

 沖縄県は先の大戦で全県が地上戦の舞台となり、大きな惨禍を蒙りました。このため、現在の天皇である今上陛下、また、その御父君の上皇陛下、さらにその御父君である昭和天皇は、三代にわたり、沖縄に特別な思いを抱いてこられました。

 今上陛下は、これまで幾度も沖縄を訪問しておられますが、天皇としてのご訪問は、今回が初めてです。また上皇陛下は、御在位中に幾度も沖縄を訪問されています。

 しかし昭和天皇は、天皇御在位中は一度も沖縄を訪問する機会に恵まれませんでした(皇太子時代に一度だけ御訪問)。

 昭和天皇は日本の敗戦後、全国を巡幸し、戦災に傷ついた国民を励まされました。しかし、未だ米国の統治下にあった沖縄への行幸はかないませんでした。昭和47年(1972)、沖縄が祖国復帰を果たすと、昭和天皇は沖縄訪問を念願されました。戦争の犠牲者の霊を慰め、遺族や県民に会って長年の労苦をねぎらうのがご自分の務めと考えておられたのです。

 そして、遂にその機会が巡ってきました。昭和62年10月に開催される沖縄海邦国体開会式へのご臨席が決定したのです。

◆マスコミが報じる「沖縄の県民感情」

 この時、日本会議はまだありませんでした。しかしその前身のひとつである日本を守る国民会議が、沖縄政財界と協力して実行委員会をつくり、奉迎の提灯行列を計画しました。全国の大学生の組織がその下準備をすることになり、私も沖縄へ出発しました。

 当時、マスコミ等で報じられていた「沖縄の 情況」はとても酷い内容でした。左翼セクトのアジビラや機関紙から、「朝日」「毎日」などの商業紙に至るまで、皆一様に「人々の反発が強かったので、これまで天皇は沖縄に行けなかっ た」と書いてありました。

 1987年5月8日号の『朝日ジャーナル』 は「証言 天皇と沖縄」という特集を組み、6名の県民の声を載せています。うち反対派は4名で、「天皇は沖縄を捨て石にした。よく来れるものですね」「(沖縄県民は)天皇の名のもとに死に急いだ」などのおどろおどろしい見出しが並んでいます。一方賛成派はその半分の2名で、うち一人は日本を守る沖縄県民会議議長の松川久仁男氏、もう一人は旅館を経営するおばあさんで、「戦争とは別だよ。天皇陛下はおがまなきゃ」というちょっと変わった(と読者に印象付けるような)意見を載せていました。

◆奉迎の機運に満ちる沖縄

 沖縄に到着した吾々の任務は、朝早くから夜まで、家々を次々に訪問して、天皇陛下の奉迎を呼びかけることでした。どの家でもじっくり語りこんだので、当時の沖縄の方々の考えをかなり正確に知ることができたと思います。学生の派遣は夏秋の二度にわたって実施され、訪問軒数は、夏は約5000軒、秋は2000軒にのぼりました。宿舎は支援者の方の経営する幼稚園で雑魚寝、朝は職員や園児が登園する前に出発し、夜は園に戻って反省会を行い、どういう話が聞けたかを共有しました。

 そこで明らかになった沖縄県民の方々のお気持ちは、マスコミの報道とは全く違ったものでした。大部分の方が、天皇陛下をお迎えしたいという気持ちを強く持っておられたのです。3.8%が「来県反対」、若者などを中心に 22% が「無関心」、残りの約74%は「歓迎」でした。 「歓迎」が圧倒的に多いのです。県民の多くは 天皇陛下を尊敬していました。また、前掲の『朝日ジャーナル』は、「戦争体験を持たない若者が天皇を許容する」と書いていますが、これも間違いです。吾々が会話をした人の半数以上が、 実際の戦争を経験された年配の方々でした。

 以下、沖縄の方々から聞いた話の中で、多くの人に共通する内容を列挙しておきます。

【基地問題】
基地反対運動をしている反戦地主も本当は基地がなくなっては地代が入らなくなるので困る。 一坪地主などで騒いでいるのは沖縄県民ではなく、内地から来ている人だ。

【マスコミ】
沖縄の新聞(琉球新報、沖縄タイムス)はおかしい。誰もそんな内容は信じていない。

【靖國神社】
沖縄戦では学徒隊などで多くの人が戦って亡くなっているのに、靖國神社に祀られていないのはおかしい。
(靖國神社には、鉄血勤皇隊や 「ひめゆり部隊」などの女子学徒隊、民間人で軍に動員された防衛隊等の方々が祀られていることを伝えると、「知らなかった」「本当によかった」と皆さん感動されました)

【昭和天皇御来県】
天皇陛下を大歓迎する。是非おいで頂きたい。 戦争で亡くなった人を慰霊して欲しい、等々。

 自分は、創価学会の人にも幾人か遭遇しました。その全員が「今、世界平和のために天皇陛下と池田大作先生が尽力なさっている」とおっしゃっていました。他県の学会員からは、こ のような形で天皇陛下のお話を聞いたことがありません。

 奉迎運動は県民の圧倒的支持を受けて順調に進みました。

◆無念の行幸中止

 ところが9月、昭和天皇の御不例が俄(にわか)に告げられ、行幸は中止となってしまったのでした。我々は大いに落胆しました。陛下のご容態もと ても心配でした。

 昭和天皇の御名代(ごみょうだい)として皇太子殿下(現在の上皇陛下)が沖縄へ行啓されることになり、吾々は目標を皇太子殿下の奉迎に変更し、活動を再開しました。

 この頃のお気持ちを昭和天皇は後に次のように詠まれています。

思はざる病となりぬ沖縄をたづねて 果さむつとめありしを

 その後も沖縄行幸は再度計画されましたが、天皇のご体調もすぐれず、とうとう最期まで実現しませんでした。

 昭和64年1月7日、崩御。

 昭和天皇の沖縄へのお気持ちと、この時の沖縄の方々の奉迎の気持ちを、吾々は歴史にしっかりと記録しなくてはならないと思います。


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