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葉隠の里から⑦ 日本の終戦 繆斌(みょうひん)工作の夢 ―「原爆投下」も、「ソ連参戦」も、「日本国憲法」もない和平の選択はあったのか?! 彌吉博幸/コラムニスト(「日本の息吹」令和5年9月号掲載)

彌吉 博幸(やよし ひろゆき) コラムニスト (佐賀市在住)
地元FMラジオなどで情報発信しています。葉隠の里から世の中のあれこれについて語りたいと思います。

繆斌 (イラスト/熊谷美加)

◆戦後の混乱の淵源はどこにあるのか?

 今年も終戦の日が巡ってきました。昭和20年(1945)8月、日本はポツダム宣言を受諾し、連合国に降伏しました。連合国軍の占領下では、極東国際軍事裁判で多くの罪なき日本人が殺され、言論界は検閲によって占領軍のマインドコントロールを受けるようになりました。欠陥だらけなのに改正が世界一難しい「日本国憲法」も押しつけられました。現在の日本の政治の混乱の淵源の多くは、この占領時代にあると言っても決して過言ではないと思います。

 では日本には、ポツダム宣言受諾以外、戦争を終結させる方法はなかったのでしょうか。

◆二つの中国政府と「繆斌(みょうひん)工作」

 実は大東亜戦争の末期、多数の終戦工作が進行していました。有名なものだけでも、「バッゲ工作」、「ワイズ工作」、「ダレス工作」等があります。しかし何と言っても最も有力であったのは、中国の重慶政府と単独和平する「繆斌(みょうひん)工作」でしょう。繆斌は当時、南京政府の要人でした。

 当時、中国には二つの政府がありました。一つは蒋介石の重慶政府です。これは1911年の辛亥革命によって成立した中華民国の正統政府で、孫文の弟子である蒋介石によって率いられていました。蒋は中国共産党と一緒になって抗日戦争を戦いましたが、日本軍に連戦連敗、多くの中国民衆を置き去りにして、中国の奥地重慶に逃げ込み、抗戦を続けていました。

 もう一つは汪兆銘おうちょうめい(おうちょうめい)(号は精衛)の南京政府です。汪は中国革命の父・孫文から最も信頼された弟子で、蒋介石政権のナンバー2でしたが、蒋がいつまでも抗日戦争を続けることに反発し、警戒厳重な重慶を命がけで脱出します。そして、日本の協力を得て、日本軍が占領した地域の中国民衆を保護するべく、新たに南京政府を樹立したのでした。

 繆斌の和平工作は、日本が、この南京政府を解消し、重慶政府との単独講和を行い、それを機に米国、英国とも講和を進めるという内容でした。

 昭和20年1月、繆斌は、小磯国昭内閣の特使・山県初男大佐と上海で和平案仮協定を結びました。そして3月、単身日本へ渡ります。最高戦争指導会議(小磯国昭首相、重光葵外相、杉山元陸将、米内光政海相)へ参加するためでした。

 繆斌の示した和平の条件は次のとおりです。

 ①日本軍の中国からの完全撤兵
 ②南京政府の解消(要人は日本政府で収容)
 ③重慶政府を仲介とする米英との和平
 ④満州問題は別に協定

 これは日本にとって決して悪い内容ではありません。「満州問題は別に協定」というのは、満州国は最低でもしばらくはそのままにしておくという話です。中国本土の日本軍は日本本土だけではなく満州へも撤兵できる。満州に日本軍がいればソ連軍の侵攻を防ぐことが出来、蒋介石はそれを望んでいました。

 また、南京政府の解消を「信義にもと(もと)る」と言う人もいますが、日本が戦争に負けてしまえば、南京政府の要人たちは皆、重慶政府に「漢奸」として処刑されてしまいます。

