
葉隠の里から③ 『鎌倉殿の13人』 ―後白河法皇と後鳥羽上皇の描かれ方はこれでよいのか? 彌吉博幸/コラムニスト(「日本の息吹」令和5年3月号掲載)
彌吉 博幸(やよし ひろゆき) コラムニスト (佐賀市在住)
地元FMラジオなどで情報発信しています。葉隠の里から世の中のあれこれについて語りたいと思います。
◆大きな影響を持つ大河ドラマ
昨年の暮れ、NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送が終了しました。大河ドラマが国民全体に与える影響は決して小さくありません。その登場人物に縁(ゆかり)の史跡には多くの観光客が訪れ、関連する書籍も多数出版されます。
私事にわたって恐縮ですが、自分も、子どもの教育のために大河ドラマだけは観せるように心掛けました。他のことはほとんど放任だったので、学校のテストは『サザエさん』に出てくるカツオのような点数でしたが、大河ドラマのお陰で、源頼朝、織田信長、豊臣秀吉、吉田松陰などの歴史上の人物の名前や日本史の大まかな流れを覚えることができました。
しかし一方、大河ドラマには、「これはちょっと違うのでは?」という内容も時々あります。
『鎌倉殿の13人』は、人気作家の三谷幸喜さんによる脚本、北条義時役の小栗旬さんや北条政子役の小池栄子さんらの好演で、多くの人々の気持ちを捉えましたが、作中の後白河法皇や後鳥羽上皇の描き方には、余り共感できませんでした。お二方とも常に謀略を巡らして人を欺(あざむ)き、陥(おとしい)れることばかりを考えている人物として登場するからです。後白河法皇は院宣などを乱発し、平氏や木曽義仲、源義経、源頼朝らを次々と争わせたことになっています。また、後鳥羽上皇も同様に謀略家として描かれていて、承久の乱に敗れた後のシーン(第43話)では、僧侶の文覚が上皇の頭に噛みつくという意味不明のお笑い?シーンまであります。
武力で圧倒的に優位な武家に対して、院やその近臣が策略を以て対抗したことは歴史上の事実でしょう。またドラマですから、ある程度は事実と違う面白い脚色も許容されると思います。 しかし、たとえそれらを割り引いたとしても、 これはさすがにやり過ぎではないでしょうか。

◆戦乱を好まれなかった後白河法皇
実際の後白河法皇は、武家同士を争わせるために院宣などを乱発された方ではありません。争いを防ぐために力を尽くされています。治承五年(1181)、平清盛が亡くなり、その後継者の平宗盛が院に恭順を表わした際には、東国の源氏諸勢力との和平を平氏に提案されています。以前のように源氏、平氏が共に朝廷を護る形に復そうとされたのです(『玉葉』)。しかし平宗盛はこれを拒絶し戦闘を継続、その結果、源氏の一族である木曽義仲の軍勢に大敗してしまいます。
平氏が京都を去ると、今度は源氏同士が争うようになります。寿永二年七月(1183)、京都に入った木曽義仲と、鎌倉にあった源頼朝との間に対立が生じました。この時も法皇は頼朝に、義仲と戦わないように命じられています。法皇は、木曽義仲にも頼朝と戦わないことを要求されましたが、義仲はこれを拒絶します。義仲軍は法皇の御所である法住寺殿を攻撃、院を守護する北面の武士等を殺傷し、頼朝追討の院庁下文を出すことを強要しました(『玉葉』)。
寿永三年正月になると、ようやく鎌倉の源頼朝によって派遣された源義経らの軍勢が到着、木曽義仲軍を破ります。源義経は優れた軍略家として有名です。
