サスペクト(疑念)ってだいじね。
昨日、フェイスブックのタイムラインに、こんな言葉が流れてきた。
対話は、それをつうじて各人が自分を超えることを希(ねが)ってなされる。相手へのリスペクト(敬意)と自己へのサスペクト(疑念)がなければ成り立たない。
(鷲田清一『折々のことば』より)
相手へのリスペクトと自己へのサスペクト。
なんていい言葉だろう、と思った。
そして、リスペクトとサスペクトがらせんのようにぐるぐる回って、各人が自分を超えていく画が浮かんだ。
そして、僕のすきな人たちは、みな、自分をいい意味でサスペクト=疑っていることに気が付いた。
ほぼ日刊イトイ新聞の主宰、糸井重里さんは、かつて「善いこと」をすることについて、こんなコラムを書いている。
じぶんが、「善いこと」と思われることを、
しようかなと思いついたときに、
ぼくは「善は急げ」と考えないようにします。
「善は待てよ?」と考えるようにします。
ほんとに善なのか、誰にとって善なのか、
善というイメージのなかに、
じぶんの怪しい気持ち、
功名心だと虚栄心だとかを
紛れ込ませてはいないだろうか。
じぶんの生来のいい加減なところを、
追いつめて息苦しくしてはいないだろうか。
そんなことをしばらく疑います。
で、「ま、いいか」と思えるようだったら、
「ひとつの自分勝手なこと」として、やることにします。
福祉という「善いこと」に携わる仕事をしている立場からすると、この文章はとても響く。
だれかに対して「善いこと」ができることは、うれしいことだ。
でも、同時にそういう自分に酔ったり、「正しさ」を盾にしてそうしない人たちを攻撃したくなったりする危険もはらんでいると思う。
「善いこと」をしているんだから、自分は許される。
そんな発想でいた時期が、少なくとも僕にはある。
自信のなさを隠すために「善いこと」を隠れ蓑にしていたのだ。
そこで、自分をうたがえるか。
そのサスペクトが不足していると、僕たちの思考は固まってしまい、独り善がりになってしまうのだと思う。
「じぶんの生来のいい加減なところを、
追いつめて息苦しくしてはいないだろうか。」
僕はよく「善いことを」「正しいことを」と思うあまりに、自分を追い詰めてしまうことがある。そうして窒息しそうになる。
そういうとき、他の人やマンガやアニメに触れて、ふっと力をゆるめてもらえることがとても助かる。
なにをするにせよ、ユーモアだとかやわらかさだとか余白ってだいじだと思う。サスペクトは、わりと嫌われがちだけど、そのためのすき間をつくってくれる。
自分を信じて疑わないって、いいことだと思われがちだけど、違うと思う。
たいていの苦労は、自分が信じたものによってもたらされるのだから。