 それに重慶政府と日本が和平すれば、米国、 英国は日本と戦う大義名分がなくなります。そもそも「ハル・ノート」も重慶政府を救うために出されたようなものです。主敵のドイツの敗戦が濃厚となって以降、連合国内では早期和平を求める世論が強くなっていました。1945年7月の英国の総選挙では、和平を掲げるアトリーの労働党が勝利し、チャーチルを激怒させています。米国も似たような状況で、米英が日本との和平を受け入れる可能性は決して小さくはありませんでした。

◆重光葵外相の反対

 小磯首相と緒方竹虎情報局総裁は、繆斌を最高戦争指導会議へ呼ぶことを提案しました。ところが、重光葵外相がこれに猛反対します。「繆斌は蒋介石にはつながっていない」「日本の政策を混乱させるための和平ブローカーである」と断じました。杉山陸将と米内海相にも重光から事前に根回しがあったのでしょう。二人は繆斌招致に反対でした。

 小磯は粘りましたが、結局繆斌は、最高戦争指導会議に出席することもなく、4月3日、空しく中国へ帰されたのでした。

 戦後、重光が書いたものを見ると、繆斌のことをよく知らなかったことがわかります。

 蒋介石と繆斌は古い付き合いでした。中華民国の士官養成学校である黄埔こうほ(こうほ)軍官学校が開設されたときの初代校長が蒋介石(37)で、繆斌(21)は同校教授部の電気科の教官でした。この頃繆斌は「孫文主義学会」をつくり、共産主義に対抗しましたが、この学会には後に蒋介石の側近№1となる載笠たいりゅう(たいりゅう)(軍統局長)が後輩として入会し師弟の関係を築いています。後の「繆斌工作」は、この載笠との連携によるものでした。1926年以降、繆斌は国民党の中央執行委員を連続して務めていました。しかし、1935年には反日侮日世論の激しい中で、日本との友好提携を訴えたため、中央執行委員選挙に落選しています。1937年には、蒋介石の容共路線に反発して袂を分かち、1940年に汪兆銘の南京政府が成立すると、立法院副院長、軍事委員会委員、考試院副院長などの要職を歴任しながら、日中の連携を説く東亜連盟運動を推進しています。

 日中の友好提携にかけてきたその経歴を見る限りでは、繆斌ほど和平工作の仲介者に適した人はいないと思います。

◆繆斌の最期

 実は自分は、繆斌の長男・繆中氏にお会いした事があります。平成13年(2011)に来日し、高池勝彦弁護士宅に滞在していました。繆中氏は言います。「工作は本物でした。父は蒋介石総統から、和平工作に力を尽くしたことで褒賞されています。工作が偽物なら蒋介石は褒賞しないでしょう。私はこの工作が行われた当時、父とは離れたところで暮らしていました。しかし 1945年の終戦後、上海の母からの手紙で、父がそのような事(和平工作)に従事したことを知りました。上海の自宅には、父の書いた本『我的対日工作』の原稿の写しが二、三冊あり、その中には、重慶との間の電報などもみんな入っていたのですが、戦後共産党が来た時に、母がそれらの資料を全て渡してしまいました。手元には何も残っていません」

 また、かつて繆斌が指導部長を務めた新民塾の塾生(第五期)であった塩田喬氏からは次のような話を聞きました。「私は南部圭介氏(頭山満翁の腹心)に聞きました。南部氏が、戦後台湾で蒋介石総統に会った際、総統は、繆斌を派遣し日本と和平を画策したが不成功に終わったのは残念であったと言われたそうです」

 蒋介石自身が繆斌工作を「画策した」と言っているのです。

 中国へ帰った繆斌は、蒋介石から一旦褒賞されますが、その後逮捕され、翌年銃殺されてしまいます。蒋介石が徹底抗戦を叫びながらも、裏で日本との和平を画策したことを中国共産党から追及されるのを防ぐための口封じであったと言われています。

 歴史に「もしも」は禁物ですが、とても残念でやりきれない気持ちになります。


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