義経は源頼朝の実弟です。しかし義経と頼朝は次第に疎遠になってゆきました。『鎌倉殿の13人』では、本当は仲良くしたい頼朝・義経の兄弟を仲違いさせるために、法皇は、義経を常に自分の手元に置こうとします。実在の法皇も、頼朝の勢力が大きくなり過ぎることを嫌い、義経を重用されたのかもしれませんが、同時に義経に好感を持っておられたことも当時の史料からうかがえます。それに法皇は、頼朝と義経が戦うことを決して望んではおられませんでした。
元暦二年十月(1185)、源頼朝は遂に義経討伐を決め、京都へ刺客を送ります。しかし義経はこれを返り討ちにし、法皇に頼朝追討の宣旨を要求しました。法皇は義経を幾度も制止されますが、最後は義経に恫喝されるような形で頼朝追討の院宣を出すことになってしまいます(「玉葉」)。
しかし『鎌倉殿の13人』 (第19話)では、法皇は、易々と義経に頼朝追討の宣旨を与え、戦況が頼朝に有利とみるや今度は頼朝に義経追討の院宣を与える軽薄浮薄な人物として描かれています。
第22話で法皇は崩御されます。その場面では次のようなナレーションが流れました。「 乱世をかき乱すだけかき乱し、日本一の大天狗と言われた後白河法皇が死んだ」
◆承久の乱―鎌倉幕府の非道な仕打ち
『鎌倉殿の13人』では、後白河法皇の孫である後鳥羽上皇も謀略家として描かれています。 後鳥羽上皇は、幕府を意のままに操るために、鎌倉幕府の三代将軍・源実朝を籠絡し、駒のように冷淡に扱う人物として登場します。
実在の上皇も、実朝を通して幕府への影響力を強める意図をお持ちであったのかもしれませんが、一方で、心温まる交流もあったのではないでしょうか。上皇は、実朝と和歌等を通じて深い交流があり、実朝の妻は上皇の従妹でした。実朝という名前も上皇の命名によるものです。
健保七年一月(1219)、源実朝は、同じ源氏の公暁から突然暗殺されてしまいます。幕府にも朝廷にも大きな衝撃が走りました。
上皇との深いパイプを持っていた実朝が亡くなったことで、朝廷と幕府の関係は急激に悪化します。承久三年五月(1221)、遂に上皇は、 鎌倉幕府の執権・北条義時追討を全国に呼びか けました。世に言う「承久の乱」の始まりです。
上皇方の武士等の奮戦も空しく、戦いは幕府方の圧勝に終わりました。執権・北条義時による戦後処理は苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)を極めます。仲恭天皇を廃して代わりに後堀河天皇を立て、後鳥羽上皇を隠岐に、順徳上皇を佐渡に流罪とし、上皇方の多くの公家や武士が処刑されました。
◆北条義時を諭(さと)した明恵上人
『栂尾明恵(とがのおみょうえ )上人伝記』という本には、後鳥羽上皇らを流刑にした北条義時を、明恵上人が諭したという話が載っています。
明恵は義時に言います。
「わが国は神代より天皇の治められた国です。武力で都が占領され、上皇を島にお移しするなどの処分があって、人々は嘆き悲しんでいます。このような道理に背くあなたではないのに、どうしたことかと、お会いするたびに不思議でもあり、いたわしくもあります。」
すると義時は次のように答えます。
「国の乱れは自分たちの責任であり、神仏に願をかけて乱れのもとを断つために戦をかまえましたが、ここにいたっては苦悶するばかりです」
そして、はらはらと涙を流したというのです。
実は『明恵上人伝記』の成立は、上人が亡くなったかなり後のことで、この話の真偽の程は分りません。しかし後世、多くの人々の間でこの逸話は信じられてきました。「天皇を流刑にするような非道をはたらいた北条義時が、何の反省もしないはずはない、必ず悔いているはずだ」と、日本人は信じたのだと思います。実につつましやかな話ではないですか。
『鎌倉殿の13人』は、よく出来た面白いドラマではありましたが、このような日本の歴史や皇室への「つつしみの心」に少し欠けているところがあったような気もします。