
ネロはなにゆえ昇天できたのか。
絵はわからない、とずっと思って生きてきた。
人並みに「好きだな」と思う絵はある。いいなと思うものとそう思わないものを見分けるくらいはできる。
でも、それを売ったり買ったり、まして、絵の前にじっと立ち尽くして動けなくなったり、感動して涙が出たり、
愛犬といっしょに絵の前に行って、
「とうとう僕は見たんだ、素晴らしい絵だ。ああマリア様、ありがとうございます。これだけで僕はもう何もいりません」
と言い、
「パトラッシュ、お前、僕を探してきてくれたんだね。わかったよ、お前はいつまでも僕と一緒だって。そう言ってくれてるんだね、ありがとう。パトラッシュ、僕は見たんだよ。一番見たかったルーベンスの二枚の絵を。だから僕はすごく幸せなんだよ」
と言い、
「パトラッシュ、疲れたろう。僕も疲れたんだ。何だかとても眠いんだ。パトラッシュ…」
と言って、天使がやってきて昇天してしまうなどということは、まったく分からない。
でも、これが音楽だったら、ちょっとわかる。
売り買いすることも、立ち尽くすことも、涙を流すことも、もしかしたら昇天するかもしれないことも。
だから、絵のセンサーがある人というのは、僕にとって音楽がそうであったように、それと共に生き、買ったり売ったりして、自分の身近に絵がある人なんだろうな、と思う。
今日、豊田市美術館で開催されている『クリムト展』に行ってきた。
奥さんがすごく観たいと言うので、付き添いで。
クリムト。
この言葉を聞いて真っ先に思い浮かんだのは、緑色の服をまとった神官、ブライ爺さんとともにアリーナ姫を守る誠実な若者、『ドラゴンクエストⅣ』に登場するクリフトの姿であった。
そんな「導かれし者たち……」と思っている僕とウキウキしている奥さん。
うちの夫婦は、高校野球やゲームの話題など、僕がのぼせ上がって、奥さんが白けている場合が多いが、今回ばかりは逆かもしれないと危惧した。せっかくの盛り上がりに水をさすようなことはしたくない。
でも、その心配は杞憂に終わった。
意外なほど『クリムト展』は面白かった。
「好きだな」と思う絵もたくさんあったし、初期から中期、後期と歳を重ねるにつれて、さなぎが蝶になるように「ヤバイほう」に広がって迫力が増す感じが気持ちよかった。
中でも、女性の恍惚とした表情の後に、死に化粧に行ったのは圧巻だった。
一番気持ちいい「生」の絶頂の表情と「死」の表情は、極としては正反対なのに、どこか似ているように感じられた。エロスとタナトス、というように並んで語られるのがわかるような気がした。
前半はそうでもないけれど、後半の絵には、おどろおどろしいものがたくさん描かれていて、そのことに好感を持った。思わず買った三枚の絵はがきもそんなのばっかりだった。
パネルに書かれていた文章のうち、あんまり印象に残って、何度も復唱して覚えたものがある。
「社会のしきたりにより、欲を押さえ込まれた女性たちの解放」
クリムトの絵は、その役割を果たしたというのだ。
絵を描くことが、それを見ることが、抑圧を解放したのだという。
すごいことだ。
そして、この人ならそれもあるかもしれない、と思った。
絵について何の素養もないけれど、僕にはクリムトさんが「描いてはいけないとされてきたもの」を描いた人に思えた。
そして、その絵を前にして「ある」と認められることで、女性たちの奥の奥の方で抑え込まれていたものが解放されるという現象が、起きる様子が想像できた。
それは鬼とか邪とか恐れとか気持ち悪さとか、そういった類のものかもしれない。あるいは「生」の絶頂かもしれない。
いずれにせよ、「社会的なしきたりによって抑え込まれていたもの」が「ある」と認められて、時には涙となって解放されていったのだと思う。
現代においても「社会的なしきたりによって抑え込まれていたものの解放」は求められている。僕の仕事に女性のお客さんが多いせいか、とりわけ女性の中に、それを求める渇きが強いのではないかという気がする。
今日も平日にも関わらず、たくさんの人がクリムトの絵を観に来ていた。
そんなふうに絵を観ることで、抑圧から解放される瞬間って、少なからずあるのかもしれない。
だとしたら、すごいな、絵って。
でも、やっぱり、わかんない。
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