僕たちはどうしてこんなに脅かされているんだろうね。(メルマガ『生きているQ』より)
この記事は、㐧二音楽室のメルマガ『生きているQ』の配信記事を加筆修正してお届けしています。(配信登録はこちらからどうぞ。)
こんばんは。澤です。
聴いてくださり、
ありがとうございます。
先日、大阪の石切で開かれた
円坐と家族についての場に
参加してきました。
そのうちの一部、
本編ではなく
終わった後の雑談でした話を
こんな感じで記事にしました。
「障がい者」ではないけれど、
社会に適応しづらい
「妖精」的な人々は
どのように
生きていったらいいのか。
この中で僕は
こんなことを書きました。
見た目には健常に見えるから、妖精たちはその障がいを自力で克服しようと努力する。しかし、それは自らの姿を力ずくで「社会人」の型にはまるよう強いることになる。うまくいかなければ「理想」を掲げたりして強制力を強める。そうしないと生きていけないと思うからだ。
自分もしたことですし、
まわりの友人たちを見ていても
そのための努力をして
疲弊しているなと
感じることがあります。
このときに気になるのは
「そうしないと
生きていけないと思う」
という部分。
よく考えると
理屈に合わないのに
深くそう思い込んでいる。
だからこそ
「社会人」の型に
自らをはめようとする力も
強迫的になる。
うまく社会に適応している人を
(その苦しみごと)
「理想」として掲げて、
降りられなくなったりもする。
そんなふうにして
社会に適応しようとした「妖精」が
ホームである「自然」に還るには
一度、身につけた「社会」性を
剥がしていく作業が必要になります。
この帰還プロセスは
葛藤を生み、
時に大きな痛みを伴います。
しかし、それを続けていくと
次第に幼い頃から持っていた
持ち味のようなものが
現れはじめる。
僕の知人・友人の中に
このプロセスを経ないで
そこまで行った人はいないので、
もしかしたら人は
そんなふうにしか
成熟できないのかもしれません。
そんなとき大事だなと思うのは
周りに人がいること、
そして聞いてくれること。
記事の中でも引用しましたが
思想家、内田樹さんは
こんなことを言っています。
本当にコミュニケーションがうまくいっているのは、「言いよどむ、言葉に詰まる、前言撤回する」そういう状態をまわりがやさしく見守っている状態。
「言葉が育つのはデリケートなことで、想像力と愛情と忍耐が必要なんです」
葛藤とは要するに
「言いよどむ、
言葉に詰まる、
前言撤回する」
状態のことだと僕は思います。
それを目くじら立てずに
やさしく見守ってくれる
人たちがいること。
そのことによって
話し手の語彙が増え、
世界の捉え方が変わる。
そして自らの世界が
変わり、広がる。
一方、聞き手も
想像力、愛情、忍耐が
鍛えられることで
さらにやさしく
見守れるようになる。
だからこそ
「自然」への帰還プロセスには
見守ってくれる人との
共同作業だと思うし、
彼らの存在が
不可欠だと思うのです。
でもまあ、
そもそもこんなに
脅かされていなければ、
もう少しスムーズに
いくのではないかと
思えてなりません。
たしかに不安を煽ると
ニーズが生まれて仕事になるし、
人の購買意欲は
掻き立てられるんですが、
そろそろ別のやり方、
ないもんですかねぇ。